カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第9章 その他の戦前諸国家
第9章 その他の戦前諸国家

ソヴィエト連邦

 1920年代の終わりまでにソヴィエトで作られたアニメ映画の数は増大した。だが、革新的な推進力はその勢いを失った。1929年に「未来派」のルナチャルスキーLunacharsky が人民文化大臣の職を辞した。1932年にはソヴィエトの作家たちが重大な会議を開き、新しい創作潮流----後に「社会主義リアリズム」として知られるようになるもの----を承認した。アヴァンギャルドの新たな領域を探求する----それ以前の十年間のように----代わりに、ソヴィエトのアニメーターたちは国民の文化に奉仕する役目に身を捧げた。古典文学を翻案したり、子供向けの作品を作ったり、民衆の伝統から造型を引き出したりすることで。

 子供向けという新しい方向性は製作の中心ソユーズデットムルチフィルムSojuzdetmultfilmという名称にも明らかである(「デット」は「子供」の意。「ムルチ」は「ムルチプリカツィヤーmultiplikatsija(アニメーション)」に由来する)。これはソヴキノSovkinoとメズラポンフィルムMezhrabpomfilmグループが合体し、1936年モスクワに設立されたものである。この方向性の一つの帰結として、アメリカンカートゥーンの特徴である丸っこい形態への傾向が見られる。これは初期ソヴィエトアニメの特徴だった創造性からの後退である。

 ソユーズデットムルチフィルム最初の監督はアレクサンドル・プトゥシコAleksandr Ptushkoである(1900年4月19日ウクライナ、ルガンスク〜1973年3月6日モスクワ)。俳優・デザイナー・ジャーナリストだった彼はキエフに建築を学び、その後機械技師になった。その発明の中でも、彼が考案した計算機はつい最近までソ連で使用されていた。最終的にプトゥシコはその技術・絵画・演劇に対する関心の全てをアニメーションの分野で一致させることができた。彼は『スタジアムの出来事』Sluchaj na stadione Случай на стадионеでアニメ監督としてデビューした。パペットのスペシャリストとして、プトゥシコは彼の最初の重要な作品でソヴィエトアニメ初の長編映画でもある『新ガリヴァー』Novyj Gulliver Новый Гулливер (1935)において多くの人形を使用した。これは人形(リリパット人)とライヴアクション----ペチヤ・ガリヴァーPetya-Gulliverは俳優が演じた----をミックスしている。少年ペチヤは『ガリヴァー旅行記』を読んでその虜となり、夢でその主人公ガリヴァーになる。リリパット貴族の腐敗と鉱夫の抑圧を知ったペチヤは鉱夫の革命を助け、それから目が覚めるのだ。

 スウィフトの本とは対照的に、プトゥシコのガリヴァーは政治的議論家で、十月革命理論の支持者である。彼の饒舌がこの映画の限界になっているとは言え、美しい背景美術や木製人形の見事な表情変化は際立っている。人形は表情豊かでサウンドとのリップシンクロも良くできている。第2作『小さな金の鍵』Zolotoj kljuchik Золотой ключикはアレクセイ・トルストイAleksei Tolstoy版ピノキオの冒険が原作で、これもプトゥシコの監督により1939年に製作された。その後彼はアニメを離れ、実写映画に移った。

 1930年から1935年の間、性急なメルクーロフMerkulov、コミサーレンコKomissarenko、ホダターエフKhodataevらはアニメーションを捨て、絵画と彫刻に戻った(ホダターエフは1934年に『手回しオルガン』Organchik Органчикを作り、1935年の『フィアルキンの出世』Kar'era Fialkina Каръера Фиалкинаが映画への別れとなった)。ツェハノーフスキーTsekhanovskyはプーシキンPushkin原作の長編(『領主と農民バルダの物語』Skaza o pope i rabotnike ego Balde Сказка о попе и работнике его Балде)の試みが未完に終わった後は時たま製作するだけになった。ツェハノーフスキーの弟子ムスティスラフ・パシチェンコMstislav Paschenkoは注目する価値がある。彼の1938年の『ジャブシャ』Dzhyabsha Дзябжаはナナイ人(北欧ロシアに住むソ連の少数民族)の民話を基にした児童映画である。

 イワン・イワノーフ=ワノIvan Ivanov-Vanoは多産な作家であり、『ブラック・アンド・ホワイト』Blek end uait Влек энд уайт(1932年。マヤコフスキーMayakovskyによる主題に基づいている)のような風刺映画や民話アニメ(『ドゥランダイ帝の物語』Skazka o tsare Durandae Сказка о царе Дурандае、1934年)を製作した後、彼もまた児童映画(『三銃士』Tri musketera、1938年)に転向した。ブルームベルグBrumberg姉妹は特に児童映画の分野で活発だった。ヴァレンティナValentina(1899年8月2日モスクワ〜1975年11月8日)とジナイダZinaida(1900年8月2日モスクワ〜1983年2月9日)はほとんど常に共同製作し、イワノーフ=ワノの『ドゥランダイ帝の物語』や『イワーシカとバーバ・ヤガー』Ivashko i Baba Jaga Ивашко и Баба Яга (1938)に協力した。

 同時期にアルメニアのレフ・アタマーノフLev Atamanov(1905年2月21日モスクワ〜1981年2月12日)がデビューした。本名はアタマニアンAtamanianで、国立映画学校のレフ・クレショフLev Kuleshovのもとで学んだ。その後、俳優や監督になる夢を捨てて、アニメーションの作画に専念した。1930年代には『北極のインク・スポット』Klyaksa v Arktike Клякса в Арктике (1934)や『美容師のインク・スポット』Klyaksa-narikmakher Клякса-нарикмахер (1935)のシリーズ演出や反戦風刺アニメ『白い小牛の物語』Skazka pro belogo bychka Сказка про белого бычкаで名を挙げた。1938年にはエレヴァンに移り、そこで製作した『司祭と山羊』Pop i koza(1941、原作はアルメニアの作家オヴァネス・テュマニアンOvanes Tumanian)でアルメニアアニメーションの基礎を築いた。

日本

 1910年頃にジョン・ランドルフ・ブレイによる初期のカートゥーンが東京で公開されるや否や、自分の技術でアニメーターに挑戦したいと考えた数人の作家たちがいた。このアニメーション映画(これは「動画」と呼ばれ、1950年代に「アニメーション」に置き換わった)のパイオニアが北山清太郎である。彼は1913年に紙と墨を用いて最初の試作品を作った。1917年には『猿蟹合戦(サルとカニの合戦)』や『猫と鼠』、『いたずらポスト』を制作した。北山の『桃太郎』(1918)は海外(フランス)で最初に公開されたアニメーションである。1921年、北山は自分のスタジオを開設した(北山はサイレント映画の字幕を書くことで商売を修得し、古典的な童話を好んだ)。その活動は1923年の大震災の打撃により、中断こそしなかったが低下した。職人的な製作方法だったにもかかわらず、大変多産な作家だった彼は年に6本製作した。

 もう一人のパイオニアが幸内純一(1886〜1970)で、彼は『塙凹内名刀(新刀)之巻(なまくら刀)』(1917)の作者である。彼は大衆読物を好んだ。1920年代初期、幸内は金井木一路と山本“早苗”善次郎とほぼ時を同じくして、アニメーションに灰色の陰影を導入した。それまでは経済性ゆえに墨でトレースされていた。

 三人目のパイオニアが下川凹天(1892〜1973)である。彼は『芋川椋三玄関番の巻』(1917)でデビューした。新聞漫画家だった彼は自分の漫画キャラを元にした作品を何本か制作した。下川は黒板にチョークで描き、撮影後に描き変えるテクニックを取り入れた。最終的には紙に描く技法を採用したが、後に眼疾のために引退を余儀なくされた。

 山本“早苗”善次郎(1898年2月6日〜1981年2月8日)は北山に学び、その後『姥捨山』と『牛若丸』を1925年に制作した。1928年には金井木一路の協力で『舌切り雀』と『一寸法師』を作った。彼は教育アニメーションにも従事した。彼は1940年代中盤まで制作を続け、第二次大戦後はプロダクションに移行した。

 ヨーロッパで最も著名な日本人作家は大藤信郎(1900年6月1日東京〜1974年6月18日)である。彼は独力で製作した。厳格な作家であった大藤はアニメーションはギャグ漫画ではないと考え、大人のための劇的な映画(エロティックな主題をも含む)に向かって進んだ。似たような作品を数本製作した後、2年後の1927年に彼は『鯨』を製作した。これはアクションとサスペンスのめざましい習作である。このフィルムはフランスで公開され、1929年以来大ヒット公開となった。このフィルムでは千代紙(日本だけにある半透明の用紙)を切り抜き、異なるガラス板上に並べて、後景から前景へ重ねていくという特殊な技法を用いた。モノクロで撮影されると、これらは大変魅力に富んだ透かしと影の世界を作り出した。『鯨』では当時一般的だったリミテッドアニメーションに対して、より滑らかで全体的な動きを目指して奮闘する完璧主義のアニメーターの努力を認めることができる。1930年に大藤は最初のトーキー作品である『お関所』を制作、1937年には最初のカラー作品『かつら姫』を制作した。

 村田安司(1898年1月24日横浜〜1966年11月2日)は1927年にデビューした。彼はアメリカンスタイルのセルをアニメーション全体に使った最初の日本人アニメーターである。多産な作家だった彼は(1927年から1935年にかけて少なくとも30本は作っている)、風刺画のスタイルとカモや猿、豚など様々な動物キャラを用いた。彼の最高傑作は『蛸の骨』(1927)である。

 1930年代に日本の軍国主義は国政を支配するまでに拡大した。1933年に日中戦争が始まると、映画館は大量の教育映画・記録映画・宣伝映画を上映することが義務づけられた。第二次大戦が勃発すると、小アニメプロダクションは製作統合を目指して合併されていった。政岡憲三(1898年10月5日〜)は俳優から監督になり、このような運命に翻弄されながらも自分のグループのリーダーとしてとどまった。彼は時局に支配されたプロパガンダ映画以外に、ポピュラーな話を原作に短編を制作した。政岡は1920年代末に秀作『猿ヶ島』(1930)でアニメーションデビューした。1932年に初めてのトーキーアニメ『力と女の世の中』を作り、タイピストに恋したサラリーマンと嫉妬深く大柄の妻とのコミックストーリーを物語った。これに続くのが『べんけい対ウシワカ』(1939)で、印象的な音楽の使い方が絶賛された。

 1943年に政岡は傑作『くもとちゅうりっぷ』を生み出した。これは朝日新聞主催の文学賞を受賞した女性作家横山美智子が書いた童話の一篇を原作としている。物語はテントウムシがドン・ファンタイプのクモに追われ、逃れるためにチューリップの中に隠れるというものである。雷神が嵐を起こすと、このチューリップだけが花の中で生き残る。それからテントウムシが隠れ家から出てきて、再び歌い始めるのである。

 政岡の元アシスタントである瀬尾光世(1911年9月26日〜)は1933年に自分の名を冠したスタジオを開設した。様々な作品に混じって、彼は「お猿三吉」のシリーズを制作した。日中戦争中に設定された『お猿三吉・突撃隊の巻』では帝国陸軍が登場し、中国のパンダによるお粗末な守りの要塞を攻撃する。瀬尾光世もまた合併を被り、1940年に彼のスタジオは大会社芸術映画社の一部門となった。戦争中にはプロパガンダ映画の他に『桃太郎の海鷲』(1943)と日本初の長編『桃太郎・海の神兵』(1944)を制作した。動物の姿をした帝国海軍が仮設滑走路を建設し、訓練を経てニューギニアの敵基地を制圧するという物語である。この映画はプロパガンダと新兵募集のために作られたとはいえ、いくつかの魅力も備えている。それはとりわけリアリスティックなアクション処理によるものである。

 以下に挙げるのは日本のアニメーションに注目すべき貢献をした人々である。中編のプロパガンダ映画の中では『フクちゃんの潜水艦』(1944)を挙げるべきだろう。関屋五十二のクレジットで出ているが、実際に制作したのは横山隆一(1909年5月17日高知〜)で、後におとぎプロを設立してTV作品を制作し、戦後アニメーションの推進者となった。この映画に撮影・脚本家として参加した持永只仁は10年後に日本の人形アニメーションの創始者となった。荒井和五郎(1907年12月11日麹町〜)は歯医者の傍ら趣味でアニメーションを作り、うち続く賞賛に勇気づけられてプロとなった。彼の処女作は『黄金の鈎』(1939)で、切り紙アニメーションである。大石郁雄もコミックフィルム『動絵狐狸達引』(1933)で賞賛に値する。

エジプト

 エジプトのアニメーションは規模的には小さく、そのほとんどはフレンケルFrenkel兄弟によるものである。ヘルシェルHerschel、サロモンSalomon、ダヴィッドDavid・フレンケルはパレスチナ、ジャッファのユダヤ人家庭に生まれ、カイロで漆塗家具の商売を始めた。『フェリックス・ザ・キャット』を見てアニメーションに魅せられた3兄弟はコマ撮り技法の研究を始めた。1936年に『ナッシング・トゥ・ドゥ』Makish Faydaを公開し、その中でトルコ帽をかぶったエジプト青年ミッシュ・ミッシュMish-Mishが登場した。続けて同じキャラが登場する作品を製作し、その中には戦争プロパガンダ『国家防衛』National Defense (1940)や『エンジョイ・ユア・フード』Enjoy Your Food (1947)などがある。エジプトの政治情勢が混乱したため、フレンケル兄弟は故郷を離れた。弟のダヴィッドはフランスに渡り、ミッシュ・ミッシュを復活させ、彼のトルコ帽をフランス風のハンチング帽に替え、名前もミミッシュMimicheに改めた。その作品は映画館には配給されず、家庭用に販売された。1964年には『美しく青きドナウの夢』Le reve du beau Danube bleuを作り、これがヨーロッパにおける彼唯一のメジャー作品となった。

 エジプトアニメのパイオニアとしてはもう一人アントワーヌ・セリム・イブラヒムAntoine Selim Ibrahim(1911年11月11日カイロ〜)がいる。彼の『エル・シェイク・バラカットの本のアジザとヨウネス』Aziza and Youness in El Sheik Barakat's Book (1938)は初のアラブ語によるトーキーアニメである。イブラヒムは1949年代にも製作し(1940年の『ドックドック』Dokdokなど)、その後はコマーシャルや実写映画のタイトルアニメを手がけた。1972年に渡米してハナ&バーベラで、1976年から1980年にはデ・パティ・フリーレングで働いた。それから引退して絵画に専念した。
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