カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第8章 アメリカ:アニメーション西へ

 アメリカのアニメーションはわずか数年で実写映画の後を追い、ニューヨークからハリウッドへその拠点を移した。ディズニーの名声と発展に引き寄せられ、アニメーターの多くが東海岸を去った。チャールズ・ミンツのスタジオは移転した。サリヴァンも移転を計画したが、実現しなかった。他のスタジオは最初からカリフォルニアに設立された。1930年代が終わるまでには、東部に本部を置いているのはニューヨーク州ニューロシェルのポール・テリーだけとなった。1942年にテリーはフロリダからマンハッタンに舞い戻ったフライシャーグループ残党と合流した。ハリウッドのメジャー会社は長編映画に自社の短編アニメを併映していた。これらの短編は小アニメスタジオと配給契約を結んで購入した場合がほとんどである。メジャーカンパニーが自身のアニメ部門を開設する場合もあり、1937年のMGMがその一例であった。以上のような製作側と配給側の財政的つながりが、地理的に近い位置にある重要な理由となった。

 かくしてアニメーションは自分より資金的に豊かな相棒であるメインストリームの映画から強い影響を受けることになった。アニメーションにとってマジックという主題は今世紀初めの20年間には常に連想されていたが、それは突然姿を消してしまった。カートゥーンは「フィルム」となり、そのルーツ----創造主としての画家の眼前で命を吹き込まれる絵----を捨て去った。アニメーションはカリフォルニアの夢工場のルールに従い、スターシステムに依存するようになった。プロデューサーは人気キャラクターを生み出そうと躍起になった。彼らは天然色・トーキー・立体感・ゴージャスなアニメーションなどの競争を繰り広げたが、それでもなおキャラクターこそが関心の中心事であり続けた。UPAでカラーやフォルムに対する関心が初めて優勢になったのは、第二次大戦が終わってからに過ぎない(1941年のスクリーン・ジェムズ作品2,3本を例外とする)。ヴィジュアルのスタイル面では、アニメ固有のグラフィック的特徴が失われた。キャメラワークや構図、カッティングは実写映画の模倣を目指した。笑いの仕かけは絵それ自体、すなわちメタモルフォーゼや非生物が突然動き出すことよりも、シチュエーションやアクシデントに基づくようになった。

 マーケットが変わったせいで、ベテランアニメーター達は才能ある後進に作画を譲り、脚本家やギャグマンになった。ギャグマンの中にはバラエティ・シアター出身のものもいた。彼らの考案したギャグがアニメ向きではなかったと推断するのは公平な見方ではないが、そのニュースタイルは実写指向であった。これは新世代のスラップスティックコメディを繁栄させ、そこではドナルドダックやバッグズ・バニーがチャーリー・チャップリンやバスター・キートンを模倣した。飛行機を避けて時計塔が折れ曲がったり、巨大な足指がフルートの一声でバレリーナに変身する、そんなことは永遠に過去のものとなってしまった。

 ハリウッド映画は別の面でもカートゥーンに影響を及ぼした。それは風刺アニメの元ネタとなったことである。有名な映画をパロディ化した短編アニメも何本かあり、当代スターのカリカチュアを登場させたもの、映画界のニュースをヒントに洒落のめしたものもあった。中にはアニメ自体のシチュエーションに自己言及したものもある。例えば、フランク・タシュリンのキャラは「ポパイに効くなら、自分にも」と言いながらほうれん草を食べたりするのである。

 以上と並行して、アニメーションは漫画とのつながりから離れていった。第二次大戦前夜に漫画のアニメ化で成功したのはポパイだけで、他には短命なものがいくつかあるだけである。この頃になると、キャラクターはアニメ用にデザインされるようになった。その反対に、ミッキーマウスやベティ・ブープ、ポーキー・ピッグ、ウッドペッカーのように、スクリーンの主役が漫画化されるという事態が起きた。アメリカンコミックはアレックス・レイモンドAlex Raymondの『フラッシュ・ゴードン』Flash Gordonのようなシリアスキャラによる活劇的な主題へと発展したが、これはアニメ作家には影響を及ぼすことなく、フライシャー兄弟による『スーパーマン』アニメ化という些細な例外が唯一あるのみである。

 スタジオの多くはディズニーを手本として作業の部門化を進めていった。デザインや寸法、仕草といったキャラクターの基本的特徴はモデルシートに固定され、アニメーターや演出家の参考に使われた。このようにしてカートゥーンのキャラクターは違うスタッフに委ねられても身体つきや性格の変化を被ることがなくなった。古き時代の無秩序状態にとってかわり、一人のディレクター率いるチームがいくつかあって、シナリオ・ギャグ部門と協力していくように組織化された。セルアニメが例外なく採用され、ディレクター、美術デザイナー、チーフアニメーター、アニメーター、動画(アニメーターが描いた二つの原画の間を中割りする)、彩色・仕上げ部門に分業化された。

 アクションはただ動くだけではない、新たな重要性を帯びてきた。アドリブを振るう機会は少なくなり、製作中に気ままに動きを変えることはなくなった。中割り法は事前にディテールの全てを決定する必要性に従うものだった。実際、描きながら先の動きを作っていく作画法はたちまち廃止された。

 現代の研究者にとって最も悪名高い面は、クレジットに信憑性が欠けていることである。オープニングに登場する名前は実際に作品に携わった人間を示すためより、次のローテーションに入っているアニメーターを埋め合わせるために選ばれることもしばしばだった。また、クレジットを左右できる人間に与えられることもあった(これは何人かのプロデューサーの場合である)。このような一見おかしな習慣にもそれなりの理由があった。ハリウッドシステムにおいて、スクリーンクレジットに出る特権を持っているのは少数だった。脚本家がメジャー作品で全くクレジットに出ないこともある一方で、より重要度の低い役職がクレジット上に認められることもあったのである。また、製作会社は才能のるつぼであり、似たり寄ったりではあるが出来の良い(たとえそれが傑作ではなくとも)作品を作り出した。マスコミュニケーション・マスプロダクション理論についてとやかく言うまでもなく、流れ作業のアニメーションとマーケットの要求はアニメーション製作に影響を及ぼした。各短編は程度こそ異なれ、当時のアニメ関係のクリエーター全員が作り上げた総体としての作品の一標本なのである。個人個人の作家性を追い求めたとしても、それは批評家の抱いた幻影に過ぎず、誘惑的ではあるが実効性は小さい。作家達は自分の作風をためらいなく捨て、鉛筆による一種の共通語、規格化された形式に到達した。そのプロの腕前をもってすれば、作画台を変えて別のキャラクターにスイッチすることや、スタジオからスタジオに移ること、同時に違う作品を作業しても観客に違和感を感じさせないことなどは朝飯前であった。

 当時のアメリカアニメのキャラクターは人間・動物のいかんを問わず、きちんと造型されている限り、似たり寄ったりのものである。この造型に関する選択は完璧主義者の要求からは程遠いものであった。単純な描画、彩色の選択や背景は美術の歴史というより、むしろ絵本の挿し絵を参考にしている。実際に肝心なことは絵それ自体ではなく、アニメーション、もしくは絵の動きであった。ディズニーのベテランであるノーム・ファーガソンは当時最高のアニメーターだとみなされていたが、絵そのものは中程度に上手いというだけだった。だが、動きをとらえることにかけては他の追随を許さなかった。アニメーションは動きを作り出すことでもあった。それは顔や身体のしぐさを考え出し、磨き上げることであり、リズムをセットし、スクリーン上に必要な命を吹き込むことなのである。当時も今も、このような特質が良きアニメーターかどうかを決定付けた。

 絵柄が似てくるのは当然としても、さらに画一性を高くしたのは身体的特徴の「共通辞書」を採用したためである。プレストン・ブレアPreston BlairはディズニーやMGMで働いたアニメーターだが、彼はそのハウトゥ・マニュアルの中でそのいくつかを示している。「キュート」なタイプは子供のプロポーションである必要があり、シャイで臆病な表現をそれに加えるべきである。「変人(スクリューボール)」は誇張した特徴、例えば長い頭や細い首、大きな足を必要とする。「まぬけ(グーフィ)」なキャラは長い首、猫背、曲がった肩、かぎ鼻で、あごはなく、長い腕をぶらぶらさせ、眠そうな目をしている。「ヘヴィ」なタイプは大きなあご、太い胴体、長く頑丈な腕に大きな手と短い足をつけている。シリーズこそ異なれど、多くの登場人物はこれらの元型に当てはめられる。パイ投げコメディのアニメ版は昔のコメディア・デラルテcommedia dell'arteに非常に近い。だんまり、イライラ、短気といったタイプはずる賢いアルレッキーノHarlequinや食いしん坊のパンタローネPantaloneの兄弟である。彼らには決まった性格設定があり、即興の、あるいは時に時事ネタの事件に首を突っ込みたがる。コメディア・デラルテ同様、このコメディは常に同じテーマの繰り返しで、どこかで見たような綱渡りの上で演じられる。これらのアニメの絵が平凡だと非難する人は、喜劇の登場キャラの価値はその外見ではなくアクションやリアクションのリズムにあるのだということを心に留めるべきである。丸い輪郭は変形やアクシデントを誘う。戦後期、より洗練された作画が優勢になったとき、激しいスラップスティック・コメディの凋落が始まったのである。

 非ギャグ映画では事情が違った。この時代の「かわいらしい」作品の中で今日のテイストに耐え得る作品は少ない。ローズヴェルト時代は恐慌や社会的要求、国際的孤立が支配した時期だが、これらはカートゥーン市場にはさして影響しなかった。数少ない例外としてはディズニーの『三匹の子豚』があり、この登場キャラは国家的希望のメッセンジャー役と考えられた。あるいは1930年代後期のワーナーやMGMに出てくる落ち着きのないウサギやカモ、犬、猫、ネズミは10年の長い眠りから爆発せんとしている熱狂的な活動を象徴している。この時期は同時にアメリカの知識層にとって研究やアーティスティックな実験、スタイル的発展の時期でもあった。この時代にアメリカのアヴァンギャルドアーティストたちが初めてアニメーション映画を発表した。

ランツ:オズワルドからウッドペッカーへ


 1930年前期はウォルター・ランツWalter Lantzのために約束されていた。ユニバーサルは彼に大作『キング・オヴ・ジャズ』The King of Jazz (1930)のアニメパートを準備するように依頼した。この映画はポール・ホイットマンPaul Whiteman主演で、二色法テクニカラーで撮影される予定だった。映画自体は失敗したが、アニメパート(これもテクニカラー撮影)は好評だった。会社重役のランツに対する信頼は失われず、ランツはビル・ノーランBill Nolanをパートナーとして誘った。二人はそれぞれのチームを指揮して、ハードな製作スケジュールを守るために働いた(オズワルドOswald作品26本を含む)。この時期は傑作の時期ではなかった。オズワルドは可愛らしいがヘヴィなギャグやシチュエーションには似合わないキャラクターで、退屈になるのは避けられなかった。オズワルドで一番有名な作品が彼が脇役にとどまる『不況』Depression (1933)であるのは偶然ではない。『不況』は政治プロパガンダ映画の典型で、「不況」の亡霊が経済・社会問題とともに登場し、オズワルドはフランクリン・デラノ・ローズヴェルトFranklin Delano Rooseveltに助けを求めるというものである。この新大統領はトラストの処方を勧め、オズワルドはみなにそれを注射するのである。

 1934年にはディズニーの『シリー・シンフォニー』に対抗すべく、カラーの『カーチューン・クラシック』Cartune classicシリーズが始まった。ランツは他の作家よりは賢かったので、2,3のエピソードを作った後、その製作を中止した。その後の2年間はトラブルが続いた。1935年にビル・ノーランが去った。1936年にはユニバーサルの組織改変でランツは自分の会社を設立して、確実な配給契約を結ばない限りは映画会社と仕事をしないことを決意した。今やオズワルドの権利を持つ唯一の人間となったランツはこのキャラの特徴を変え、黒ウサギから白ウサギにして、その齧歯類的な特徴を強調した。このような処置もオズワルドの消耗をわずかに遅らせるのに貢献しただけで、1938年にはついに姿を消した。

 新たなキャラクターを生み出す必要があった。いくつかの試行錯誤の後(ミーニー、ミニー、モーMeany, Miny, Moeの三匹の猿など)、アンディ・パンダAndy Pandaの登場となった。

 「ランツはそれまでカートゥーンに使われたことのない動物を探し続けていた。…パンダは斬新なアイディアだった。これがひらめいたきっかけはシカゴ動物園にパンダがやってきて国内でも関心を呼んだことだった」(レオナード・マルティンLeonard Maltin)
 ランツのこの風変わりな選択は当時の出来事から生まれたものだったが、このキャラが長く成功を収めたのは、子供にアピールする能力をランツが持っていたためである。アンディは親切で礼儀正しいキャラクターだが、不器用な父親がまちがいを犯すと直ちに正し、子供たちに自分の力を実感させることができた。アンディ・パンダのデビューは1939年である。

 1940年代になると、アンディは『キツツキと熊一家』Knock, Knockでウッディ・ウッドペッカーWoody Woodpeckerのデビューのホスト役を務めた。ウッドペッカーはベン・“バッグス”・ハーダウェイBen 'Bugs' Hardaway(ワーナーでバッグス・バニーやダフィ・ダックを手がけ、そこから逃れてきた)により生み出された馬鹿な鳥である。最初期のウッドペッカーは錯乱し、危険でさえある。外観は粗暴であり、血走った眼とくちばしに針のように尖った2本の歯を持っていた。彼の顔つきと仕草はだんだん洗練されていったが、なおその不快感と彼を有名にした痴呆的な笑いはそのまま残された。バッグス・バニーやドナルド・ダック、アヴェリーキャラ、あるいは初期ダフィ・ダックと同様に、ウッドペッカーは1940年代のアメリカンカートゥーンの典型であるコントロール不能の力を具現していた。

 ランツは自分のスタジオでしばしば演出をこなし、制作をコーディネートし、新人を発掘した。一言で言えば彼は小ディズニーとして機能したのであるが、人格的にはより親しみがもてる人物だった。彼が実際に制作のクリエイティヴプロセスにどれだけ関与したのか、またクレジットの内、他のアーティストに帰すべき分量がどれだけなのかは確定できない。疑いなく、彼のフィルムはそのスタイルとエレガンスによって容易に認知できる(趣味の悪さによって損なわれていることも時にはあるが)。スピードのためにクオリティが犠牲にされたり、キャラクターの折り目正しさがマンネリに陥ることはしばしばあった(ウッディ・ウッドペッカーがランツのベスト作品となったのは偶然ではなく、その落ち着きないキャラクターの行動は鈍ることはあっても決して完全にコントロールされることはなかった)。ウッドペッカーの人気がピークに達したのがスタジオにシェイマス・カルヘインShamus Culhaneがやってきた時期と一致することも指摘するべきだろう。カルヘイン(1908年12月12日マサチューセッツ州ワラ〜)は数多くの会社を渡り歩き、『白雪姫』や『ガリバー旅行記』などの作品に携わったベテランである。文化に幅広い関心を持ち、音楽の素養もあったカルヘインは1944年にランツスタジオで極めて愉快な作品『セヴィラの理髪師』Barber of Sevilleを演出した。

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アブ・アイワークス Ub lwerks


 アブ・アイワークスUb lwerksは1901年3月24日カンザスシティに生まれた。本来のオランダ名ウッベ・エルト・イヴェルクスUbbe Ert Iwerksがアメリカ人の耳には響きが良くないため、20代に名前を簡略化した。1919年、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオPesman-Rubin Commercial Art Studioに広告のグラフィックアーティストとして就職し、そこでウォルト・ディズニーWalt Disneyに出会った。アイワークスの初期のキャリアはディズニーのかたわらで展開された。1930年1月25日にアイワークスがパット・パワーズPat Powersの申し出(自分の名を冠したスタジオを開くという)を受け入れるまで、二人はほぼ途切れることなく一緒に仕事をした。自らのスタジオを持てるという考えに煽られただけでなく、アイワークスにはディズニーと決別する別の理由があった。ディズニーは一度成功者となるや、協力者個人個人(自分より年上の人間やアイワークスのような親友でさえも)の創造性を制限しにかかった。さらに、新しい種類のアニメーションというディズニーの考えが、1920年代スタイルに強く固着していたアイワークスとの間に齟齬を来したのである。

 自分のスタジオを持ったアイワークスは、1928年に登録商標を取ったキャラクターであるカエルのフリップFlip the Frogを取り戻した。オリジナルは実物のカエルに近い設定だったフリップは、後年にはマーケティング上の理由からより人間的に変化し、まるで耳と鼻のないミッキー・マウスそっくりのキャラになってしまった(両キャラクターのアニメーションが同一人物の手による仕事であったため、その類似性はより目立つことになった)。36本のエピソードを作った後、期待された成功が得られないとなると、アイワークスはフリップを廃棄した。1933年には新キャラであるウィリー・ホッパーWillie Whopperをリリースした。ホッパーはブロンドの前髪を持つうそつき少年だが、これは1年しか続かなかった。『コミカラー・カートゥーン』ComiColor Cartoonはディズニーの『シリー・シンフォニー』の二番煎じで、2色法シネカラーで製作された。1936年から1940年にかけて、アイワークスはワーナーやチャールズ・ミンツ・スクリーン・ジェムズの下請け製作をした。1937年にミンツのために演出した『人形舞踏会』Merry Mannequinsはおそらく彼のベストワークと考えられるだろう。

 好機を失い、アニメーションの技術面に引かれていったアイワークスは(1930年代に予算こそ少ないが創意に富んでいた彼は、一種のマルチプレーンキャメラを開発していた)、最後にディズニーの元に戻り、1971年7月7日に亡くなるまで特殊効果と新しい器材開発に従事した。1959年と1964年にはその発明でオスカーを受賞した。スタジオに戻ってからのディズニーとの関係については噂にのぼるのみである。恐らくは一人の雇い人として彼は戻ってきたのであり、昔の友情の名残はなくなっていた。

 アブ・アイワークスが独立系作家として失敗した原因は、一つには彼に企業家としての腕がなかったこと、そして演出家としての限界にあった。ストーリーやプロットに対する勘が彼には欠けていたが、これこそがディズニーの力であった。彼の作品は構成が緩く、サービス精神に乏しく、キャラクターの個性も弱かった。さらに、作画やギャグは後期のものでさえも明らかに1920年代の所産であり、取り返しの付かないほど時代遅れで、競争力などなきに等しかった。にもかかわらず、彼の担当シーンには、そのアニメーター・カラリスト・ギャグマンとしての才能が際立っており、その作品全体からも突出していた。

ミンツ、クレージー・カットとコロンビア Charles Mintz


 ユニバーサルがオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのコピーライトを取り上げたため、チャールズ・ミンツCharles Mintzはその資産を失った。アニメ市場での成功を夢見たミンツは少数精鋭のスタッフを引き連れニューヨークからロサンジェルスに移り、ベン・ハリソンBen Harrisonやマニー・グールドManny Gouldの指揮下、凡庸な『クレージー・カット』Krazy Katの制作を続けた。この新シリーズはコロンビアが配給し、チャールズ・ミンツ・スクリーン・ジェムズCharles Mintz Screen Gemsのレーベルで制作された。登場するのは天才漫画家ジョージ・ヘリマンGeorge Herrimanが描き出した猫である。この新シリーズの主人公はあの擬人化された夢見がちな猫(ココニーノ・カントリーをさまよい、背景が目まぐるしく変転し、愛すべきイグナッツ・マウスIgnatz the Mouseにレンガをぶつけられる)とは程遠いものだった。

 新しいクレージー・カットは単にあまた存在するミッキー・マウスのイミテーションに過ぎず、それ自体のパーソナリティを欠くのみならず、首の後ろの蝶ネクタイを除いてはオリジナル版の外見的特徴も持っていなかった。クレージー・カットと同時に、ミンツは少年スクラッピーScrappyとお供の犬やガールフレンドが登場するシリーズもリリースした。

 ミンツは製作のアーティスティックな面にはタッチせず、アニメーターに任せっぱなしだった。この方針が上手く行った作品もあった。例えばスクラッピーのシリーズにはよく出来たエピソードもあり、ディズニー作品を巧妙にコピーしていた。しかし、ミンツには品質に関する野心が欠けていた。その結果、ディック・ヒューマーDick Huemerやアル・ユースターAl Eugster、プレストン・ブレアPreston Blairといったアーティストは機会があり次第スタジオを去っていった。ミンツはカラーの分野ではより成功を求める野心を持っていた。1934年に始めた『カラー・ラプソディ』Color Rhapsodyは他の作品同様に出来不出来の差が激しかった。

 コロンビアがミンツスタジオを接収した直後の1940年にミンツは没した。その後、スタジオは絶えずアーティスティックディレクターの交代に見舞われた(8年間に7人)。1941年にはフランク・タシュリンFrank Tashlinの下、つかの間の黄金時代が訪れた。タシュリンは自分のテイストを押し付けず、ディズニーから才能あるアーティストたちを引き抜いた(彼らはディズニースタジオのストライキとその結果に失望した人間たちであった)。新しく来たアーティストの中にはザック・シュワルツZack Schwartz、デイヴ・ヒルバーマンDave Hilberman、ジョン・ハブリーJohn Hubleyら、後にUPAのベスト作家となる3人も含まれていた。いくつかの作品、とりわけ『スモール教授とトール氏』Prof. Small and Mr. Tall (1943)は第二次大戦後に起きたグラフィック革命の先駆者であった。また、このスタジオは1組のクレバーなキャラをも生み出した。「キツネとカラス」the Fox and the Crowがそれである(キツネは必ず落ち着かない意地悪なカラスの犠牲になる)。タシュリンの任期は2,3ヶ月で終わった。その後、このスタジオはほとんど収穫のきざしを見せることなく、1948年にコロンビアが新興UPAの短編を配給することに決定すると閉鎖された。

ヴァン・ビューレン Van Beuren


 アマデー・J・ヴァン・ビューレンAmadee J. Van Beurenのスタジオが最初に生み出したキャラがトムとジェリーTom and Jerryである(ハナ&バーバラHanna and Barberaによる有名な猫・ネズミと混同しないように)。1929年にポール・テリーが自分のスタジオを開設するため、多くのアニメーターを引き連れて去ったとき、ヴァン・ビューレンには少数のスタッフと『イソップズ・フェーブル』Aesop's Fablesの権利しか残されていなかった。ヴァン・ビューレンは企業家で、覗きからくり(短いフィルム----時に際どい内容もあり----を一人で見る、主に遊園地向けの機械)を扱って財産を築いた。ミンツと同様に、そしてアメリカアニメの典型的ボスとは異なり、彼はビジネスマンから映画製作者になった人物である。ヴァン・ビューレンは野心家で、自社の発展のためならどんな努力も厭わず、時代遅れの『フェーブル』を捨て、ヴァーノン・ジョージ・ストーリングズVernon George Stallingsとジョージ・ラッフルGeorge Rufleを雇い入れた。

 1931年、ジョージ・ストーリングズとジョージ・ラッフルはトムとジェリーという新人スターを生み出すことに尽力した。トムは黒髪で背が高く、ジェリーは金髪で背が低い。デビュー作の『ワット・ア・ナイト』Wot a Nite (1931)はジョン・フォスターJohn Fosterとジョージ・ストーリングズの名がクレジットされており、コミカルな要素とホラー的な要素が上手くミックスされた陽気な作品であった。これはアメリカ映画(実写・アニメを問わず)の最良の伝統の所産である。続くエピソードはあまり成功せず、ヴァン・ビューレンはオットー・ソグローOtto Soglowのよく知られた漫画キャラ『リトル・キング』Little Kingに方向転換した。だが、スタジオアニメーターが使えるスタイルやテクニックが十年遅れの古臭いものだったため、同様に芳しくない結果となった。フランク・タシュリンFrank Tashlinやジョー・バーバラJoe Barbera、ピート・バーネスPete Burness、ビル・リトルジョンBill Littlejohn、シェイマス・カルヘインShamus Culhane、ジャック・ザンダーJack Zanderといった、才能はあるが若く経験の乏しいアーティストを使っても焼け石に水だった。いくつかの良いアイディアはあるのだが、作品はやはり実質に乏しいままだった。なおも屈しないヴァン・ビューレンは当時ディズニーの『三匹の子豚』でアニメ界のキープレーヤーと目されていたバート・ジレットBurt Gillettを引き抜いた。ジレットが行なった改革としては、カラーへの即座の転換、より洗練されたアニメーション、1934年に始まる成功作『レインボー・パレード』Rainbow Paradeシリーズの発表などが挙げられる。

 だが、二つの大問題がこのスタジオに重くのしかかっていた。ジレットの気まぐれな言動が多くのスタッフに不和を招いたこと(ずっと後にシェイマス・カルヘインはジレットを精神病院一歩手前の人間だと述べたことがある)。そして大衆受けするキャラクターを作り出せないことであった。1936年の『フェリックス・ザ・キャット』Felix the Catをリバイバルさせる試みは失敗した。体の弱いヴァン・ビューレンは1935年に脳卒中で倒れ、車椅子の生活を余儀なくされた。1936年にRKOがヴァン・ビューレンスタジオからサポートを引き上げてディズニーに与えると同時に、このスタジオは閉鎖された。ヴァン・ビューレンは1937年に心臓発作で亡くなった。

テリートゥーンとマイティ・マウス


 ポール・テリーPaul Terry(1930年にフランク・モーザーFrank Moserと組んでテリートゥーンTerrytoonsを創設した)はサイレントからトーキーへの革新に抵抗した例としてよく引き合いに出される。吝嗇で新しいものが嫌いなテリーは製作と締め切りを守ることに心血を注いだ(1936年には会社唯一のオーナーという地位を守るため、彼はなりふり構わず行動し、フランク・モーザーの首を切った)。各話完結志向だった彼はキャラ名を冠したシリーズ作品の流行には抵抗を示した。彼が初めてワン・キャラクターのシリーズを製作したのは1938年のことに過ぎない(主人公のガンディ・グースGandy Gooseはドナルド・ダックとグーフィの雑種である)。テリートゥーン初のカラー作品が公開されたのは1938年で、作品の大半がカラーに転じたのはようやく1943年になってからだった。とはいえ、テリーの作品を過小評価すべきではない。グラフィックやアニメーションに関して特に魅力的というわけではないにせよ、冴えたギャグや上品ぶらないセンスを見せることもしばしばであった。これは他会社の製作した気の抜けた笑いとは対照的で楽しめる。テリーが語るには、ディズニーが形式を尊重するとすれば、彼自身はアイディア勝負なのであった。

 キコ・ザ・カンガルーKiko(1936年。ボクサー志望で道化のような歩き方をし、しっぽを3本目の足として使う)もガンディ・グースも永続する名声を得ることはできなかったが、マイティ・マウスMighty Mouse(1942年。ミッキー・マウスとスーパーマンの雑種)は成功した。彼自身はギャグとギャグをつなぐ要素以上の存在ではなかったにもかかわらず、マイティ・マウスは大衆受けした。その理由は恐らく小さな体に強大な力というコントラストにある(テリーがもっぱら子供の観客を相手にしていたことも指摘するべきである)。演技力としては幼稚だったが、それでもマイティ・マウスはマンガのキャラクターにもなり、また活動期間も長かった(これは1960年代のTV登場で頂点に達した)。マイティ・マウスの短編には基本的な構造があり、サスペンスやいわゆる「グリフィス・スタイル」の結末に基づいている。それは危機一髪の状況下、法と秩序を回復するヒーローは救出に間に合うのか、またいかにしてそれを成し遂げるか、といったものである。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、テリートゥーンは愛国プロパガンダ映画やアメリカ政府から受注した映画を供給し、戦時下のアメリカのために貢献した。

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フライシャー兄弟:ベティ・ブープとポパイ、2本の長編


 フライシャー・スタジオの発展の特徴は、その急成長ぶりとスタイル・組織両面のいい加減さとが驚くべき混合をなしていたことである。このスタジオの組織はいまだに計画性より即興性に頼っていたが、にもかかわらず、ベティ・ブープBetty BoopやポパイPopeyeのようなキャラクターは大成功を収めた。『ベティの家出』Minnie the Moocher (1932)はアメリカンカートゥーンの傑作である。マックス・フライシャーMax Fleischerの立体感を生み出す撮影法はディズニーのマルチプレーンキャメラに2年先んじていた。さらに『ガリバー旅行記』Gulliver's Travels (1939)はアメリカ長編アニメの第2作であった。

 1930年代半ばになってもなお、このスタジオにはストーリー部門が存在しなかった。最終的に開設した際にもそれは萌芽的な段階にとどまり、相変わらずアニメーター自身がストーリーを作っていた。また、監督の役割も明確には規定されることがなかった。デイヴ・フライシャーDave Fleischerは各作品に監督として名前を出す権利を独占していたが、実際にはさまざまなチームを管理する責任職にあるだけで、そのとき彼がしたことはマシンガンのようにギャグを乱発するという時代遅れのフォーマットを主張することだった。このような傾向こそがつまるところ彼の力だった。当時フライシャースタジオで働いていたシェイマス・カルヘインShamus Culhaneの回想によると、デイブ・フライシャーはスタッフに向かって新しいギャグをよどみなく語って止まることがなかったという。1930年から1932年にベティ・ブープやその愛犬ビンボーといったキャラクターは説明し難い変化を続け、その後ようやくモデルシートにその特徴が固定された。サウンド制作のような技術的事柄も(これは少なくともフライシャー家の発明役マックスの関心を呼び起こすことになった)、いきあたりばったりに処理された。サウンドトラックをプリレコするという一般的なやり方の代わりに、長い間、フライシャーは完成したアニメーションにアフレコしていた。以上のような問題はあったが、フライシャーアニメは発展していった。

 ニューヨークのアニメーターはディズニーが演技やアクションに払った注意から完全に隔離されていたというわけではないにせよ、なお遠く離れていた。それでも彼らは自分のキャラの心理について研究するようになり、態度や型を明確化していった。各キャラクターはそれ自身に固有な動きを持つようになり、それはきちんとコントロールされた(初期フライシャー作品が休みなく動きつづけるのとは対照的である)。ベティ・ブープはグリム・ナトウィックGrim Natwickの手により、程良いリアリズムできめ細かくアニメートされた。ベテランアニメーターのナトウィック(1890年8月16日ウィスコンシン〜1990年10月7日カリフォルニア)はヨーロッパで絵画と解剖学を学んだこともあり、女性キャラのスペシャリストになった(いわばアニメーションにおけるジョージ・キューカーGeorge Cukorのような存在)。ベティは終わったばかりのジャズ・エイジに典型的なフラッパーであった。ブリュネットのカーリーヘアで、無邪気さを装った眼を備え、黒いドレスからは腕や肩、脚をむき出しにして、左腿にはガーターを着けている。自分のセックスアピールを意識しており、男をもてあそんだり、自分を皮肉ることもできる。ネズミやアヒル、ウサギ、子供たちでごったがえす当時のカートゥーンの中にあって、彼女はほとんど破壊者であった。

 彼女のパーソナリティを和らげるために二人の相手役が与えられた。第一の道化師ココKo-Ko the Clownはどたばた喜劇を演じ、第二の犬のビンボーBimbo the Puppyはその子供っぽさが特徴である。

 1935年に映画館主たちはかつてないピューリタン的な観客(特に小さな町で)への対応を迫られた。館主たちのクレームにより、この溌剌としたキャラクターはもっと貞節な衣服姿で描かれるようになり、その関心の対象も家事や動物愛玩へと変化した。この検閲のせいでベティ・ブープはその輝きを失い、1939年にはスクリーンから姿を消した。彼女の魅力の重要な一面はその声にあり、悪戯っぽく子供じみたファルセットを当てた数人の声優の中ではメエ・クェステルMae Questelがベストである。歌手ヘレン・ケーンHelen Kane(彼女こそがベティの実質的なモデルであった)をして、フライシャーに対し剽窃行為の訴訟に踏み切らせた要素は、まさにベティの声そのものであった。ケーン自身が別の歌手を模倣していた事実が明らかにされると、この裁判も取り下げられた。

 ベティ・ブープ主演の『ベティの家出』は恐らくフライシャースタジオの中でも最高傑作である。アクション・雰囲気共に密度の高いこの作品はキャブ・キャロウェイCab Callowayの歌をベースにしている(キャロウェイ自身もオープニングシーンに登場)。ストーリーは一人の家出少女を巡るもので、未知の世界をさまよう間に彼女が遭遇した幽霊たちと恐怖を物語っている。結末こそ保守的であるが(少女ベティと仲間のビンボーは家に戻る)、危険やセックスへの幻想・暗示は「死の舞踏」の持つ希有な力を見せつけている。

 『船乗りポパイ』Popeye the Sailor (1933)は漫画家エルジー・クライスラー・セガーElzie Crisler Segarが1929年に生み出したキャラクター、ポパイが映画デビューした記念すべき作品である。ポパイはこのスタジオによるもう一つの反伝統的な選択を示している。彼は怒りっぽく、不機嫌で、自分勝手なキャラクターであり、理解に苦しむ人物である。周りのキャラクターも変わり者揃いで、食いしん坊のウィンピーWimpy、不格好なオリーヴ・オイルOlive Oyl、幼稚な大男のブルートBlutoといった面々である。ポパイはメリー・メロディやシリー・シンフォニー、カラー・ラプソディ、ハッピー・ハーモニーといった静かな池に投げ込まれた石のような存在であった。1935年にアメリカで行われた子供の人気投票ではポパイがミッキー・マウスより人気が上との驚くべき結果が明らかになった。ポパイの魅力は無邪気で自分の力を気ままに振るう点にあると思われる。暴漢や危機に直面すると、この船乗りはほうれん草を食べてヘラクレスのような力を獲得し、危機的状況を逆転させる。しかし、ポパイもまた、ジャック・マーサーJack Mercer(1910〜84)による上品化のプロセスを次第にたどっていった。マーサーはポパイの脚本と声を担当した人物である(マーサーはポパイにトレードマークのもぐもぐ声を与えた一人だった)。

 ポパイが登場する数多くのエピソードの中で、2巻物の豪華なスペシャル3作は忘れることが出来ない。それは『船乗りシンドバッド』Popeye the Sailor Meets Sinbad the Sailor (1936)と『ポパイのアリババ退治』Popeye the Sailor Meets Ali Baba's Forty Thieves (1937)、そして『アラジンと魔法のランプ』Aladdin and his Wonderful Lamp (1939)である。このうち2本目こそがその創意工夫と作画・美術の素晴らしさでまちがいなくベストである。この喧嘩っ早い船乗りが洗練されていったのは、フライシャー兄弟がディズニーの圧倒的な影響力に降伏したときと期を一にしていた。1934年に兄弟は『カラー・クラシック』Color Classicで『シリー・シンフォニー』の模倣を試みたが、そこでは彼らのアクション・グロテスク・不条理志向が感傷主義・優美さとミックスされていた。結果は雑種のような作品だった。

 同じような混合スタイルが『ガリバー旅行記』(フライシャー兄弟初の長編)でも再び出現し、多くの観客をあぜんとさせた。この作品への道のりは長かった。1937年にフライシャー兄弟はストライキに直面した。これはアメリカのスタジオに影響を与えた最初のストライキの一つで、双方譲り合わず、9ヶ月後に終結した。この事件でマックスは組合活動が強すぎるニューヨークを去り、より友好的な場所に移動すべき時が来たことを確信した。同じ頃、フライシャーと取り引きのあったパラマウントは、ディズニーの『白雪姫』の成功を見て、フライシャースタジオにもそれ相応の成果を出すよう圧力をかけてきた。フライシャーは彼ららしい無謀さでフロリダに移り、新本部を設立した。

 協調心がなくハドソン川のホームに戻ってしまったアーティストもいたが、他は『ガリバー旅行記』に熱心に取り組んだ。カリフォルニア出身のアニメーター約100人を含むことで、スタッフの数は法外に膨れ上がった。その中にシェイマス・カルヘインやグリム・ナトウィック、アル・ユースターAl Eugster、ベテランのビル・ノーランBill Nolan、そして脚本のテッド・ピアスTedd Pierceといった出戻り息子たちがいた。マイアミ・アート・スクール出身の若者はあまり重要でない仕事をまかせるために雇われた。だが、一緒に仕事をすることに慣れない彼らが生み出したのは凡庸な結果であった。高得点が少々(ガリバーの船が嵐に翻弄されるオープニングシーンなど)、出来損ないのシーンが多数というのがこの映画の特徴である。ガリバーは人間的な身体つきで描かれ、ロトスコープでアニメートされたが、カリカチュアとして描かれたリリパット人たちとはスタイル的に釣り合わなかった。反対に、リリパット人は半分リアルで半分カリカチュアの絵柄で描かれたデヴィッド王子Prince Davidやグロリア王女Princess Gloriaとも対照的であった。あらすじそれ自体にもほとんど魅力がなかった。唯一、真正のオリジナルキャラクターといえるのは事態をかき回す町の布告役ギャビーGabbyだけだった(後年、彼を主人公にしたシリーズが生まれた)。『ガリバー旅行記』の一般公開は1939年12月18日で、まずまずの興行成績を収めたが、進行中の戦争のためヨーロッパ市場が閉鎖されていたことがダメージとなった。

 フライシャー兄弟の長編第2作が『バッタ君町へ行く』Mr. Bug Goes to Townである(英題はHoppity Goes to Town)。この題名は明らかにフランク・キャプラの『オペラハット』Mr. Deeds Goes to Townのもじりである。ストーリーの中心はニューヨークに住み、安息の我が家を求める様々な昆虫たち、ラブ・ストーリーに生きる一組のカップル(雄バッタのホピティHoppityとガールフレンドのハニー・ビーHoney Bee)、そしてそれを邪魔する残忍な金持ちC・バグリー・ビートルC. Bagley Beetleである。

 この第2作は第1作ほど悪い出来ではなかったが、一般受けはせず、フライシャースタジオの破滅につながった。とはいえ、このスタジオが閉鎖に至った本当の経緯は明らかではない。実際のところ、フライシャースタジオはその作品のオーナーで配給主でもあるパラマウントに対して多額の負債を抱えていた。長編『バッタ君』の失敗の後、マックス・フライシャーは破産状態に追い込まれて解雇され、資産はパラマウントによって奪われてしまった。数年来自分の兄との不一致に苦い思いをしてきたデイヴ・フライシャーは、この結末の前に既に会社を去っていた。社名をフェイマス・スタジオFamous Studiosと改名したこのスタジオはニューヨークに戻り、減少した社員はイジー・スパーバーIzzy Sparber、サム・ブッチワルドSam Buchwald、シーモア・ネイテルSeymour Kneitel(マックスの義理の息子)によって管理され、ポパイや新スターのスーパーマンSupermanが登場する作品を製作し続けた。マックスとデイヴ・フライシャーはなお芸能界で生き延びようと努力したが、二度と再びかつての栄光を取り戻すことはなかった。

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ワーナーブラザーズ:ハーマン&アイジング〜テックス・アヴェリー〜共和制時代 Harman Ising, Tex Avery


 ディズニーから抜け、続けてミンツとも別れた後、ヒュー・ハーマンHugh Harmanとルドルフ・アイジングRudolf Isingは自分たちで制作することを決意した。ミッキーに良く似たキャラクター、黒人坊やのボスコBoskoを生み出した2人はパイロットフィルム『ボスコ・ザ・トーク・インク・キッド』Bosko the Talk Ink Kidを作って売り出そうとした。一番高い値を付けたのはパシフィック・アート・アンド・タイトルPacific Art and Titleのレオン・シュレジンガーLeon Schlesingerだった。この会社はタイトルやメインタイトルを専門にしていた。シュレジンガーはワーナーブラザーズとも良好な関係にあり(遠縁の親戚だった)、トーキーに転換するときにも資金援助したことがあった。シュレジンガーは配給契約を結び、即座にアニメのプロデューサーになった。ディズニー以後のアメリカアニメの中で、シュレジンガー(1884〜1949)は恐らく最も展望を持った人物である。彼の部下がいかに彼を金にがめつく、無関心でつまらない人物だと語ったとしても、長年にわたり並外れた作家集団を抱え、彼らの幻想を妨げることなく、うまくやってきた名誉が消えることはない。

 第二次大戦中、シュレジンガーのスタジオはその十年前にディズニーが行なったようにアメリカアニメの指導的立場に立った。はじめはハーマン&アイジングがフィルムの制作に当たった。1930年に彼らはボスコ主演のシリーズ『ルーニー・チューン』Looney Tuneを開始し、すぐに少女ハニーHoneyと犬のブルーノBruno(この母音はプルートを連想させる)も共演させた。ボスコには個性も演技も欠けていたが、ハーマンとアイジングはエンターテインメント業界で成功する資質を持っていた。彼らの野心は水準作を作るだけには満足できず、またそのギャグ感覚は普通のアニメのレベルを超えていた。2人が成功するのはワーナーを離れた1933年中頃以降のことになるが、このときすでにその刻印は彼らのプロフェッショナルな『ルーニー・チューン』とその姉妹シリーズ『メリー・メロディ』Merrie Melodyにくっきりと刻まれていた(『メリー・メロディ』は『シリー・シンフォニー』に従って作られ、親会社がミュージカルに使った曲をフィーチャーした)。

 ハーマン&アイジングは作品の質を上げるためにより大きな設備を要求し、これが原因でシュレジンガーと衝突することになった。おりしもMGMが二人にもっと有利な契約を持ちかけていた。二人はボスコを引き連れて去っていった。シュレジンガーは二人のディズニーのディレクター、ジャック・キングJack Kingとトム・パーマーTom Palmerに変えたが、すぐに二人に失望してしまった。新人のテックス・アヴェリーTex Averyとフランク・タシュリンFrank Tashlinが代わりに雇われ、チーフアニメーターのフリッツ・フリーレングFriz Frelengがディレクターに昇進した。新たなキャラクター(少年バディBuddy----ボスコの白人版以外の何者でもない)が一時的に制作の穴を埋めた。

 長い間、このスタジオの方針は新しいキャラをその時その時で生み出していくことだった。その中には短命のものもあるが、アニメ界で長命のスターの座を保つものもいた。1935〜40年にポーキー・ピッグPorky Pig、エッグヘッドEgghead、エルマー・ファドElmer Fudd、ダフィ・ダックDaffy Duck、バッグス・バニーBugs Bunnyがコメディ映画の最良の作品においてデビューした。彼らの生みの親や正確な誕生日を決定しようと試みても誤解を招くことだろう。なぜなら彼らは年月を経る間に進化し、外見の特徴や態度や個性を幾度も変化させているからである。ポーキーは吃音の豚で、間抜けだが、虚栄心もあり、シチュエーションや他のキャラの犠牲になることを運命付けられている。ポーキーはまもなくダフィ・ダックの引き立て役となった。ダフィ・ダックは黒いアヒルで、狂騒的で生意気な点が特徴である(これは初期の特徴で、戦後期まで続く)。これはダフィをプレストン・ブレアのマニュアルに描かれた落ち着きのない人物のプロトタイプにしている。ダフィには残酷性が欠けているので、彼は好感を持たれている。絶え間なく他人を困らせる行動は非論理的なロジックの結果に過ぎない。これが彼の行動を決定付け、観客もこれを受け入れるのである。反対に、エッグヘッドは人間のキャラである。彼は1本立ちのキャラとして数年間を過ごした後、エルマー・ファドになり、バッグス・バニーの不機嫌で間抜けな敵役となった。

 最後にバッグス・バニーだが、彼は19世紀ユダヤ喜劇(アメリカ映画における数多くのユーモアの源泉)で「シュノーラー」schnorrerと呼ばれたタイプのアニメ版の中で、恐らく一番完成された例である。シュノーラーは一匹狼で、能弁で人をあざわらうような冷静さを持ち、そのしゃべりで他人を幻惑させる抗し難い能力がある。演技に関していえば、バッグスは「スローバーン」の使い方が天才的である。これは喜劇の手順で、キャラクターが完璧に落ち着いたままで最大の立腹を表現するものである。死の危険にさらされて、バッグスはいつものようにニンジンをかじりながら「にー、どうしたもんだろ?What's up, doc?」と愛想良く尋ねる。挑発されると彼ははっきりと説明する。「もちろん、これが戦いだってわかってるよね」と。それから彼は反撃し、敵を壊滅させる。すべての点を考え合わせると、バッグス・バニーはアニメ版グルーチョ・マルクスGroucho Marxともいうべき存在である。

 テックス・アヴェリー(エイヴリー)(1908年2月26日テキサス州テイラー〜1980年8月26日カリフォルニア州バーバンク)はワーナーに入るやいなやこの会社の秩序をひっくり返した。漫画家になるという夢を捨てたこの才気あふれたエンターティナーは、ウォルター・ランツのもとで明らかになっていない2,3年を過ごした後、ほとんど偶然にシュレジンガーに雇われ、小さなアニメーターグループをまかされた。彼らは他の同業者と共同制作するにはあまりに反抗的なメンバーだった。中でもチャック・ジョーンズChuck Jones、ボブ・クランペットBob Clampett、ボブ・キャノンBobe Cannonらは後に輝かしい業績を上げることになった。この小グループはメインのスタジオから離れた一軒のコテージに住んだ。「ターマイト・テラス」Termite terraceと名づけられたこのスタジオで製作が始まった。ワーナーにおけるアヴェリーは後のMGM時代に到達した完成度には達していないものの、彼独特のスタイルを発展させたのはこの場所だった。誇張と物事の秩序を逆転させる天才だったアヴェリーは、キャラクターの身体を極限までデフォルメするテクニックを悪趣味に陥る危険を冒してまで推し進めた。

 映画的虚構を知的に理解していた点については、彼はバスター・キートンBuster Keatonの『キートンのカメラマン』The Cameramanに次ぐ。非常にしばしばアヴェリーは映画の慣習を破壊し、観客に話しかけ、タイトルカードやキャラクター自身の口からそのシーンやトリックについてコメントさせた(後にボブ・ホープBob Hopeは同様のユーモアを発展させた)。パラドックスの予言者だった彼はあらゆる不可能性(説明されず、また説明不可能なものたち)がまるでダモクレスの剣のように脅かす世界を作り出した。その錯乱した笑いに匹敵できるのはスタン・ローレルStan Laurelのみである。テックス・アヴェリーはスピードに取り憑かれていた。彼は後にこう証言している。

「私は新しいタイプのユーモアを開発した。古いやり方ではその効果を得るのに20フィートが必要なところだ。私はこれを8フィートに縮めた。これでも人は理解できるし、より面白くなる。私のスタイルは昔のマック・セネットの喜劇から来ているのだ」
 アヴェリー作品ではキャラクターが突然画面から消え失せ、後に残るのはその痕跡だけである。数十年後のメル・ブルックスMel Brooksと全く同じように、アヴェリーには過剰な笑いと最上の喜劇がある。彼のあふれんばかりの個性は1937年や38年に監督昇進したボブ・クランペットやチャック・ジョーンズに一つの手本となった。また、彼らに続くフリッツ・フリーレング、ベン“バッグス”ハーダウェイBen 'Bugs' Hardaway、ロバート・マッキンソンRobert McKimsonらにとってもそうだった。

 テックス・アヴェリーが1942年にワーナーを去ると、ボブ・クランペット(1913年5月8日カリフォルニア州サンディエゴ〜1984年5月2日ミシガン州デトロイト)がグループのリーダーシップをとった。クランペットもまたアイディアに満ち溢れ、不条理なものを愛好した。しかしながら、彼のスタイルの特徴はアヴェリーのような全面的な狂気の感覚ではなく、暴力と不気味な無邪気さとがミックスされたものである。50年代の「シック・コメディ」の先駆者である彼は、サディスティックな天使であるカナリアのトゥイーティTweetyの生みの親となった。

 バッグス・バニーを担当したフリッツ・フリーレングは、バッグスをワーナースタジオの歴史で最も多面性を持つ老練なキャラクターに育て上げた。フリーレング(1906年8月21日ミズーリ州カンザスシティ)は1940年代にはすでにベテランであった。彼はサイレント時代にディズニーとともにスタートし、1929年には故郷に戻って広告の仕事をし、ハーマン&アイジングに入った。彼はシュレジンガーのために、また短期間MGMのために働いた。1940年、フリーレングはワーナースタジオに戻った。彼は偉大なカートゥーン監督としてあらゆる技能を備えていた。それはギャグとタイミングのセンス、キャラクターのパーソナリティに関するテイスト、エンターティナーとしての経験である。

 戦後、チャック・ジョーンズとフリーレングの黄金時代が到来する。1942年から1945〜46年の時代は一種の平等な「共和制」によって特徴づけられる。各監督が自分のベスト作品を生み、しかも一人の突出した人間がリードしているというのでもない。レオン・シュレジンガーは低賃金のポリシーを貫いたが、その代わりスタッフの昇進も速く、制作の各段階で自由にやらせた。作家やアニメーター、デザイナーへのサポートとして、二人の音のエキスパートをつけたのもシュレジンガーの巧妙な点である。それが作曲家のカール・ストーリングCarl Stallingと俳優のメル・ブランMel Blanc(1908〜89)で、後者は驚くべき数の声を出す才能を持ち、そのカリカチュリスティックなパワーでワーナーの動物および人間キャラに個性や生気を与えるのに力があった。

 ワーナーブラザーズはメジャーの中で唯一ローズヴェルトを支持しており、ニューディール政策の社会的政治的精神を映画に反映させた。第二次大戦の進行に伴ってワーナーは政府支持の立場をより強め、カートゥーンの中でさえもそれを鮮明にしていった。フリーレングの『コマンドー・ダフィ』Daffy the Commando (1943)や『総統対バッグス』Herr Meets Hare (1944)、タシュリンの『プレーン・ダフィ』Plane Daffy (1944)でナチを愚弄した一方、フリーレングの『バッグス・バニー ニップス・ザ・ニップス』Bugs Bunny Nips the Nips (1944)は露骨な反日映画である。ワーナーはまたアメリカ政府から映画の制作を受注した。スナフPrivate Snafuが登場する(3〜4分の)短編ギャグシリーズは軍隊のためだけに制作された。

 この会社のフィルモグラフィーの中で1本だけ飛びぬけたものはない。『金鉱発見』Gold Diggers of '1949 (1936)や『ワイルド・ヘア』A Wild Hare (1940)、『黒炭姫』Coal Black and De Seben Dwarfs (1943)がよく言及されるのは芸術的理由より歴史的理由によるものである。1本目はテックス・アヴェリーのデビュー作であり、彼の発展途上のスタイルを示している。2本目においてバッグス・バニーの冒険が始まる。3本目(ボブ・クランペット演出)は確かに傑作であり、オール黒人キャストによるアニメ版『ハレルヤ!』Hallelujah!である。実際問題として、ワーナーブラザーズの場合、そこから傑作一本を探す作業は考慮に値するかもしれないが、批評的アプローチとしては思慮に欠けている。確かにこれらの作品群は多才な作家によって作り出されたもので、優れた創造的仕事ではあるが、同時に質だけでなく量を重んじるシリーズ作品でもあった。一つのパターンを繰り返すことが、そのフォーマット自体を巧みに変奏することと同じぐらいに重要だったのであり、各エピソードは始まりも終わりもない叙事詩に属しているのである。

 シリーズものはアニメや他の大衆文化では数十年に渡り存在してきたが、これはワーナーやMGMでは意識的に採用されたジャンルになった。1対1の追っかけやけんかといった基本的なスタイル(ハンターとウサギ、猫とネズミ、猫とカナリア、等)はもはや約束事というより、むしろナラティヴの一部となっている。顔やキャラクターの特徴はいくつかの数にかぎられ、時・場所・アクションの一致する中で名人芸によって操作された。少数の例外はあるが(特にテックス・アヴェリー)、各作品のスタイルはアーティスト=ディレクターよりもアニメの主人公によって決定された(作家個人個人のスタイルは注意深い観察者によって時折判別できるだけである)。このような内容の均一化(マスプロダクションのもう一つの特質)は予算の制限が表現の自由に影響しなかった時でも出現し、その一例がワーナーアニメの場合である。

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MGM:ハナ&バーバラとテックス・アヴェリー William Hanna, Joseph Barbera


 1930年から1934年にかけてアブ・アイワークスUb IwerksはMGMに短編アニメを供給していた。1934年にハーマン&アイジングHarman and Ising,がアイワークスに取って代わり、『ハッピー・ハーモニー』Happy Harmonyのシリーズを開始した(これは2,3年で終わった)。そして、あまり説得力はなかったものの、彼らのワーナー時代のスターであるボスコBoskoを再スタートさせた。この二人のMGMでの成功は3年間続き、それは二人のうちでより強い個性と知的要求の持ち主であるハーマン(1903年コロラド〜1982年12月25日カリフォルニア州チャットワース)によるところが大きかった。そしてワーナーで起きた事態が繰り返された。彼らはディズニーに匹敵するための予算を要求し、それが行き過ぎだと考えられたのである。映画会社の最大手として、メトロ=ゴールドウィン=メイヤーは外部の小プロダクションに依頼するのではなく、自分自身のアニメーション部門を持つ余裕があるとこの時点で感じた。管理職のフレッド・クィンビーFred Quimbyはオリジナリティには乏しかったが、組織化については優れた感覚の持ち主であり、この新部門の責任者に任命された(1937年)。

 アニメにおける新規参入者だったクィンビーは2,3年間の模索の後、1939年にハーマン&アイジングに復帰する安全策をとった。1939年にハーマンは『動物たちの国造り』Peace on Earthを監督した。これは「シリアス」な反戦映画で、クリスマスの夜が動物たちだけによって祝われる。その理由は人間が戦争の中で互いに殺戮しあったためであった。この映画は批評家にも一般にも好評で、ハーマンにはノーベル賞がふさわしいとさえ考えられた。一方アイジング(1904年〜1992年7月18日)は彼の念願であった人気キャラを生み出すことに成功した。『バーニーの冬ごもり』The Bear That Couldn't Sleep (1939)に登場した熊のバーニーBarneyの人気はその後4,5年続いた。1940年にアイジングは元上司であるウォルト・ディズニー以来、初めてアニメ部門でアカデミー賞を獲った人間になった。受賞作品のタイトルは『仔猫の風船旅行』The Milky Wayで、宇宙を舞台としたおとぎ話である。賞賛に値する作品ではあるものの、当時の趣味に支配的なわざとらしい可愛さにどっぷり浸かっている。ハーマン&アイジングの娯楽映画時代はアイジングがフォート・ローチ(ハル・ローチ・スタジオHal Roach Studios)のアニメ部門の将校に任命された1942年頃に終わった。以後数十年、このコンビは教練映画と教育映画に集中した。

 1940年という年はMGMにとって猫のトムTomとネズミのジェリーJerryの冒険が『上には上がある』Puss Gets the Bootで始まった記念すべき年である。この映画の第一の栄誉はスタジオでトレーニングを受けた二人の若いアニメーターに帰せられる。ウィリアム・ハナWilliam Hannaとジョゼフ・バーバラJoseph Barberaである。ハナ(1910年7月14日ニューメキシコ州メルローズ〜)はジャーナリズムとエンジニアリングを学び、エンジニアの職を求めてカリフォルニアへ移った。時代が厳しかったため、ハナは別の分野にあたり、ハーマン&アイジングのもとに就職した。バーバラ(1911年3月24日ニューヨーク〜)は銀行員だったが、仕事にうんざりして仕事の傍らで漫画家にチャレンジした。ディズニーの『骸骨の踊り』に魅せられ、アニメーションに取り付かれた彼は、1937年に約束の地カリフォルニアへ移り、ヴァン・ビューレンに弟子入りした。

 ハナとバーバラは2年間同じスタジオで働き、その後二人でチームを組むことにした。彼らのデビュー作の成功はそのキャリアに大きく影響し、その後15年間に渡って二人は猫とネズミの争いを考え付く限り語り続け、オスカーを数回受賞した。後に彼らは世界最大のTVアニメ製作会社を設立・経営した。当初、この灰色猫のトムは赤ネズミのジェリーとは似ても似つかなかった。トムは残忍・狂暴な性格で、ジェリーは野蛮さに対抗する抜け目なさを表現していた。時代が下ると二つのキャラクターはより発展し、双方の役どころはごっちゃになり、トムとジェリーは相手をやっつけるために死力を尽くすようになっていった。一般的なルールとしてよりダメージが大きいのはトムの方であり、その理由は小さな身体で一見無防備なジェリーがそうしたように、天使の仮面の裏に邪悪さを隠し持つような真似が出来なかったからである。終いには互いに譲り合わぬ不倶戴天の敵同士にありがちなように、一種の連帯感のようなものが成立した。一方の存在が他方を正当化し、殺し合おうとする試みは何か大切な運命共同体のようなものになったのである。

 このコンビはすぐにハナとバーバラが監督することになり、ディズニーに匹敵する完成度に達した。バーバラがシナリオとスケッチ、ギャグを担当し、ハナが実際の演出を受け持った。各作品において、二人はアニメーターのために演技を統率し、後にはクオリティ面において多くを要求するようになった。このシリーズがその頂点に達したのは1942年にMGMにやってきたテックス・アヴェリーTex Averyと競い合うようになったときである。アヴェリー作品ではその途方もなく面白いヴィジョンの手段として暴力が使われた。アヴェリーの特徴としてパラドックスへ向かう傾向があり、そのせいであたう限りの誇張を見事に組み合わせることになった。ハナ&バーバラは同じコンセプトを手にし、そして再生産したが、それをささやかな状況に集中させた(トム&ジェリーの物語全体は台所と居間の範囲を超えることはほとんどない)。このような暴力はアニメーションではどんな破滅も2,3フレームで解決されるという明白なルールにもとづいている。かくして(ほとんどの場合犠牲者側である)トムはやっつけられ、ねじまげられ、ぺしゃんこにされ、ありとあらゆる形に変形される。時の経つうちに、キャラの演技が貧困になってしまったため、面白味はなくなり、このフォーマットは機械的になってしまった。

 テックス・アヴェリーは1942年から1955年にかけてMGMで働いた。その活躍は後に徹底的に検証することにする。だが、第二次大戦中に彼が作り出したドルーピーDroopy(この時期のMGMで最も独創的なキャラクターの一人)についてはここで触れておくべきだろう。ドルーピーはちびでしわだらけの犬であり、地味で無表情な鼻とぶつぶつ声を持っている。一撃で倒れそうなその外見に反して、ドルーピーは悪魔そのものであり、その敵(「ウルフ」Wolfとのみ命名された活気のないキャラであるのが普通)を破滅させることができる。ドルーピーはヘラクレス的な超自然的行動で不動の状態から爆発状態に移行したり、また突然にその逆になったりする。彼の単調な声とポーカーフェイスは信じ難い出来事の一つ一つを強調する(ポーカーフェイスはサイレント喜劇映画が利用した古典的手段である)。ドルーピーのキャラクターとしてのオリジナリティや映画的個性を証明するかのように、スクリーンに登場したあらゆるアニメスターの中で、コミックストリップの世界で最も成功しなかったという事実には注目すべきである。

※40年代以降のMGM→(ジャンプリンク準備中の為飛べません)

放浪のタシュリン Frank Tashlin


 フランク・タシュリンFrank Tashlin(1913年2月19日ニュージャージー州ウィークホーケン〜1972年5月5日ハリウッド)はフランス系ドイツ人の家庭(タシュラインTaschlein家)に生まれた。15歳の時、ニューヨークのフライシャースタジオで使い走りとなり、その後ヴァン・ビューレンでアニメーターとして働いた。映画のメッカとカリフォルニアの太陽に憧れた彼はハリウッドに移った(彼の回想によれば、彼が現地に到着した日はこの年一番の大雨が降っており、しかもレインコートを持っていなかった)。

 ロサンゼルスに着くと、タシュリンは様々な分野に携わった。1933年から1935年にはワーナースタジオのレオン・シュレジンガーのもとへ入社し、一時アブ・アイワークスのところで働いた。その後、再びシュレジンガーのもとへ戻り、演出家に昇進した。1938年から1941年にかけてはディズニーで働いた。それからスクリーン・ジェムズに移籍した後に三度目のワーナーに戻った。1945年頃にアニメーションをやめて喜劇映画の脚本家になり、最終的には1951年に映画監督になった。作品としてはボブ・ホープBob Hope主演の『腰抜け二挺拳銃の息子』Son of Paleface (1951)や、ジェリー・ルイス主演の『画家とモデル』Artists and Models (1955)、ダニー・ケイ主演の『現金お断り』The Man From the Diner's Club (1963)などがある。さらに付け加えると、タシュリンは1931年には自分でコミックストリップを描いたこともあり(元の雇い主アマデー・ヴァン・ビューレンAmadee Van Beurenを戯画化した『ヴァン・ボアリング』Van Boring)、4冊の漫画単行本を作画執筆している。

 タシュリンはもっと評価されてしかるべき作家である。その断続的な仕事歴が彼の仕事全体を一本の糸につなぐことを困難にさせているのは確かである。それでもなお、そのスタイルの持つ要素は常に明らかである。それはスピーディで映画的な編集や奇抜なアングル、スラップスティック的なインスピレーション(タシュリンは密かに古いキートンKeatonやその一派の映画を研究したと考えられた)、日常の雑事に対する皮肉を込めた見方、そして(アヴェリーが行なったように)観客を直接巻き込む事で映画の建前を暴露するという傾向である。50年代の末頃、ジェリー・ルイスの登場する作品で彼にも名声が訪れた。タシュリンの実写映画はアニメーターとしての訓練に影響を受けており、同時に彼のアニメ作品は映画監督への熱望を示している。タシュリンは監督として希有の多才な作家であった。そして自分の従事したそれぞれの分野で自分の足跡を残した数少ない作家でもあった。

アメリカのアヴァンギャルド


 ヨーロッパ映画がディズニーの教訓を取り入れてより広い観客にアピールしようと試みていた一方で、ヨーロッパに源を持つ実験アニメがアメリカに上陸し、インディペンデント映画や反体制(ノン・コンフォルミズム)映画の中にその成長の土壌を見出した。これらの映画実験は(非順応主義の点で1920年代のフランスアヴァンギャルド運動と似ている)、マヤ・デーレンMaya Deren、グレゴリー・マルコプーロスGregory Markopoulos、カーティス・ハリントンCurtis Harrington、ケネス・アンガーKenneth Angerらによる1940年代「第二次アヴァンギャルド」へ道を開いた。これらはまた1960年代のアンダーグラウンド運動の基礎でもある。文化機関はインディペンデントアーティストへ資金援助を多く行なうようになり、大学、美術館、図書館、映画同好会では16mm映画の非商業的巡回上映が花開いた。幻想を解放し、通常の映画にはない見方を提示したいと望む人々にアニメーションはもっともフレキシブルなメディアを提供した。このような環境で抽象映画はより重要な存在となった。

 ハリウッドのドリームインダストリーと並行して進みながら、アヴァンギャルド運動はロバート・フローリーRobert Florey(『9413の生と死』Life and Death of 9413、『ゼロの愛』The Loves of Zero、『棺桶屋ヨハン』Johann the Coffin Maker)、ウェバー=ワトソンWebber-Watson のコンビ(『アッシャー家の崩壊』The Fall of the House of Usher、『ソドムの運命』Lot in Sodom)、写真家ロルフ・スタイナーRolf Steiner(『H2O』H2O)、詩人エムラー・エッティングEmler Etting(『オラムンデ』Oramunde、『ポエム8』Poem 8)らの映画として開花した。

 画家メアリー・エレン・ビュートMary Ellen Bute(1906年11月25日ヒューストン〜1983年10月17日ニューヨーク)は1934年に最初の抽象映画を制作した。タイトルは『リズム・イン・ライト』Rhythm in Lightで、グリーグの『アニトラのダンス』Anitra's Danceをベースにしている。これ以前の1933年にビュートは映画作家で映画史家のルイス・ジェイコブズLewis Jacobsによる失敗したプロジェクト『シンクロニゼーション』Synchronizationに協力したことがあった。それからビュートは『シンクロミーNo.2』Synchromy No.2(1935)、『逃走』Escape(1938、バッハの『トッカータとフーガ』Toccata and Fugueの映像化)、『タランテラ』Tarantella(1939、曲はエドウィン・ガーシェフスキーEdwin Gershefsky)、『スプーク・スポーツ』Spook Sport(1940、曲はサン=サーンスSaint-Saens、アニメートはノーマン・マクラレンNorman McLaren)を作った。ビュートの撮影技師で後の製作者であるテッド・ネメスTed Nemethは彼女の夫になった。

 ダグラス・クロックウェルDouglas Crockwell(1904年オハイオ〜1968年ニューヨーク、グレンズ・フォールズ)は雑誌のカバーデザインやイラストレーションで生計を立てていた。1938、39、40年に彼は『ファンタスマゴリア�T、�U、�V』Fantasmagoria I, II, IIIをそれぞれ作った。ここで彼は後にフィッシンガーが使うテクニックを採用した。これはガラス上に描いたペインティングを次々に描き変えながらそのコンポジションを撮影するものである。1946年には彼の最も有名な作品『グレンズ・フォールズ・シークェンス』Glens Falls Sequenceを、一年後には『ロング・ボディーズ』The Long Bodies(彼が長年に渡り作ってきた実験作品をまとめたもの)を公開した。彼自身の言葉によると、「ロング・ボディーズ」は物体がその存在を空間中に残した4次元の軌跡であった。

 ドウィネル・グラントDwinell Grant(1912年オハイオ州スプリングフィールド〜)は抽象画家として活動した後、1940年に抽象アニメに移行した。1948年までに彼は『コンポジション』Compositionと題されたフィルム群を制作した。その後は教育映画に専念し、時たましかアート映画には戻らなかった。フランシス・リーFrancis Lee(1913年ニューヨーク〜)は日本の真珠湾攻撃に反応して、その第1作を制作した。タイトルは『1941』1941で、戦争を抽象的に表現した作品である。ヨーロッパ戦線でカメラマンとしての任に就いた後、リーは1946年に『宝石』Le bijouを、1948年に『牧歌』Idyllを制作した。それから彼は絵画と中国文化の研究に打ち込み、これに基づいた映画『墨絵』Sumi-eを作った。1940年、カリフォルニアのジョン・ウィットニーとジェームズ・ウィットニーJohn and James Whitneyの兄弟がデビューし、多年にわたる多産なキャリアをスタートさせた。

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