ヒトラーの台頭後、教育宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは文化・映画のナチ化を図った。あらゆる「退廃芸術」(あるいは「抽象芸術」)は禁じられた。優れたアニメーターたちは—彼らはまさに抽象にそのルーツと表現形式を見出していたので—移住し、沈黙を守り、あるいは半ば秘密裏に作品を制作した。CM分野での制作は続行したが、1933〜45年の12年間に関してはほとんどデータがなく、残存するフィルムもほんの数本である。残されたわずかな情報からの印象では、制作者たちはアメリカアニメに対抗しようとしたが(特に技術レベルで)、熱気も独創性にも欠けていたようである。
ハンス・フィッシャーケーゼンHans Fischerkoesen(1896年5月18日〜1973年)は1920年代に名声を確立し、ライプツィヒに大スタジオを設立してプロデューサーとなり、1941年にはポツダムに移った。最も有名な作品は『荒れ地のメロディ』Verwitterte Melodie (1942)と『スノーマン』Der Schneemann (1943)である。最初の作品は蜜蜂と芝に放置されたレコードプレイヤーの物語であり、熟練のキャメラワークや背景デザインとは対照的にキャラクターの絵柄は貧弱である。2番目の作品は疑いなく出来が良い。ペーソスとユーモアを兼ね備えた作品で、雪だるまが夏を見たいと願うが、最後には溶けてしまう話である。ポツダム時代3番目の『愚かなガチョウ』Das dumme Ganslein (1944)が完成したのはベルリン陥落の直前だった。フィッシャーケーゼンの協力者であるホルスト・フォン・メーレンドルフHorst von Mollendorff(1906年4月26日フランクフルト=アム=オダー〜)は優秀な漫画家・風刺作家で、初期2作のテーマやアイディアを出した人物である。1944年、メーレンドルフはプラハのプラハ・フィルムにアニメ部門のグラフィックディレクターとして招かれた。戦争と占領という困難の中で、彼はボヘミア人作家と共に『サンゴ礁の結婚式』Hochzeit im Korallenmeerを作った。これは2匹の魚が悪漢のタコの脅威にもめげずに結婚を祝うという物語である。戦争が終わると、フォン・メーレンドルフはベルリンに戻り、漫画家に専念した。彼がアニメに関わったのは2年半のみだった。
フェルディナント・ディールFerdinand Diehl(1901〜)は1927年にエメルカ・フィルムEmelka Filmで修行時代をスタートした。1929年、彼は兄弟のパウルPaulとヘルマンHermannと共に製作会社を設立した。彼らの第1作は『カリフの鶴』Kalif Storch (1929)で、ヴィルヘルム・ハウフWilhelm Hauffの物語を原作とし、影絵によって製作された。この会社は人形アニメを専門とした。これは人間そっくりで非常にリアルなモデルを使い、『1935年のある中世都市の物語』Die Ersturmung einer mittelalterlichen Stadt um das Jahr 1350などに登場した。兄弟のうちで最もクリエイティヴな仕事をしたのがフェルディナントであり、彼が演出、アニメーション、キャラクターヴォイスを担当し、ヘルマンが人形を製作した。1937年に彼らは原作グリム童話の『七羽のカラス』Die sieben Rabenを公開した。この映画は撮影の美しさとアニメーションの見事さは賞賛されたが、あまりにテンポがスローだと批判された。同年、短編『ウサギとハリネズミの競争』Der Wettlauf zwischen dem Hase und dem IgelではハリネズミのメッキMeckiが登場した。フェルディナント・ディールは1985年に「われわれは少なくとも千体の人形を作った。だが、成功したのはメッキ一匹だけだった」と語っている。事実、このハリネズミは戦後になって漫画のヒーローとなった。
ハンス・ヘルトHans Held(1914〜)はベルリン・バベルスベルクにアニメーションスタジオを設立し、いくつかの作品、特にカラー映画に従事した。ずる賢いキツネの物語『トラブルメーカー』Storenfried (1940)も彼の作品である。また、ヨーゼフ・フォン・バキJosef von Bakyの『ミュンヒハウゼン』Munchhausenのためにアニメシーンを製作し、これはUFAの25周年記念特別映画であった。有名なアニメーターとしてはもう一人、抽象作家のヘルベルト・ゼッゲルケHerbert Seggelkeがいる。彼はフィルムに直接描いた2分の作品『線と点のバレエ』Strich-Punkt Ballet(ミュンヘン、1943年)を制作した。
母国のディズニー登場を待ち望む人々に期待を抱かせた作家がクルト・シュトルデルKurt Stordel(1901年7月30日モルゲンロット〜)である。業界に入り自己修行を積んだ後、シュトルデルはハンブルグで広告映画の製作を始めた。それから彼はベルリンに移った。1935年から38年にかけて『ヘンゼルとグレーテル』Hansel und Gretelや『ブレーメンの音楽隊』Die Bremer Stadtmusikanten、『眠れる森の美女』Dornroschen、『長靴をはいた猫』Der gestiefelte Katerといったおとぎばなしをアニメ化した。彼は1938年の『プルツェル、ブルム、クァック』Purzel, Brumm und Quakで商業的成功を収めた。これは彼のカラー第1作であり、一人のグノーム(プルツェル)がクモと戦って友人の命を救い(ブルムがクモ、クァックが友人のカエル)、王様に美しい花嫁をもたらす話である。シュトルデルが率いた組織は小さなものだったが、ディテールに対してはディズニーさながらの野心と関心を示した。例えば、彼は完成作品を作るためにラインテストを行うのを常とし、動きを研究するためにロトスコープを用いた。美的面に関しては、グノームのプルツェルが自分の自伝の中で面白いことを言っている。
「我が父クルト・シュトルデルは、自分の映画の中でグロテスクなものだけでなく、雰囲気の追求に意を払った。アメリカのものとは反対に、輪郭線のある絵よりも水彩を好んだ」
シュトルデルは1944年に『フンスティ・ブンスティ・サーカス』Zirkus Humsti Bumstiを、1945年には『赤頭巾ちゃんと狼』Rotkappchen und der Wolfを作った。とくに広告映画の分野で多産だったヴォルフガング・カスケリーネWolfgang Kaskeline(〜1973)についても取り上げるべきである。彼は同時にUFAのアニメ部門長でもあった。彼の作品中で重要なのは、『トゥー・カラー』Zwei Farben、『ブルー・ポイント』Der Blaue Punkt、『カラフル・デイ』Der bunte Tagである。ゲッベルスが推進した巨大組織ドイツアニメフィルムDeutsches Zeichenfilmに関しては、アメリカの作品に対抗するという本来の創立目的を達成することはできなかった。『哀れなハンジ』Der arme Hansiは1羽のカナリアとその冒険の物語であり、アニメートは丁寧だが、面白味はほとんどない。
退潮するアヴァンギャルド作家の中で一際目立ったのがハンス・フィッシンガーHans Fischingerである。有名なオスカーの弟であるハンスは1909年にゲルンハウゼンに生まれた。美術学校を出た彼は1931年に兄のベルリンスタジオに合流した。『スタディNo.9』Studie n.9および『スタディNo.10』Studie n.10に協力した後に、自分の作品『スタディNo.12』Studie n.12を製作した。未完に終わった『スタディNo.14』Studie n.14の製作中に、兄弟は口論と作家的ジェラシーの末に決別した。ハンスは直ちにフランクフルトに近いアルツェナウに移った。1937年には7分の抽象映画『カラー・ダンス』Tanz der Farbenを家族で制作した。ゲッペルスの禁制にも関わらず、この映画は配給され、評論家にも観客にも好評だった。新たなプロジェクトにとりかかろうとした時、戦争が始まり、彼は徴兵された。彼が死んだ日はよくわからない。恐らくは1944年のルーマニア前線で戦死したものと思われる。その不運にもかかわらず、ハンス・フィッシンガーは優れた作家であった。ハンスは細く、ハードエッジで、流線形の形態を好み、曲がりくねった、優美だがどことなく派手な動きを好んだ。オスカーが木炭でエッジを微妙にぼかして描くのを好んだのに対し、ハンスはインクやペイント画を灰色の陰影とミックスし、絵筆で描く方を好んだ。
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