カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第7章 ヨーロッパ

イギリス


 30年代、イギリスのアニメ作家の大半はCMを生業としており、娯楽映画の制作に従事したものはほんのわずかであった。アンソン・ダイヤーAnson Dyerは数年間実写映画やドキュメンタリー活動をした後、アニメーションに戻った。1935年、彼はアングリア・フィルムを創立し、漫画映画業界を独占していたアメリカに対抗しようと考えた。音楽のアニメ化を試みた後(例えば1935年の『カルメン』Carmen。公開は1936年)、イギリス人におなじみのキャラクター、サム・スモールSam Smallに方向を転じた。サム・スモールは間抜けな兵隊で、いつも他の怒りっぽいキャラのスケープゴートにされる人物である。はじめはコメディアンのスタンリー・ハロウェイStanley Hollowayがミュージックホールで演じ、後にはラジオ化もされていた。

 ハロウェイはダイヤーの映画のために18回モノローグを録音した。その第1作が『サムとマスケット銃』Sam and his Musket (1935)である。大ヒットを狙って、ダイヤーはカラーで制作することにした。この結果、出来としてはなかなかのものだったが(ストーリーと画面アイディアがハロウェイの練達だがスローなペースのために十分にかみあっていないとはいえ)、観客受けは悪かった。5つのエピソードを作った後、ダイヤーの後援者は降りてしまった。だが、彼らはダイヤーに器材を残してやるだけの寛容さがあったので、ダイヤーはCM製作の小さなスタジオを再開することができた。その中で『かんしゃくもちの王様』The King with Terrible Temper (1937)は広告のラストのおまけの短編で、面白い作品である。

 1936年、「デイリー・エクスプレス」Daily Express紙の漫画家ローランド・デイヴィスRoland Daviesは自分のコミックキャラ、馬のスティーヴSteveをアニメ化しようと試みた。その結果はあらゆる点で失敗だった。デイヴィスのグラフィックはつまらないし、白黒を選んだのも時代遅れで、演出もプロットも古臭いアニメ映画の発想にもとづいており、観客の関心をまったく惹かなかった。自国出身のアーティストには欠けていたが(マクラレンのユニークな才能はまだ揺籃期だった)、イギリスはロッテ・ライニガー、エクトル・オッパン、アントニー・グロス、ジョン・ハラス、レン・ライといった外国からのアニメーターの立ち寄り地点となっていった。

レン・ライ Len Lye


 異才レン・ライLen Lyeは1901年7月5日、ニュージーランドのクライストチャーチに生まれた。工業大学を受講するため、15歳でウェリントンに移った。ここで美術教師と討論しているとき、彼は突然造型芸術における「動き」を理解した。

 「芸術家というものは(私見だが)自分の重要事を伝達可能なイメージとして抽出する試みによって発見する。私のテーマ、それは動きだ。だから私は絶えずこの発展のために試行錯誤しているのだ」
 17歳の終わりに彼は初めての動く彫刻を制作した。これは果物皿に滑車とクランクをとりつけたものだった。彼の関心はとりわけフォルムの問題に向けられた。結論として、彼は映画こそ「動きをコントロールする」理想的な道具であると考えた。
 1921年、ライはオーストラリアで古典的なアニメーションの基礎を学んだ。彼はフィルムにダイレクトペイントする試みをただちに放棄し、何百もの違うアイディアを追求していった。彼はモスクワのメイエルホリト劇団に行くことを夢見たが、サモア諸島に行き、2年間を楽園で過ごした後、創作衝動に駆られて南海を去った(彼の回想によると、「私はあそこでは制作できなかった。若者にはあまりに素晴らしい地でありすぎたのだ」)。なおもソヴィエト行きを考えていた彼は、ロシア語を学ぶため、まずロンドンに逗留することにした。1927年にはロンドンで劇団のアシスタントの職を得た。批評家・映画作家のエドガー・アンスティーEdgar Ansteyはこう書いている。

 「初期のレン・ライは芸術・ジャーナリズム・詩・哲学を転々とする知の探求者であり、流行の美学・哲学論議にすぐさま飛び込んでいった。そして飛び込んだ先から必ず珍種の魚(悪くとも大きな赤ニシン)を捕まえて戻ったのだ」
 1929年、ロンドンのフィルムソサエティから資金援助を受けて、伝統的アニメーションの手法を用いた9分の作品を制作した。タイトルの『テュサラヴァ』Tusalavaはサモア諸島の言葉で「万物は循環する」の意である。この作品は高く評価されたが、ディズニー作品の華々しさには比ぶべくもなかった。アルベルト・カヴァルカンティAlberto Cavalcantiによれば、これは時代遅れの代物だったのである。カヴァルカンティはまたライがフィルムのダイレクトペイントによる作品を作ろうとして、ジョン・グリアソンJohn Griersonとカヴァルカンティ自身、そしてGPOのお偉方の信頼を勝ちうるために、自分の人間的魅力をいかに総動員したかを回想している。ライの魅力は功を奏し、1936年には5分の『カラーボックス』A Colour Boxを発表した。同年、ジェラルド・ノクソンGerald Noxonはライの『カレイドスコープ』Kaleidoscopeをプロデュースしたが、これは同じテクニックによる4分の作品である。この2本の抽象映画は抽象映画作家の狭いグループの中だけとは言え、高く評価された。

 「GPOから依頼されたフィルムの全てにおいて、私は何か新しいことをやることで自分の関心を喚起させようとした。全てのフィルムで技術的にその前にやられていないことを行なった」
 1936年、ドキュメンタリー映画作家の巨匠ハンフリー・ジェニングスHumphrey Jenningsと共同で、ライは人形アニメ『ロボットの誕生』The Birth of the Robotを作り、素晴らしい抽象的な嵐のシーンを登場させた。『レインボーダンス』Rainbow Dance (1936)では人体の映像を用いて特殊なカラーイフェクトにより抽象イメージを作り出した。「これは私の一番奇妙なフィルムだ。奇妙というのは私がそう感じるからで—ポップアート的な感じだ。…素材は全てモノクロで撮影し、最終的なカラープリントでは3原色の層に転写したものだ」とライは後に書いている。『トレード・タトゥー』Trade Tattooは1937年の作品で、これにイギリス政府のための戦争プロパガンダ映画が続く。レン・ライの『スウィンギング・ザ・ランベス・ウォーク』Swinging the Lambeth Walkについては誤解が広まっているが、これはブリティシュ・カウンシル(英国文化協会)が旅行通産振興協会のためにスポンサーとなったもので、戦争プロパガンダではない。1940年、ライは『ミュージカル・ポスター』Musical Posterを製作、これは多くのテクニックが使われており、彼にとっては重要な作品であった。この作品は戦争の負担を観客に納得させるために政府が作った映画のオープニングとして使われた。

 1944年、ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』the March of Timeの製作会社に招かれたライはニューヨークへ移った。1958年にはブリュッセルの映画祭で『フリー・ラディカルズ』Free Radicalsが受賞した。これは5分の白黒作品で電子(自由電子)をテーマとし、ライによれば彼自身の絵画のフォルムと同じように動くものだった。だが政治的理由により、この小品はライが資金援助を当てにしていた資産家には気に入られなかった。後になって、ライは自分の活動をサウンドを発する電動彫刻を作るキネティック・アーティストに限定した。1979年、間近に迫る死を予感したライは、『フリー・ラディカルズ』と『パーティクルズ・イン・スペース』Particles in Spaceをリシェイプして完成させた(後者は1960年代に撮影されたもの)。1980年5月15日、ロードアイランドのウォーウィックでライは没した。

 彼の作品は主として3つのグループに大別される。色彩とグラフィックスの探求を巡るもの(『レインボー・ダンス』が恐らくその最良の作品だろう)。テクスチャーや透明なカラー、または両者の相互関係を中心としたもの(その普通とは違うパレットには淡い色彩や濁った青紫色が含まれている。このグループの最高傑作は『トレード・タトゥー』と『カラー・クライ』Color Cry (1953)である)。そして最後に3つめのグループとして、ライ晩年の作品群を含む、黒味のフィルムをスクラッチして立体的効果を追求したものがある(『フリー・ラディカルズ』『パーティクルズ・イン・スペース』、そして遺作『タル・ファーロウ』Tal Farlow (1981)など)。このニュージーランド生まれの天才最大の功績は、その大胆な独創性にある。それは抽象カートゥーン(『テュサラヴァ』)からカメラレス(『カラーボックス』)、アブストラクトドローイングとライヴアクションのかつてない結合(『トレード・タトゥー』)にまで及ぶ。

 「伝統的な“私”の限界からの最初のブレイクスルーはルネサンスに画家達が立体的イメージを進化させ始めた時に起きた。このイメージは空間関係を身体的に知覚したものだった。…初期の後期印象派は日常的な物理現象である光の振動を色の点描でシミュレートしようとした。
 これらの芸術家は物理的世界の感覚的探求によってとりつかれていた。脳によって知覚するより、むしろ身体感覚によってそれを増幅させることが出来るのだ。

 フィルムの領域は芸術の感覚的側面に立脚している。われわれが経験することには言葉に出来ない領域が数多くあるのだ。…そういった物理現象はごく普通のことだし、それはすべて動きに関連している。

 私のキーワードは「個性」だ。個人の高揚状態にあるときの経験こそが、芸術においてわれわれが目的とするものである。それに到達する方法の一つは感情移入、何か別のイメージにはまり込んで自分自身を感じるプロセスである。

 観客というものがどんなものなのか私は知らない。それは基本的には異なる個々人の総体なのだ」

 ライの関心は動きのコンポジションにあった。アニメションテクニックはそのコンポジションのベースとなる動きをコントロールする手段である。映画作家とキネティックアートの彫刻作家という活動の関係に関しては、「大脳新皮質」とは全くコミュニケートするつもりがなかったと彼は書いている。彼のイメージは原始的な「大脳旧皮質」から身体および運動感覚に現れるのだ。1940年代の回顧上映の際にカヴァルカンティが指摘したように、ライの映画はマラルメの詩やピカソの絵画に似ている。好き嫌いは人それぞれだろうが、それを好きなもののみが理解することができるのだ。あるいは、何も理解できなくとも、それを楽しむことはできる。

 ライの製作は量的には限られており、この作家を映画製作に継続して携わることを妨げた経済的問題ゆえに散発的なものになってしまった。にもかかわらず、彼の作品はアニメ史の中でも最上のものの一つである。

フランス


 ディズニーアニメの人気を見てアニメ作家やプロデューサーの中にはアメリカンスタイルのアニメに向かうものたちがいた。その一例が短命に終わったDAE(欧州アニメ映画社)である。これは1934年にイタリアのデザイナーであり画家でもあったレオンティーナ・“ミンマ”・インデッリLeontina Mimma Indelli(1909年シエナ〜)とイタリア系移民でジャーナリスト兼映画作家のジュゼッペ・マリア・ロ・デュカGiuseppe Maria Lo Duca(1905年ミラノ〜)によりパリで設立された。ロ・デュカはこう書いている。

 「DAEは『アメリカ発見』La decouverte de l'Amerique、『ドロテーと幽霊』Dorothee chez les fantomes、『イングランド征服』La conquete de l'Angleterreの製作を開始した。第1作が完成した。アニメーターはピエール・ブルジョンPierre Bourgeonだった。われわれはオペレーターやカラープロセスについては触れたくない。彼らのせいでDAEは破産したのだ。オペレーターはカメラの欠陥を発見できなかった。だが、発明者はまだそのプロセスを完成していなかったのだ」
 この製作会社が解散した後、ミンマ・インデッリはそのユーモア作家・アーティストとしての見事な手腕を振るう機会に二度と恵まれなかった。1942年、彼女は『駅馬車とハエ』Le coche et la mouche(ラ・フォンテーヌ寓話が原作で、ポール・ド・ルベーPaul de Roubaixとの共同作品)に再トライしたが、火災によりこの作品は破壊された。落胆した彼女は映画から絵画に転向した。

 フランスにおいて、アニメは主としてコマーシャルの分野で生き延びたが、別の試みも行なわれた。アンドレ・リガルAndre Rigal(1898〜1973)はニュース映画「フランス・アクチュアリテ」France-Actualiteに挿入されるユーモラスなアニメパートを製作した。これは1933年に『ご機嫌なフランス』France bonne humeurのタイトルでスタートした。ドイツ占領時代には『サボール船長の船出』Cap'taine Sabord appareille、『神秘島のサボール船長』Cap'taine Sabord dans l'ile mysterieuse、『本日晴天』V'la le beau temps等の短編を製作した。リガルは『水の喜び』Les joies de l'eau (1932)の監督ジャン・レニエJean Regnierと長年に渡り共同製作した。

 映画作家で科学者のジャン・パンルヴェJean Painleveはヒット作『青ひげ』Barbe bleue (1938)でルネ・ベルトランRene Bertrandが製作した粘土モデルをアニメートした。その4年前の1934年、アラン・ド・サン=トガンAlain de Saint-Oganはジャン・ドローリエJean Delaurierと共同で『美人コンテスト』Un concours de beauteのための作画を行なった。1930年、ドローリエ(1904年オーリヤック〜1982年シャティヨン)はイギリス系スイス人アーティスト、ジャン・ヴァレJean Vare(本名モーリス・ヘイウォードMaurice Hayward、1914〜1940)と出会った。二人は『眠っているムニエ』Meunier tu dors (1931)を製作した。1935年、ドローリエはミレーユ&ジャン・ノアンMireille and Jean Nohamのヒットソング『わらの中の眠り』Couches dans le foinをアニメ化した。この作品には魅力的なシーンもいくつかあるが、ミレーユには気に入られず、お蔵入りとなった。アルカディ(アルカディ・ブラクリアノフArcady Brachlianoff)もポピュラーソングの分野でデビューした。1912年にソフィアで生れた彼は、アニメに入る前はシャルル・トレネCharles Trenetsのために曲を書いていた。1940年代にはフランスの非占領地域で活動し、『町のピム』Pym dans la ville、『エスキモー・カポックの冒険』Les aventures de Kapok l'esquimau、『古館の鐘』Le carillon du vieux manoir等の短編(全て1943年)を作った。

 画家・イラストレーターのアンドレ・マルティAndre Marty(1882〜1974)は1943年の『ディアナのニンフ、カリスト』Callisto, la petite nymphe de Dianeでエレガントなスタイルを見せた。漫画家のアルベール・デュブーAlbert Dubout(1905〜1976)はアニメーターのジャン・ジャンカJean Juncaの助力を得て自分のキャラであるアナトールAnatoleのシリーズを作ろうとした。『アナトール、キャンプに行く』Anatole fait du camping、『ネスル塔のアナトール』Anatole a la tour de Nesleは戦時中に製作され、1947年に公開された。

 20年代からのヴェテラン、アントワーヌ・ペイヤンAntoine Payenは1947年に『クリクリ、リュドと太陽』Cri-Cri, Ludo et le soleil、『クリクリ、リュドと嵐』Cri-Cri, Ludo et l'orageの二つの短編を作った。最後になるが、アレクセイエフやバルトーシュといったフランスで活動しつづけたアーティストたちも忘れてはならない。

 この時期の重要な出来事はポール・グリモーPaul Grimaultのデビューである。1905年3月23日ヌーイ・シュル・セーヌに生れ(後に協力者となるジャック・プレヴェールJacques Prevertとは5年と30m離れていた)、デザイン学校に通った後、デパートのディスプレーアレンジの職に就いた。ピエール・プレヴェールPierre Prevert、ジャック・プレヴェール、ジャン・オーランシュJean Aurenche、ジャン・アヌイJean Anouilh等はこぞってアニメへの転身を勧めた。1938年、アンドレ・サリュAndre Sarrutをパートナーに、グリモーはコマーシャルアニメの製作会社レ・ジェモーLes Gemeaux社を設立した。コマーシャルや未完のアートフィルム『ピープ氏』Monsieur Pipeに従事した後、1941年にはアートフィルムの第1作を作った。これはもともとエール・フランスが金を出したプロジェクトを利用したものである。『大熊座号の乗客』Les passagers de la Grande Ourseと題されたこのフィルムは作者グリモーの力強い風刺的画風、渋い色彩感覚、繊細なタッチが開花した最初のものである。グリモーは1994年3月29日メスニル・サン・ドニで亡くなった。

 ジャン・イマージュJean Image(1911年1月26日ブダペスト〜1989年10月21日パリ)は短期間広告を製作した。本名はイムレ・ハイドゥImre Hajduで、若くしてフランスに移住した。彼はスポンサー付映画を製作し、その後『二つの調子』Sur deux notes (1939)や『狼と子羊』Le loup et l'agneau (1940)、『ブラック・プレイズ・アンド・ウィンズ』Les noirs jouent et gagnent (1944)、『パンソー氏の冒険』Les aventures de M. Pinceau等の短編を自主制作した。戦後、彼はフランスの長編アニメ第1号の作者となった。

アントニー・グロス Anthony Gross


 イギリス人アントニー・グロスAnthony Gross(1905年3月19日ダルウィッチ〜1984年9月8日)はパリを活動の拠点とした。アメリカ人の資本家ヘクター・ホッピンHector Hoppin(エクトル・オッパン)をパートナーとして、製作会社アニマットAnimat社を創立した(1932年)。この会社は小人数だが有能なスタッフを抱え、2本の佳作短編をたちまち完成させた。『アフリカの一日』Jour en Afriqueと『葬式』Les funeraillesである。グロスの技術が確立されたのは第3作『生の悦び』La joie de vivre (1934)である。フリースタイルのフローラルバレエを手本に、『生の悦び』はブロンドとブリュネットの二人の少女が登場し、色々な地方を走り抜ける。少女のなくした靴を返そうとして、少年が彼女たちを追いかける。この短編の成功後、オッパンとグロスはロンドンのアリグザンダー・コルダAlexander Kordaに招かれ、そこで『狐狩り』The Fox Hunt (1936)をカラーで作った。ここにも彼のバレエ趣味は一貫しており、間抜けなハンターと往来の真ん中でさえも逃れようとする賢い狐には振り付けが施されている。パリに戻った二人は彼らの留守中にアニマット社のスタッフがデヴィッド・パテDavid Patee演出で製作した映画『昼と夜』Le jour et la nuitを見た。

 1937年には社名をソシエテ・オッパン・エ・グロスSociete Hoppin et Grossに改名し、新しい冒険に乗り出した。これが長編『80日間世界一周』Le tour du monde en 80 joursである。だが、ここでもまたヨーロッパのアニメ映画の誕生を妨げる出来事が起こった。1939年に第二次大戦が勃発し、1940年6月14日にナチの軍隊がパリに進入したのである。グロスはイギリスに逃れ、自分のフィルムを跡形もなくすべて失った。戦争が終わり、1939年の古いフィルムがテクニカラーの金庫で発見され、作品が手元に戻ってきた。イギリス映画研究所の助けでグロスは自分の作品を再構成した。つなぎのシーンを付け加え、かくしてこのフィルムは1955年に『インドの幻想』Indian Fantasyの名で公開された。主人公はフィリーズ・フォッグPhileas Foggで、旅の準備とインド王女を火あぶりから救うエピソードである。『インドの幻想』はグロス最後のアニメであり、その後は映画から引退して絵画に打ち込んだ。

 グロスの作品はまさに「生の悦び」を特徴としており、本能的で奔放であり、ほとんど異教的でもある(著者との会話でグロスは自分を「ディオニュソス的」と呼んだ)。洗練されたユーモアセンスも明らかで、自由なファンタジーを妨げる気取りや作為的なもの全てに対抗している。スタイル面でいえば、このしなやかな振り付け師による花のような創造物たちは生き生きと優美な動作で動く。カラーもまた独創的で同時代人の多くが多彩なカラーを使ったのとは対照的に、白系統と赤系統の戯れを強調している。

イタリア


 1935年、漫画雑誌「マルカウレリオ」Marc'Aurelioの3人の作家、アッタロAttalo(ジョアキント・コリッツィGioacchino Colizzi)、マメリ・バルバラMameli Barbara、ラウル・ヴェルディーニRaoul Verdiniが協力して長編映画『ピノキオの冒険』Le avventure di Pinocchioを作ろうとした。監督は作曲家のロモロ・バッキーニRomolo Bacchiniである。この努力が水泡に帰したのは、スタッフ間の不協和音だけでなく、アニメ制作のプロセスそれ自体にも原因があった(アッタロは後に彼ら気鋭の映画作家たちがアニメのテクニックをほとんど何も知らなかったことを告白している)。翌年のヴェルディーニだけの挑戦もやはり運に恵まれなかった。この『ピノキオ』はコロディCollodiの人形物語を映画化しようとした多くのイタリア人の中でも、最初ではないにせよ最も有名なものである。

 1937年、コッシオCossio兄弟はタッソーニの愉快な詩を原作とする『盗まれたバケツ』La secchia rapitaを映画化した。1938年にはH・G・ウェルズ原作の『タイムマシン』La macchina del tempoを作った。この2作ではミラノの技術者グルティエロ・グァルティエロッティGultiero Gualtierottiの考案した方法を使い、カラーや立体映画の実験を行った。技術的理由により(このプロセスは非常に高価な設備を要求した)、彼らは制作をそれ以上続けなかった。

 ジーノ・パレンティGino Parenti(1871〜1943)はモレナ出身の画家・風刺作家であり、事実上ただ一人で『勇者アンセルモ』Il prode Anselmo(恐らく1936年)を制作した。音楽はダニエレ・アンフィテアトロフDaniele Amfitheatrofである。ウンベルト・スパーノUmberto Spanoは1902年カリアリに生れ、アメリカ作品をモデルとして発想し、『バルッダの逃亡』Barudda e fuggito(1940。一人の少年が登場し、無法者バルッダを捕まえる物語)を製作した。1940年にはローマの画家ルイジ・ジョッベLuigi Giobbe(1907〜45)が『ノルウェイの水夫とアメリカの水夫』Il vecchio lupo di mare norvegese e il vecchio lupo di mare americanoを作った。その後まもなく、ジョッベはコッシオ兄弟をローマに招き、協力して古いナポリ仮面劇を基に2本の短編を制作した。これが『プルチネッラと山賊たち』Pulcinella e i briganti(別名『森のプルチネッラ』Pulcinella nel bosco)と『プルチネッラと嵐』Pulcinella e il temporaleである。

 連載漫画家ロベルト・ズリッリRoberto Sgrilli(1897年フィレンツェ〜1985年)は『ほらふき男爵』Il barone di Munchhausen(1941)を映画化し、2、3ヶ月後には『アナクレトとイタチ』Anacleto e la fainaを作った。1941年にはこれも漫画家のアントーニオ・ルビーノAntonio Rubino(1880年サンレモ〜1964年バイアルド)が『蛙の国』Nel paese dei ranocchiを作り、アール・ヌーヴォーの独自の解釈を与えた。1943年にジャンベルト・ヴァンニGiamberto Vanniの『リトル・ブッダ』Piccolo Buddaが公開された。これは若干19歳の作者による野心的な作品である。

 ニーノ・パゴーNino Pagotがデビューしたのは1940年代である。飛びぬけた才能に恵まれた作家だった彼は、後にイタリアアニメで初めてスタッフを組織化し、広く影響を与えたグループを統率した。1908年5月22日ヴェネツィアに生れたパゴーは、ミラノに移って短編アニメの試作を開始した。1938年には自分の会社を設立し、弟のトーニToni(1921年12月16日ミラノ〜)を呼び寄せた。第二次大戦中、パゴーは戦争プロパガンダの短編数本を作って仕事を確保するとともに腕を磨いた。1946年、彼は中編『ラッラ、小さなラッラ』Lalla, piccola Lallaを発表し、これが好評を得た最初の作品になった。

ドイツ


 ヒトラーの台頭後、教育宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは文化・映画のナチ化を図った。あらゆる「退廃芸術」(あるいは「抽象芸術」)は禁じられた。優れたアニメーターたちは—彼らはまさに抽象にそのルーツと表現形式を見出していたので—移住し、沈黙を守り、あるいは半ば秘密裏に作品を制作した。CM分野での制作は続行したが、1933〜45年の12年間に関してはほとんどデータがなく、残存するフィルムもほんの数本である。残されたわずかな情報からの印象では、制作者たちはアメリカアニメに対抗しようとしたが(特に技術レベルで)、熱気も独創性にも欠けていたようである。

 ハンス・フィッシャーケーゼンHans Fischerkoesen(1896年5月18日〜1973年)は1920年代に名声を確立し、ライプツィヒに大スタジオを設立してプロデューサーとなり、1941年にはポツダムに移った。最も有名な作品は『荒れ地のメロディ』Verwitterte Melodie (1942)と『スノーマン』Der Schneemann (1943)である。最初の作品は蜜蜂と芝に放置されたレコードプレイヤーの物語であり、熟練のキャメラワークや背景デザインとは対照的にキャラクターの絵柄は貧弱である。2番目の作品は疑いなく出来が良い。ペーソスとユーモアを兼ね備えた作品で、雪だるまが夏を見たいと願うが、最後には溶けてしまう話である。ポツダム時代3番目の『愚かなガチョウ』Das dumme Ganslein (1944)が完成したのはベルリン陥落の直前だった。フィッシャーケーゼンの協力者であるホルスト・フォン・メーレンドルフHorst von Mollendorff(1906年4月26日フランクフルト=アム=オダー〜)は優秀な漫画家・風刺作家で、初期2作のテーマやアイディアを出した人物である。1944年、メーレンドルフはプラハのプラハ・フィルムにアニメ部門のグラフィックディレクターとして招かれた。戦争と占領という困難の中で、彼はボヘミア人作家と共に『サンゴ礁の結婚式』Hochzeit im Korallenmeerを作った。これは2匹の魚が悪漢のタコの脅威にもめげずに結婚を祝うという物語である。戦争が終わると、フォン・メーレンドルフはベルリンに戻り、漫画家に専念した。彼がアニメに関わったのは2年半のみだった。

 フェルディナント・ディールFerdinand Diehl(1901〜)は1927年にエメルカ・フィルムEmelka Filmで修行時代をスタートした。1929年、彼は兄弟のパウルPaulとヘルマンHermannと共に製作会社を設立した。彼らの第1作は『カリフの鶴』Kalif Storch (1929)で、ヴィルヘルム・ハウフWilhelm Hauffの物語を原作とし、影絵によって製作された。この会社は人形アニメを専門とした。これは人間そっくりで非常にリアルなモデルを使い、『1935年のある中世都市の物語』Die Ersturmung einer mittelalterlichen Stadt um das Jahr 1350などに登場した。兄弟のうちで最もクリエイティヴな仕事をしたのがフェルディナントであり、彼が演出、アニメーション、キャラクターヴォイスを担当し、ヘルマンが人形を製作した。1937年に彼らは原作グリム童話の『七羽のカラス』Die sieben Rabenを公開した。この映画は撮影の美しさとアニメーションの見事さは賞賛されたが、あまりにテンポがスローだと批判された。同年、短編『ウサギとハリネズミの競争』Der Wettlauf zwischen dem Hase und dem IgelではハリネズミのメッキMeckiが登場した。フェルディナント・ディールは1985年に「われわれは少なくとも千体の人形を作った。だが、成功したのはメッキ一匹だけだった」と語っている。事実、このハリネズミは戦後になって漫画のヒーローとなった。

 ハンス・ヘルトHans Held(1914〜)はベルリン・バベルスベルクにアニメーションスタジオを設立し、いくつかの作品、特にカラー映画に従事した。ずる賢いキツネの物語『トラブルメーカー』Storenfried (1940)も彼の作品である。また、ヨーゼフ・フォン・バキJosef von Bakyの『ミュンヒハウゼン』Munchhausenのためにアニメシーンを製作し、これはUFAの25周年記念特別映画であった。有名なアニメーターとしてはもう一人、抽象作家のヘルベルト・ゼッゲルケHerbert Seggelkeがいる。彼はフィルムに直接描いた2分の作品『線と点のバレエ』Strich-Punkt Ballet(ミュンヘン、1943年)を制作した。

 母国のディズニー登場を待ち望む人々に期待を抱かせた作家がクルト・シュトルデルKurt Stordel(1901年7月30日モルゲンロット〜)である。業界に入り自己修行を積んだ後、シュトルデルはハンブルグで広告映画の製作を始めた。それから彼はベルリンに移った。1935年から38年にかけて『ヘンゼルとグレーテル』Hansel und Gretelや『ブレーメンの音楽隊』Die Bremer Stadtmusikanten、『眠れる森の美女』Dornroschen、『長靴をはいた猫』Der gestiefelte Katerといったおとぎばなしをアニメ化した。彼は1938年の『プルツェル、ブルム、クァック』Purzel, Brumm und Quakで商業的成功を収めた。これは彼のカラー第1作であり、一人のグノーム(プルツェル)がクモと戦って友人の命を救い(ブルムがクモ、クァックが友人のカエル)、王様に美しい花嫁をもたらす話である。シュトルデルが率いた組織は小さなものだったが、ディテールに対してはディズニーさながらの野心と関心を示した。例えば、彼は完成作品を作るためにラインテストを行うのを常とし、動きを研究するためにロトスコープを用いた。美的面に関しては、グノームのプルツェルが自分の自伝の中で面白いことを言っている。

 「我が父クルト・シュトルデルは、自分の映画の中でグロテスクなものだけでなく、雰囲気の追求に意を払った。アメリカのものとは反対に、輪郭線のある絵よりも水彩を好んだ」
 シュトルデルは1944年に『フンスティ・ブンスティ・サーカス』Zirkus Humsti Bumstiを、1945年には『赤頭巾ちゃんと狼』Rotkappchen und der Wolfを作った。とくに広告映画の分野で多産だったヴォルフガング・カスケリーネWolfgang Kaskeline(〜1973)についても取り上げるべきである。彼は同時にUFAのアニメ部門長でもあった。彼の作品中で重要なのは、『トゥー・カラー』Zwei Farben、『ブルー・ポイント』Der Blaue Punkt、『カラフル・デイ』Der bunte Tagである。ゲッベルスが推進した巨大組織ドイツアニメフィルムDeutsches Zeichenfilmに関しては、アメリカの作品に対抗するという本来の創立目的を達成することはできなかった。『哀れなハンジ』Der arme Hansiは1羽のカナリアとその冒険の物語であり、アニメートは丁寧だが、面白味はほとんどない。

 退潮するアヴァンギャルド作家の中で一際目立ったのがハンス・フィッシンガーHans Fischingerである。有名なオスカーの弟であるハンスは1909年にゲルンハウゼンに生まれた。美術学校を出た彼は1931年に兄のベルリンスタジオに合流した。『スタディNo.9』Studie n.9および『スタディNo.10』Studie n.10に協力した後に、自分の作品『スタディNo.12』Studie n.12を製作した。未完に終わった『スタディNo.14』Studie n.14の製作中に、兄弟は口論と作家的ジェラシーの末に決別した。ハンスは直ちにフランクフルトに近いアルツェナウに移った。1937年には7分の抽象映画『カラー・ダンス』Tanz der Farbenを家族で制作した。ゲッペルスの禁制にも関わらず、この映画は配給され、評論家にも観客にも好評だった。新たなプロジェクトにとりかかろうとした時、戦争が始まり、彼は徴兵された。彼が死んだ日はよくわからない。恐らくは1944年のルーマニア前線で戦死したものと思われる。その不運にもかかわらず、ハンス・フィッシンガーは優れた作家であった。ハンスは細く、ハードエッジで、流線形の形態を好み、曲がりくねった、優美だがどことなく派手な動きを好んだ。オスカーが木炭でエッジを微妙にぼかして描くのを好んだのに対し、ハンスはインクやペイント画を灰色の陰影とミックスし、絵筆で描く方を好んだ。

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