ジョン・ランドルフ・ブレイJohn Randolph Brayは1920年代も事業拡大と多角化を続けた。ニュース、実写の喜劇、教育映画に多忙な彼は創造面の責任を次第に他人に任せるようになった(まず、マックス・フライシャー、後にウォルター・ランツ)。アニメの分野における企画としては『ヒーザ・ライア大佐』Colonel Heeza Liarのリバイバル(1922年)からランツの『ディンキー・ドゥードル』Dinky Doodle、そして『アンナチュラル・ヒストリー』Unnatural History(1924年頃にアール・ハードが自分の会社で始めた)まで様々である。リスキーなプロジェクト(コロラド川のドキュメンタリーはクルーの生命を危険にさらし、制作の遅れで裁判沙汰になった)がこのパイオニアのタイクーンのストレスに拍車をかけた。1927年、彼は会社のエンターテインメント部門を閉鎖し、よりつつましいが確実性は高い教育映画に集中した。
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アール・ハードEarl Hurdは1920年に独立し、美学的にはよくできたフィルムを制作したが、不成功に終わった。ハードは『アンナチュラル・ヒストリー』の他に『ペン・アンド・インク・ヴォードヴィル・スケッチ』Pen and Ink Vaudeville Sketchesを作った。これは垂れ幕までついている本物の人形劇の中で互いに無関係なエピソードが続くものである。ブレイ・スタジオをやめた後、彼はしばらく姿を消し、1930年代にチャールズ・ミンツのスタジオに加わった。1934年にはディズニーへ移って『白雪姫』Snow Whiteや『ファンタジア』Fantasiaといった映画に従事し、1940年に亡くなるまでそこにとどまった。
最後にトニー・サーグTony Sargの切り紙アニメーションにも注意を向ける必要がある。イラストレーターである彼はウィリス・オブライエンWillis O'Brienの元パートナー、ハーバート・ドーリーHerbert Dawleyと組んで制作した。サーグがアニメーションにかかわったのは1921〜23年の3年間である。
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