カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第4章 アルゼンチン:世界初の長編アニメーション

キリーノ・クリスティアーニ Quirino Cristiani

 文化的にも産業的にも当時の主流から遠く隔たっていたにもかかわらず、アルゼンチンはアニメーション映画の制作に関して重要な国である。それは基本的には一人のパイオニア、イタリア生まれのキリーノ・クリスティアーニQuirino Cristiani(1896年7月2日サンタ・ジュレッタ〜1984年8月2日ベルナル)のおかげである。20歳でアルゼンチンにやってきたクリスティアーニは首都の日刊紙に掲載されたカリカチュアで有名になった。ニュース映画のプロデューサーであるフェデリコ・ヴァッレFederico Valleは自身もイタリア出身であったが(1880年アスティ〜1960年ブエノス・アイレス)、自分の『ヴァッレ・ニュース』Actualidades Valleのために「動く」政治風刺漫画を試みようと考え、若干20歳のクリスティーニを呼び寄せた。

 クリスティアーニはエミール・コールEmile Cohlの作品(彼の師が保存していた)によって簡単な技術を学び、『ブエノス・アイレス地方における干渉』La intervencion a la provincia de Buenos Airesを制作した。これは約1分のシーンで、この地方の知事であるマルセリーノ・ウガルテMarcelino Ugarteをからかった内容である。

補足


 観客受けが良かったので、ヴァッレは長編諷刺アニメを制作する事にした。アルフォンソ・デ・ラフェッレーレAlfonso de Laferrereがシナリオを書き、クリスティアーニがアニメーションと今で言う演出を行なった。その一方で美術のアンドレス・ドゥカウAndres Ducaudはブエノス・アイレスの火災という驚くべきシーンのためにミニチュアモデルを制作した。大々的に宣伝するため、当時最も有名な諷刺画家であるディオヘネス“エル・モノ”タボルダDiogenes 'El Mono' Tabordaがキャラクターデザインとして雇われた(実際にはタボルダはコマ撮りの遅々とした進行にうんざりしてしまい、映画にはほとんど関与していない)。『使徒』El Apostolがプレミア上映されたのは1917年11月9日のセレクト・スイパチャSelect-Suipacha館であった。この映画は約1時間で、史上初の長編アニメーションであった(この映画のプリントは現存しないため、我々は2,3の文献資料とクリスティアーニの記憶に頼らざるを得ない。『使徒』が実際に長編映画であったか否かについてはなお不確実である)。様々な副筋で込み入ったものになっているが、それでも本筋はほとんど一直線である。新大統領のイポーリト・イリゴージェンHipolito Yrigoyenはアルゼンチンの風紀の乱れに憤激し、使徒のような身なりをしてオリュンポス山を登ろうと夢見る(国家を贖罪する使徒として)。政治的状況について神々と様々な議論を戦わせた後、彼はユピテルの雷を獲得し、それでブエノス・アイレスを浄化の炎で焼き尽くさんとする。イリゴージェンはこうしてこの市を古い市の灰から完全に建て直そうとする。そこから去った彼は目が覚め、現実に向き直るのである。配給に恵まれなかったにもかかわらず、このフィルムは大衆を興奮させ、マスコミからは国産映画の進歩の代表と評価された。ヴァッレと別れたクリスティアーニはこの成功を利用して、すぐさまもう1本の長編映画を制作した。これは第一次大戦関連の事件に材を取った『跡形もなく』Sin dejar rastros (1918)であるが、1日しか上映されなかった。このフィルムは政治的理由で没収され、どこかの官庁の倉庫で散逸してしまった。

 クリスティアーニは続けて数多くのチャレンジに取り組み、広告映画や科学教育短編映画(『鼻の手術』Rinoplastiaや『胃の手術』Gastrotomia、1925)、公共広告映画、短編ギャグ映画などを制作した。ギャグ映画は時事関係のものが多かった。例えばアンヘル・ルイス・フィルポAngel Luis Firpoが登場するヘヴィ級ボクシングマッチや(『フィル=ポブレ=ナン』Fir-pobre-nan、『フィルポ=デンプシー』Firpo-Dempsey、1923年)、若く魅力的なイタリア王子ウンベルト・ディ・サヴォイアUmberto di Savoiaのアルゼンチン訪問(『愉快なウンベルティート』Humbertito de garufa、1924年)などである。

 1928年、憲法の定めた期日の後にイリゴージェンは大統領選に立候補し、再選された。イリゴージェンが耄碌し、閣僚の不正が明らかになると、クリスティアーニは今度は彼を笑い者にしようとする誘惑に勝てなかった。1929年に彼は新設のスタジオ・クリスティアーニEstudios Cristianiで『ペルードポリス』Peludopolisの制作を開始した(この題名は「ペルードの都市」の意味で、「ペルード」はこの急進的大統領のあだ名をもじったものである)。

 2年の作業の後、この映画は1931年9月16日にチネ・レナチミエントCine Renacimientoで公開された。だが、最終版は本来の計画とは根本的に変化した。歴史がクリスティアーニに再編集を余儀なくさせた。映画公開1年前の1930年9月6日に、ホセ・フェリス・ウリブルJose Felix Uriburu将軍のクーデターによって民主制は転覆させられたのである。クリスティアーニはこの映画を急いで手直しし、出来るだけシーンを残そうとしたが、結果は観客に不評だった。批評家にはもっと好意を持って受け入れられ、彼らはクリスティアーニを賞賛して力づけた。『ペルードポリス』は世界初の長編トーキーアニメであり、クリスティアーニの先見性をますます証明することになった。

 この経済的損失で傷ついたクリスティアーニは映画への取り組みにより慎重になり、広告映画だけしか制作しないことにした。1938年には短期間娯楽映画にカムバックし、作家・編集者のコンスタンシオ・C・ビジルConstancio C. Vigilに依頼されて、『猿の時計屋』El mono relojeroを映画化した。この映画ではアメリカ的なセル画によるテクニックとアメリカ映画の影響を受けたスタイルを使っている。この作品は成功しなかった。出来は平均的だが、監督のコミカルな発想と作家の教育的意図の食い違いが駄目にしている。ビジルの他の短編を映画化する計画はマーケットを見つける事が難しかったために着手されなかった。同じ理由からクリスティアーニは次第に広告活動をやめて、印刷や自分の名を関したこの新スタジオで印刷やサウンドレコーディングの方に重心を置くようになった。彼は『笛とフルートの間に』Entre pitos y flautas (1941)と『カルボナーダ』Carbonada (1943)で2度短編喜劇映画に復活した。その後は永久にこの分野から引退した。

 情報が少なくまた不確実ではあるが、アンドレス・ドゥカウにもクリスティアーニと同様に注意を払うべきである。クリスティアーニの『使徒』で美術デザイナーとして働いた後、ドゥカウはプロデューサーのフェデリコ・ヴァッレに協力し続けた。1918年には『仮面の下』Abajo la caretaもしくは『民衆の共和国』La republica de Jaujaを演出した。これは昔の保守的な独裁政治を諷刺したフィルムである。この作品はテンポがのろく、全体が退屈なのが特徴で、マスコミの反応が鈍かったのも当然である。この直後に(正確な日付は不明)ドゥカウはブエノス・アイレスの上流階級を諷刺した長編を制作した。タイトルは『混血児カルメン』Carmen criollaもしくは『コロン市祝典の夜』Una noche de gala en el Colonで、線画と人形を組み合わせたものであり、ディオヘネス・タボルダのキャラを使用していた。この作品は退屈で間延びしたペースや技術的未熟さのせいで失敗した。

 長編アニメという困難な分野においてかくも多産だったことは、驚くべき、しかも希少な現象として特筆すべきである。特にアルゼンチンという、技術面でも輸出入面でも困難な状況の中、映画発展が不十分だったという制約を考えるとなおさらである。この映画が花開いたのは30年代の一時期のみであった。

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