カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第3章 ヨーロッパの作家たち

 世紀初頭のヨーロッパアニメはエミール・コールやアヴァンギャルド画家たちだけによって発見されたわけではない。同じ頃、イギリス、スペイン、ロシアなどでは孤立した作家たちが活躍し、ヨーロッパのアニメ地図を形成した。これは1919年のヴェルサイユ講和条約がヨーロッパの新しい国境線を決めるよりも前のことである。ほとんど例外なく、アニメーターは単独、あるいは少数のグループで制作した。多くの国では組織もノウハウもなく、アニメーションは孤立した愛好家----いわゆる「パイオニア」----の熱狂的あるいは無謀な行動にゆだねられていた。文化的伝統のあるいくつかの国、例えばオランダ、ポーランド、チェコスロバキアでは、フィルムは偶発的にしか制作されなかった。第1次大戦は諷刺プロパガンダ映画の需要を呼び起こし、アニメーション映画のマーケットを増大させた。さらに、いくつかの都市では小さなスタジオが広告映画や映画のタイトル、そして時おり娯楽短編を制作した。

 実写映画の制作が爆発的に増え、その最初の傑作群を生み出していったのとは対照的に、アニメーションはなお「前史」的状態を抜けだそうともがいていた。実写の映画作家とは異なり、アニメーターはトーキーの時代に入ってさえ、いまだに初心者段階にとどまっていた。このようなヨーロッパのアニメーション産業の先天的な弱さは、1930年代の半ばでようやく克服され、より確固としたプロダクションがアメリカのそれを真似することで打ち立てられた。しかしながら、この進歩によってアニメーションが質を獲得するとは限らなかった。事実、「英雄」時代のアニメーターは決してとるに足りない存在ではなかった。彼らは貧困と芸術的自由の中に自らの力を見出した。その究極の、しかし典型的な例が、ただ1本の映画しか生み出さなかったベルトルト・バルトーシュである。

ヴァイマール共和国のアニメーション


 ドイツでは、広告映画や科学映画、工業映画が作られる一方で、より大胆不敵なアヴァンギャルド映画が作られた。そして諷刺映画は多くの観客にアピールしていた。製作の中心はベルリンとミュンヘンである。

 ユリウス・ピンシェヴァーJulius Pinschewer(1883年9月15日ホヘンザルツァ〜1961年4月16日ベルン)のキャリアは1910年より始まり、もっぱら広告の方に進んだ。『スープ』Die Suppe(1911)では、オブジェアニメと実写を組み合わせた。ピンシェヴァーの協力者には当代きっての人材がいた。例えば、ヴァルター・ルットマンWalther Ruttmann(彼と共に作ったのが『勝利者』Der Sieger(1920)である)や、ロッテ・ライニガーLotte Reiniger、ハンス・リヒターHans Richter、ギド・ゼーバーGuido Seeber、オスカー・フィッシンガーOskar Fischinger、ハンス・フィッシャーケーゼンHans Fischerkoesen、そしてジョージ・パルGeorge Palなどだった。ピンシェヴァーはドイツの広告に芸術性をもたらし、これは20年にわたって世界の最先端を進み続けた。ピンシェヴァーは1934年にナチスドイツから逃れた後も、スイスのベルンで広告や教育分野の活動を続けた。

 ギド・ゼーバー(1879〜1940)は撮影監督、デザイナー、技術雑誌や業界誌の編集者、発明家、マニュアルのライター、教師、プロデューサーなど、多才な才能を発揮した人物である。撮影監督としては多くの映画にかかわった。その中にはアスタ・ニールセンAsta Nielsen主演・ゲオルク・ヴィルヘルム・パプストGeorg Wilhelm Pabst演出の『プラーグの大学生』Student von Prag(1913)も含まれる。アニメーションの分野では、ゼーバーは『キフォ』Kipho、別名『来れキフォへ』Du musst zur Kipho(1925)のような広告映画を撮っている。この作品はベルリンの映画・写真博覧会のためにピンシェヴァーが製作した抽象映画である。この独創的な作品で、ゼーバーは幅広い映画トリックと構成主義的厳格さを結合させている。

 スイス国籍のルドルフ・プフェニンガーRudolf Pfenningerは画家エミール・プフェニンガーEmil Pfenningerの息子として1899年10月25日ミュンヘンに生まれた。舞台美術、デザイナー、アニメーターであった彼の才能は映画(『ラルゴ』Largo、1922、『ゾナンナーサッツ』Sonnenersatz、1916)よりむしろその発明の方に良く発揮されている。特に「サウンド・ライティング」と呼ばれるシンセティック・サウンドの実験は彼を有名にし、プフェニンガーは1930年から1932年の間これに取り組んだ。認めてもらえないことに失望した彼は、数本の短編映画を制作した(『ピッチュとパッチュ』Pitsch und Patsch、『セレナーデ』Serenade、ディールDiehl兄弟との共作『バルカロル』Barcarolle)。ナチズムの台頭により、プフェニンガーは名前を表に出さなくなっていった。プフェニンガーは1976年6月14日、ミュンヘン近郊のバルダムで没した。

 1920年代、映画館では『同僚パル』Kollege Palや『マックスとモリッツ』Max und Moritzのシリーズに加えて、ハンス・フィッシャーケーゼンHans Fischerkoesenやハリー・イェーガーHarry Jaeger、クルト・ヴォルフラム・キースリッヒKurt Wolfram Kiesslich(ナショナリズムのプロパガンダ映画を制作)、ルイス・ゼールLouis Seel(恐らくはアメリカ人)、ディーンフィルムのトニー・ラボルトToni Raboldらの映画も上映されていた。ディールDiehl兄弟はその長続きするキャリアを開始した。影絵芝居のスペシャリストだったローレ・ビールリングLore Bierlingもデビューした。1928年、高名な諷刺画家のゲオルゲ・グロスGeorge Groszはエルヴィン・ピスカトールErwin Piscatorのステージパフォーマンスのために『勇敢な兵士シュヴェイク』Die Abenteuer des braven Soldaten Schweijkを映画化したが、残念ながら現存しない。製作会社の中で、ベルリンを根拠地とした万能のウファは、偉大なドイツ映画の創始者として、また、特殊撮影や教育映画、映画のタイトル、アヴァンギャルド映画をやがて制作することになるという点で言及に値する。

 この量的にも質的にも豊かな時代こそ、まさに始まりにして頂点であった。これがドイツアニメーションの黄金時代である。続くナチズム、第2次大戦、戦後の各時代に、アニメーターの重要性は弱体化し続け、大衆はほんの数年前に拍手喝采していた当のフィルムに対する関心を失ってしまった。

背景


 芸術の自由に関して、ドイツとフランスはヨーロッパをリードしていた。しかし、アニメーションを通じて自己表現することを好んだのは、フランスよりドイツの前衛映画界であった。この傾向は恐らくそのオリジンの問題である。フランスのアヴァンギャルドはダダやシュルレアリスムにルーツを持つが、両者は行動や既成物の転倒に向かう傾向があった(そのためには「現実」の素材、すなわち実写が必要である)。ところが、ドイツはシュプレマティスム、デ・スティール、バウハウス、表現主義などによってもたらされた形態的・幾何学的厳密性の方に注意を向けた。ドイツのダダイスト、ハンス・リヒターがエッゲリングの幾何学性・純粋性をフォローしようと試みた後にポスト・メリエス的トリック映画に向かったのは偶然ではない。表現主義の絵画および文学の中核(ココシュカ、ディックス、トラー、トラークルに代表される)ではアニメーションそのものをフォローする作家はいなかった。例外は1930年代にパリでユニークなアートフィルムを作ったベルトルト・バルトーシュである。

 表現主義映画と呼ばれる実験の数々(ラング、ムルナウ、デュポン、パプスト)は、当時のアニメ作家にほとんど影響を与えていない。

ハンス・リヒター Hans Richter


 ハンス・リヒターHans Richter(1888〜1976)は実験映画の中でも最も粘り強く、首尾一貫したチャンピオンの一人である(彼自身の数十もの作品は『実験40年』40 Years of Experimentsというタイトルの長編にまとめられている)。彼はキュビスムの作家として出発した。それからツァラTzaraやアルプArpとともにチューリヒ・ダダの誕生に貢献した。この熱狂的で刺激的な環境の下、「静止した」絵画に空しさを感じるようになり、音楽のようにリズミカルで新しい何かを求めるようになった。フェルッチオ・ブゾーニFerruccio Busoniの指導で対位法の基礎を学んだ彼は、白と黒(対立物----すなわちリズム原理の根本)による絵画をはじめた。同じ関心を持っていたことで、リヒターはスウェーデンの画家ヴィキング・エッゲリングViking Eggelingと知り合った。エッゲリングはダダイスム真っ盛りのチューリヒに移住し、リヒターと同様の研究に打ちこんでいた。二人の画家は協力し、まずスイス、後にはドイツで実験を続けた。

 後年のリヒターの回想によると、2人はある日ロールペーパーを使って、一定のフォルムに連続性を与えようと決心した。そして展開の各段階をシンフォニーやフーガのように融合させようとした。1918年末か1919年初頭にエッゲリングが作った第1ロールは『水平−垂直のマッス』Horizontal-Vertical Massである。同じ時、リヒターは「結晶作用」の主題にもとづく『プレリュード』Preludeを作った。もちろん、このロールは動きを伴い、動きはすなわち映画と関連するものである。

 リヒターの実験の論理的展開は、1920年から1925年の間に作られた3本の短編切り紙アニメーション『リズム21』Rhythmus 21、『リズム23』Rhythmus 23、『リズム25』Rhythmus 25の中に見出される。ここでは四角形と三角形が動きながら、現れたり、消えたりして純粋な視覚リズムの感覚を表現しようとしている。3つの『リズム』は技術的には貧弱であり(第1作よりあきらかに第3作の方が向上している)、見るものの関心を惹くにはいたらなかった。

 1926年、撮影技術のさまざまな難題を解決し、レンズの秘密に習熟してから、リヒターは『フィルムスタディ』Filmstudieを作った。これはより複雑な作品であり、表現言語とリズムという観点に基づいて構成されている。ここでは、スーパーインポーズや様々なトリック、そして幾何的なゲームを用いている。またそれまで使って来たテクニックを使用して、たとえば実写のショットとアニメショット、あるいは本物の人間と抽象的要素を結合させた。例えば、『フィルムスタディ』では主題としての人間とガラス玉は同等に扱われ、後者はリズミカルに集合したり、様々な形に分離したりするのである。リヒターはこう書いている。

 「翌年は『インフレ』Inflationだった。これはウーファの映画『仮面の夫人』Die Dame mit der Maskeのプロローグで、インフレに関するリズミカルな絵である。ドル記号を主旋律とし、マルクを表わすたくさんのゼロ記号が対立する。…これは確かに普通のドキュメンタリーではなく、むしろインフレに関するエッセイなのである。1927〜28年には小品『朝食前の幽霊』Vormittagsspukを作った。バーデン・バーデン国際音楽祭のためにつくられ、曲はパウル・ヒンデミットPaul Hindemithが作曲した。まだトーキーの前だったので、指揮者の目の前で巻き上げられるスコア(ブルム Blum氏の発明)によって演奏された。完全にというわけではないが、とにかくもサウンドとシンクロしていた。この短いフィルム(約1巻)はベルリンの私のスタジオで撮影し、ヒンデミットやダリウス・ミヨーDarius Milhaudsのプレイヤーも役者として登場した。物体(帽子、ネクタイ、コーヒーカップ、等々)が毎日のきまりに対して起こした反乱の大変リズミカルな物語である」
 「大変リズミカル」ではあったにせよ、『朝食前の幽霊』は映像による音楽の試みではなく、むしろ極めて不条理なユーモアにいろどられたストーリー映画であった。リヒターの旧作同様、異質な要素を組み合わせ、様々なトリック(コマ撮りはほとんど使用されていない)が使われている。残念ながら帽子のアニメーションは上手くいっていない。帽子を躍らせる「見えない」糸がはっきり見えてしまっているのである。

 1927年、リヒターは競馬を題材とした『レンシンフォニー』Rennsymphonieを発表した。その後の彼は匿名のCM作家として過ごし、ついにドイツを離れることを決心する。スイスやソ連に短期間滞在した後、最後にはアメリカに定住した。1940年代と50年代にはダダの旧友やアメリカのアーティストと共に非アニメの実験映画の創造に貢献した。例えばレジェLeger、エルンストErnst、デュシャンDuchamp、マン・レイMan Ray、コールダーCalderらとの共同制作による劇映画『金で買える夢』Dreams That Money Can Buyなどである。

 リヒターの作品におけるアニメーションは副次的なものである。それはむしろ未開拓の映画言語を切り開こうとする実験映画やノン・コンフォーミスト映画の世界に位置付けられる。監督としての彼は大きなオリジナリティを持っていたとは言えない。今見ると、その作品はアヴァンギャルドの試作品というべきものである。そして彼の世代のアーティストを特徴づける諸傾向----良きにつけ悪しきにつけ----の総まとめの感がある。

ヴァルター・ルットマン Walther Ruttmann


 フリッツ・ラングFritz Langの『ニーベルンゲン』Niebelungen(第1部)で際立っているクリームヒルトKriemhildの悪夢のシーン----女王の夢に鳥が現れ、漆黒の空を飛び回って脅えさせる----この暗示的なシーンの作者がヴァルター・ルットマンWalther Ruttmannである。ルットマンはフランクフルト・アム・マインに生まれ(1887年12月28日)、チューリヒで建築を、ミュンヘンで美術を学び、その間にチェロも学んでいた。1912年から18年の間は絵画と彫刻に従事し、抽象に到達、まもなくそこから抽象映画(彼の言葉によれば、時間性のある絵画)の理論に移行した。第1次大戦で中尉となり、神経を患った後は自分の理論の実験に専心した。1921年4月27日、ベルリンのマルモーハウスで『映画作品1』Lichtspiel Opus Iを上映、これはマックス・ブティングMax Buttingが急いで書き上げた曲を使っていた。抽象映画がはじめて一般に公開されたということで、この出来事は大衆および新聞(新聞はすでに先行プライベート上映の賞賛をリポートしていた)によってセンセーショナルに受け入れられた。『作品1』が素晴らしいのは、抒情的感覚や想像力に富むというだけでなく、技術面・形態面においてすでに成熟したスタイルを持つという点である。アメーバ状の形態はくっきりしたオブジェとコントラストをなしている。曲線の形(オスカー・フィッシンガーOskar Fischingerを予期させる)がスクリーンを対角に横切り、縞模様が振り子のように動いてビートを刻むように見える。続いて、ルットマンは『作品(オパス)』Opusと呼ばれ、ナンバーがついた3本の短編を作り、国内外で公開されて成功を収めた。ロンドンの「タイムズ」Times紙はルットマンの短編映画は長く記憶されるだろうと1925年に書いている。

 映画会社と契約していたこと(ラングのためのシークェンスの他に、パウル・ヴェゲナーPaul Wegenerの『生けるブッダ』Lebende Buddhas(1923)にも悪夢のシーンを作っている)がきっかけになり、ルットマンはロッテ・ライニガーのチームに紹介されることになった。ルットマンは長編『アクメッド王子』で彼女達に協力したが、彼にとってはやりがいのない経験であった。その後ルットマンは創造活動の新しいステージに入った。今度は映像音楽が歴史的要素と結び付けられることになった。抽象主義をわきに置いて、ルットマンは現実の生活の要素同士をリズミカルに結合するという計画(この計画が「ドキュメンタリー」に分類されているのは不適切である)に専心した。1927年、彼は『伯林----大都会交響楽』Berlin, Die Sinfonie der Grosstadtを制作した。オープニングの30秒間の抽象アニメはそれまでの芸術活動のステージへの別れでもある。『世界のメロディ』Melodie der Welt(1929)や『週末』Wochenende(1930、「映像なしの」サウンドトラックのみを編集した映画)が続いて作られた。1933年、ルットマンはイタリアに行き、『鋼鉄』Acciatoを撮った。これはルイージ・ピランデルロLuigi Pirandelloのテクストに基づく、ドキュメンタリーと物語を組み合わせたフィルムである。それからドイツに帰国してリズミカルなドキュメンタリー作家としての道をそのまま継続した。1941年7月15日に従軍映画カメラマンとして負った傷のため、ベルリンで亡くなった。

 ルットマンは才能あるアーティストであり、また自己矛盾を抱えたインテリ(左翼のシンパだった彼は後にヒトラーを無条件に支持した)であった。アニメに対する彼の功績は数的には限られているが、そのクオリティや他のアーティストに与えた影響の点では重要なものである。エッゲリング、リヒター、フィッシンガー、そしてマクラレンさえも、そのスタイルの要素はルットマンが開拓したフィルムの中に見出すことが出来る。

ヴィキング・エッゲリング Viking Eggeling


 ヴィキング・エッゲリングViking Eggelingは1880年10月21日、スウェーデンのルントに生まれた。父は1848年の騒乱を逃れてきたドイツ系移民、母エリザベート・リンドボリElisabeth Lindborgはスウェーデン人である。公立学校では目立たない生徒であり、その後、経済的困難のため、やむなくルントを去り、ドイツ、スイス、イタリアへ移住した(19世紀末のスウェーデンは貧しい国であり、移民率は高かった)。1901年から1907年の6年間にはミラノに住み、日々の糧を稼ぎながら、ブレラ美術アカデミーに通った。スイスに戻ると全寮制学校の教師となり、その後はパリで4年を過ごした。1916年、再びチューリヒに戻り、生まれたばかりのダダイスムと関係を結んだが、運動そのものに加わることはなかった。

 それからリヒターと共にドイツに戻り、まずベルリン、ついでリヒターの生まれ故郷であるクライン・コルツィヒに住んだ。リヒターとの交友が途絶するともう一度ベルリンに移住した。ウーファの援助で実現した“視覚音楽”のための2、3の実験を制作した後、自分自身の非常に限定された手段によって映画を続けることを決心した。親戚から借金して映画カメラを買い求め、住んでいるアパートに設置した。3年にわたり、『水平−垂直オーケストラ』Horizontal-Vertikal Orchestraと題した“長編”のドローイングを撮影した。このフィルムを見ることが出来たのは数名で、その一人であるスウェーデン人ジャーナリストのビルガー・ブリンクBirger Brinckは、画面の上部から始まる垂直のリズミカルな主題をあつかった10分のシークェンスであったと書いている。一説によれば、エッゲリングは『水平−垂直オーケストラ』を完成品とは考えていなかったということである。その結果に失望したエッゲリングはこのプロジェクトを放棄し、『対角線交響楽』Diagonal Symphonieの制作に着手した。

 伴侶エルナ・ニーマイヤーErna Niemeyerに助けられて、エッゲリングは『対角線交響楽』を1923年の夏に開始し、資金難やその他の困難に見舞われながらも1年後に完成させた。1924年12月5日には友人たちやスタッフがこの映画を見て、1925年5月3日にはウーファのサポートにより一般公開された。ウーファは前衛に理解がある先進的映画会社という「イメージ」を保とうとしたのである。このときの豪華なプログラムの内容は、ヒルシュフェルト=マックHirschfeld-Mackの実験映画、リヒターの『リズム』、レジェの『バレエ・メカニック』、ルットマンの『作品』、ルネ・クレールRene Clairの『幕間』Entr'acte(シナリオはフランシス・ピカビアFrancis Picabia)、そしてエッゲリングのフィルムであった。不幸なことにエッゲリングはこのショーに出席することができなかった。2、3ヵ月前に入院し、貧窮により衰弱していた彼は、プレミア上映の6日後、1925年5月9日に敗血性狭心症のため45才で亡くなった。

 彼が残した『対角線交響楽』は、黒バックに白い抽象図形が動き、変形する様子がベースになっている。メインの動きは対角方向だが、水平・垂直な動きもあり、フィルムの内容を複雑にすることに効果を挙げている。『対角線交響楽』には偉大な芸術性がある。エッゲリングの純粋グラフィックが7分間にわたり、調和を保ちながら厳密に動くのである。『交響楽』の基本構成は「時間軸」であると言えるであろう。この映画は時間および空間上で動き、展開する絵画である。その静止画を取り出してみても面白いものではない。

 ほとんど東洋的とも呼べる神秘主義を備えた隠者エッゲリングは、芸術は美学や政治・倫理、そして形而上学を持つべきであると考えていた。純粋さに対する彼の探求は作品のみならずライフスタイルにも見出せる。彼によれば、抽象芸術に価値があるとすれば、それを通じて人類がコミュニケートできるような不朽の言語をもたらすという点なのである。エッゲリングの信念は、抽象芸術家は「人間の自由への感覚を無限に増大させ」、「芸術の最終目標は各個人の精神を表現すること」であった。芸術の殉教者であった彼は、スタイルやイデオロギーを成熟させる間もなく、その才能を十分に開花させるにはあまりに早い死であった。

ロッテ・ライニガー Lotte Reiniger


 ロッテ・ライニガーLotte Reinigerは1899年6月2日に生まれ、若くして映画制作を始めた。彼女は書いている。

 「1919年にすべてが始まった。私は熱狂的な少女で影絵を切り抜くことしかできなかったが、それを何としてでも映画にしたいと思っていた。15才のとき、パウル・ヴェゲナーPaul Wegenerの講義を聴いた。彼は当時ドイツの幻想映画のチャンピオンで、その『ゴーレム』Der Golem(第1作)や『プラーグの大学生』Der Student von Prag(第1作)は私に深い印象を与えたのだ。そこでこのレクチャーに行くと、その内容の大部分は「トリック」映画やアニメーションの限りない可能性についてとりあげたものだった。これについては当時ほとんど知られていなかった。この時から、私の頭の中はこの人の側に行きたいという考えに独占された。
 彼はマックス・ラインハルトMax Reinhardt劇団の中心的俳優だったので、その劇団附属の俳優学校に行かせてもらえるよう、両親を説得した。演劇の世界は両親にはまったく異質な世界であり、容易なことではなかったが、結局は行くことを許してもらった。嬉しくてしょうがなかった。しかし、私達生徒はリハーサルに立ち会うことは許されなかったので、憧れの彼にどうやったら会えるのかわからなかった。その劇団の有名俳優たちにアピールするため、私は彼らが演じている役の影絵を切り抜くことを始めた。この影絵が上手くできたので、俳優たちもとても喜んでくれた。1917年にはその本が出版されるまでになったのだ。マックス先生からもほめられて、私はステージに上げてもらえるようになった。私はヴェゲナーが演じる劇に出ようと死に物狂いだった。彼の影絵を狂ったように切り抜き、彼も気に入ってくれた。ヴェゲナーは美術に大変関心があったので、色々と面倒を見てくれたし、自分の映画のエキストラに私を出してもくれた。1918年には彼の映画『ハーメルンの笛吹き』Der Rattenfanger von Hamelinの字幕を私は一任された(当時の映画はリールごとに上映され、傑作には各リールにイラスト付きのキャプションがついていた)。

 1919年『ガレー船の奴隷』Der Galeerenstrafling(バルザックの『大いなる幻影』Illusions perduesの映画化)のために奥方の身なりでスタジオにいたとき、私はヴェゲナーから実験アニメのスタジオを開設しようとしていた若者たちを紹介された。「…どうか私をこのいかれたシルエット姫から解放させてくれないか。彼女は素晴らしい影絵を作るんだが、これは動かすべきだと思うんだ。漫画映画みたいにして、この影絵を使った映画を彼女に作らせてはもらえないかな?」 そして彼らはそうした。

 彼らは次のような紳士たちだった。ハンス・キューリスHans Curlis博士はグループ(文化発見研究所という名前だった)のリーダーで、美術史の研究をしたこともあり、ヴェゲナーの周辺にもよく顔を出していた人物だった。その友人カール・コッホCarl Kochは同じテーマを研究し、極東専門の美術書を書いて有名になった。さらに、ベルトルト・バルトーシュにも紹介された。彼はウィーンからやってきたアニメーターで、ウィーンではハンスリックHanslick教授と仕事をしたことがあった。(ハンスリック教授は)ウィーンで同様の研究機関をすでに設立しており、そこで色々な地図の映画を制作していた。この作品は東洋と西洋に見出される自然環境の違いを強調するものだった。彼は同じ望みをベルリンでもかなえようとして一つのグループを作ったのだ。彼らはベルリンでアニメ撮影台を作り、私はそこで影絵を撮影することができた。

 私はまずバルトーシュの地理映画を手伝って、アニメーション技術を学んだ。最初の影絵映画を作ったのは1919年12月12日で、二人の人物が登場し、踊り手のムードに合わせてアクセリーが動くという、言わば初歩の習作だった。これは『愛するハートの飾り』Das Ornament des verliebten Herzensと呼ばれている。観客の評判が良かったので、私はそれから制作を続けることになった。

 1923年、ベルリンの青年銀行家ルイス・ハーゲンLouis Hagen氏(研究所で私がおとぎばなしの映画を動かしているのを見たことがあったのだ)が、このスタイルで長編を作ってはどうかと持ちかけてきた。これは大いなる誘惑で、この前代未聞の申し出には抗することができなかった。ハーゲン氏は研究所でこの作品を作ろうとは考えず、ポツダムの自宅そばのガレージにスタジオを作るように言ってきた。そのころ、私はカール・コッホと結婚したので、夫婦でそこに移った。バルトーシュも同行したのだが、それは私達が非常に親しい間柄で、一緒に仕事をしたいと考えたからだった。

 この直前、ベルリンでルットマンが初期作品を公開し、私たちはすっかりそれに興奮してしまった。うれしいことにルットマンも影絵映画が好きで、私たちは友人となった。私たちみんな----いわゆる前衛派----はずっと映画産業の外部で制作し、ごくまれにコマーシャルの依頼を受けるだけだった。例えばバルトーシュはヴェゲナーの『ゴーレム』Der Golemのタイトルを担当したし、私も同じくヴェゲナーの『失われた影』Der verlorene Schattenのために短い影絵シーンを作っている。長編を作るというチャンスを与えられたとき、バルトーシュとルットマンに協力をあおぐと、彼らは承諾してくれた。彼らの協力でこの映画(言うまでもなく『アクメッド王子』)の一番素晴らしいシーンを撮ることができたのだ。私が白黒の切絵を制作し、ルットマンが彼の撮影台でそれを組み合わせ、その魔法で見事な動きを与えるのだ。私の記憶にある限りでは、二人のまったく芸術的傾向の異なるアニメーターが同じショットで協力するという試みとしては最も早いものだった。私たちは2本のネガを使用し、その現像の結果をいかに待ち望んだか、誰も想像できないだろう。

 ルットマンはこのようなおとぎばなしを作ることにはいささか恥ずかしさを感じていたようだ。「こんなことが1923年の今と何か関係あるんだろうか?」と私に問いかけてきたことがあった。「何もないわ」としか答えようがなかったが、実際そこには何も関連はなかったのだ。完成は1926年だった」

 この長編(全世界でも最初期の長編アニメの一つで、ヨーロッパでは初)は『アクメッド王子』Die Abenteuer des Prinzen Achmedと題された。使用されたテクニックは切り紙の特殊なタイプである。それは影絵であり、黒い紙を切り抜き、人物や動物、ものをバックライトの上においたものであった。これは「チャイニーズ・シャドー」と呼ばれることもある。映画は大成功を収め、とりわけフランスではジャン・ルノワールJean Renoirやルネ・クレールRene Clairが熱っぽく擁護するほどであった。『千夜一夜物語』から採られたいくつかの物語は、その優美さやドラマを失わないようなやり方で映画に翻案された。王女たちが追いつ追われつ、ラブストーリーあり、善良なランプの精と化け物のような悪魔との闘いあり、切り紙の人物は造形的にも動きとしても洗練されたテイストを備えている。

 バルトーシュやルットマンと別れると、ライニガーとその夫カール・コッホはドイツ、イタリア、そしてGPOフィルムユニットのジョン・グリアソンJohn Griersonの招きに応じてイギリスで制作した。第2次大戦までに二人は26作を制作した。その中には『パパゲーノ』Papageno----原作はモーツァルトの恐らく最も有名な作品である『魔笛』La Flute enchantee----そしてジャン・ルノワールの『ラ・マルセイエーズ』La Marseillaiseなどがある。

 第2次大戦が勃発したとき、ライニガーはイタリアで『恋の妙薬』L'elisir d'amoreの撮影中であった。宣戦布告の後、彼女と夫はヒトラー体制からは嫌われていたが、ドイツに戻らざるをえなかった。戦争中には『黄金のガチョウ』Die goldene Gansを作ろうとしたが、実現しなかった。1948年、二人はロンドンで活動を再開した。1950年代にはプリムローズプロダクションPrimrose Productions companyを設立し、その時点でさえすでに多作であったフィルモグラフィにさらに15作品を加えた。そのいくつかはカラーの影絵を用いた作品で、その一つが『ジャックと豆の木』Jack and the Beanstalk(1955)であり、『ベツレヘムの星』The Star of Bethlehemがこれに続いた。その前の作品『勇敢な仕立屋』The Gallant Little Tailorは1955年のヴェネツィア映画祭で受賞した。

 伴侶を亡くしてからもライニガーの制作ペースは衰えなかった。1976年にはカナダに行き、NFBのために『オーカッサンとニコレット』Aucassin et Nicoletteを作った。ライニガーは世界各地でセミナーを開き、若いアニメーターを教えた。1981年6月19日、ドイツのデテンハウゼンで彼女は亡くなった。批評家は彼女の作品の優美さと精緻なはかなさを賞賛してきた。その細心にアニメートされた影絵がかもし出す雰囲気は、歴史性や同時代性といったものには無縁の独立した存在である(この点でルットマンは正しい)。完全に静かで抽象的なファンタジー世界の住人であり、影絵の捉え難さという性質(表情を表現できない)により、この世界はほとんど夢のように描かれている。このような描写を選んだのは、1920年代の芸術潮流からすれば非常に例外的なことに思えるかもしれない。だが実際には、アール・ヌーヴォー、モダニズム、アール・デコと移り変わる時代状況----フランスのブールデルBourdelleやモーリス・ドニMaurice Denisに代表される----につながりを持っているのである。ライニガーのテクニックは何人かの映画作家たち、特に旧東ドイツに影響を与えた。たとえそうであっても、彼女のアニメーションの滑らかさやその繊細な手業に匹敵できるものは一人もいなかった。

フランス−ロルタック Lortac


 フランスはヨーロッパにおいてアニメーションを生み出した最初の国というだけでなく、はじめてアニメスタジオ、すなわちアニメーション産業を組織した国でもあった。ペンネームのロルタックLortacでよく知られたロベール・コラールRobert Collardがモントルージュに自分のアニメスタジオを開設したのは1919年のことである。彼は美術学校に学んだ後、兵役につき、1915年に負傷のため除隊した後はコールのもとで学び、エクレール社のニュース映画にインサートされた短編でコールと共同製作した。スタッフはカヴェCave、シュヴァルCheval、レイモン・サヴィニャックRaymond Savignac(セル洗いから、後には有名なコマーシャル作家になった)、そしてエミール・コール自身というメンバーであった。

 ロルタックの商売は第2次大戦後にロルタックが円満に引退するまで繁盛した。制作は主にCFだったが、1922年にはニュース映画につける諷刺ものを作った。タイトルの『カナール・タン・シネ(映画のアヒル)』Le canard en cineは諷刺ユーモア雑誌「カナール・タンシェネ(鎖につながれたアヒル)」Le Canard Enchaineのもじりである。その後、ロルタックはメカニカMecanicas教授の冒険を原作としたシリーズ、それから『ヴィユー・ボワ氏』Monsieur Vieux-Boisの映画化を手がけた。原作は19世紀スイスのデザイナー・ユーモア作家として有名なテプファーToepfferである。

 ロルタックはカヴェと共にテプファーの絵を切り紙でアニメートし、その顔つきをまったく変えずに動かした。テプファーの作風を尊重してストーリー性のある構成を選択したことにも原作重視の姿勢はうかがえる。ヴィユー・ボワは牧歌小説中毒の風変わりなキャラクターで現実感覚をまったく欠いている。彼は数々の冒険に出会い翻弄されるが、決してへこたれず、またその体験から何かを学びとるということもない。その唯一の力の源は新たにスタートするために(下着を変えるだけで)勇気を奮い立たせることである。ロルタックとカヴェのシリーズはヨーロッパ式漫画映画の一例を表わしている。これはすぐに主流となったアメリカ式のスラップスティックとは異質である。このような、リズムではなくキャラクターに基づき、サーカスよりむしろ喜劇に近いユーモアが再び現われるのは、1950年代のグリモー=プレヴェールによる『やぶにらみの暴君』La Bergere et le ramoneurにおいてのみである。ロルタックは1973年4月10日、89才で亡くなった。

CF作家とイラストレーター


 様々な背景をもった多数の作家がCFやより野心的なフィルムを作った。バンジャマン・ラビエBenjamin Rabier(1864〜1939)は抜きんでたイラストレーター・漫画家であり、「ジル・ブラ」Gil Brasや「リール(笑い)」Rire「ペール・メール」Pele-Mele等の雑誌に作品を発表した。動物物語のスペシャリストであった彼は1916年にエミール・コールと短編を共同製作した。その最も有名なものがフランボーという名の犬が登場する『フランボーの婚約』Les fiancailles de Flambeauである。コールがやめた後は自分自身で何本かのフィルムを制作した。

 オギャロップO'Galop(マリウス・ロシヨンMarius Rossillon、1875〜1946)は1910年代に広告ポスターのデザイナーとしてデビューし、ベカソットBecassotteのキャラクターを原作とするシリーズ(1919)や、ラ・フォンテーヌ寓話の映画化に従事した。1920年代初頭にはアルベール・ムーランAlbert Mourlin(1887〜1946)がポティロンPotironを主人公とするシリーズを制作、1923年には色々なテクニック(実写とアニメーション)を組み合わせた劇映画『リリパット国のガリヴァー』Gulliver chez les Lilliputiensに取り組んだ。だが、1年の作業の後、火事でネガもプリントも失ってしまった。アンドレ・イヴトAndre Ivetot(?〜1928)とレイモン・ガロワイエRaymond Galloyer(1896〜1961)は人形アニメを作り出し、1921年にはその特許を出願した。こうして制作されたのが、『ビカールの冒険』Les Aventures de Bicart、『ビカールとバロッシュの手下』Bicart et l'agent de Balloche、『バロッシュの住宅難解決法』Balloche a resolu la crise du logement、『やきもちやきのノワロ』Noirot jaloux、そして『レピック街事件』L'Affaire de la rue Lepicであり、これらのリストは「AFCA月報」La Lettre mensuelle de l'AFCA(1991)に出ている。最後に、ディディエ・デイDidier Daixは陽気なカバのズットが登場する『ズット、フルート、トロット』Zut, Flute et Trotte(1928)のシリーズを撮った。

 しかしながら、この時期に足跡を残した作家といえば、画家のフェルナン・レジェFernand Legerであろう。彼の『バレエ・メカニック』Ballet mecanique(1924)は、実写のショットやフィルムのダイレクトペインティング、正統的なアニメーション、そしてスペシャル・イフェクトのごった煮であり、前衛映画の中で最も有名な作品の一つである(傑出した「キュビスムのチャップリン」Charlot cubisteのシークェンスにはアメリカ人のダドリー・マーフィDudley Murphyが参加しているが、これは1920〜21年に遡ることが明らかにされている)。当時、レジェはオブジェに関心があり、それをさまざまなやり方で(ある時はそれだけで、またあるときはそれをグループにしたり、対照させたりして)自分のペインティングの中にアレンジした。彼はこう書いている。

 「この映画は何よりも機械や断片、そして大量生産された製品も「可能」であり、造形的であるという証明だった。1つあるいは複数のオブジェに「動き」を与えるという行為がそれらに造形性を与えるのだ。また、その意味を探すことを無理強いされなくても、それ自体が美しく、造形的なイヴェントを作り出すことは可能である。これは画家と詩人の復讐なのだ。イメージが全てでなければならないような芸術や、イメージが物語やエピソードの犠牲になっているような芸術の中で、我々は自分を擁護し、端役に追いやられていた想像芸術が、動くイメージをメインキャラクターとするシナリオなしのフィルムをそれ自身の力で作ることができることを証明する必要があったのだ」
 レジェのフィルムは映像によるダイナミックな進行中の作品として、また、映像言語の提案として解釈すべきである。この文化的影響は顕著なもので(おそらく当時のどの抽象映画よりも広く流通した)、ダダイスムやシュルレアリスムアーティストによるフランスのアヴァンギャルドおよび「非同盟」映画の発展に火をつけた。マルセル・デュシャンMarcel Duchampもドローイングによるアニメーション『アネミック・シネマ』Anemic Cinemaを作り、アメリカのマン・レイMan Rayもバスク語をもとに『エマク・バキア』Emak-Bakia、それから『サイコロ城の秘密』Mysteres du Chateau de Des、『ひとで』L'etoile de merを制作した。

ラディスラフ・スタレヴィッチ Ladislaw Starevitch


 ラディスラフ・スタレヴィッチLadislaw Starevitch (Wlasdislaw Starewicz) は1882年8月8日、モスクワのポーランド系一家に生まれた。生まれついての好奇心旺盛な彼はいろいろな研究、とくに昆虫学に打ち込んだ。はじめて映画に出会ったのはこの科学に対する情熱がきっかけであった。

 「繁殖期になると、甲虫は争う。そのあごは鹿の角のようだ。私は彼らを撮影しようとしたが、その闘いは夜行性であるため、ライトを使えば、凍り付いたように静止してしまう。私は防腐処理した甲虫を使ってその闘争の各体勢を1コマ1コマポーズを変えながら再構成した。30秒の映画のためには500コマ以上が必要だ。この出来ばえは期待以上だった。これが1910年の最初の立体アニメーション『ルカヌス・セルヴス』Lucanus Cervus(10m)だった」
 これはスタレヴィッチの初めての試みであるにもかかわらず、アニメートは完璧である。一説には彼がコマ撮りのプロセスの秘密を学んだのは、ロシアでエミール・コールの1908年のフィルム『動くマッチ』Les allumettes animeesが上映されたのを見たときだと言う。だが実際には、その2、3ヶ月後の1910年10月に『麗しのリュカニダ』Prekrasnaya Lyukanida Прекрасная Люканидаを撮るために十分な技術をすでに習得していたのである。これは230mの長さで、主人公は恋しい甲虫エレナElenaをめぐって闘う甲虫であり、ユーモラスで寓話的な雰囲気である。1911年1月に公開されるや、この映画は作者スタレヴィッチに多くの賞賛をもたらした。イギリスで上映されたあと、ロンドンの新聞は無名のロシア人科学者が生きた虫を調教したのだと書き立てた。

 スタレヴィッチの映画キャリアはアニメ映画と実写の劇映画を含んでいる。1911年にはハンジョンコフKhanzonkow社に参加した(創立者のハンジョンコフはあのかんしゃく持ちのトルストイTolstoyに死の直前インタビューしたことで名を挙げた人物)。同年、スタレヴィッチは『アリとキリギリス』Strekoza i Muravei Стрекоза и Муравейで皇帝から賞を授与された。実写の『恐るべき復讐』Strashnya mest'では才能ある新人俳優のモズーヒンMozhukhinを再び使った。革命に先立つ数年間、スタレヴィッチは精力的に活動を続け、映画界に多大な影響を与え、多数の撮影技法や特殊効果を産み出した。その一例がスタレヴィッチ最後の長編劇映画『海の星』Zvezla morya Звезда моря(1918)の嵐に使われたものである。

 1919年には経済的困窮とおそらくは革命体制への失望から祖国を離れ、パリ郊外のフォントネー・ス・ボワに移って、新しいスタジオを開いた。この新しい時期は極めて豊かで、完全にはカタログ化されていないが、すべてアニメーションである。スタレヴィッチはフランスでの長編アニメ第1作『狐物語』Le roman de renardを人形で制作した。これは1930年には完成していたが、フランス国内で公開されたのは10年後になってからであった。しかし、1937年4月にはベルリンでワールドプレミアが上映されている。スタレヴィッチは1965年2月26日『犬猿の仲』Comme chien et chatの撮影中に亡くなった。

 スタレヴィッチ作品の大部分は寓話にその発想の源がある。ヨーロッパのこのジャンルにおける伝統に則り、彼の動物たちは極めて動物的で、擬人化はその行動や衣服の点に限定されている。時に教訓や感傷に陥ることもあったとはいえ、クリュイロフKrylovの後裔として、彼はみずみずしい詩情を保った。彼はこう書いている。

 「観客がフェティッシュは他のぬいぐるみの犬と同じではないと信じる心の準備があったときに、私の映画は成功する。なぜなら彼の小さな心臓は一人の母親の涙だからだ。過去の栄光を思い出しては、老ライオンの目は曇り、感情をかきたてる。私がどうやって映画を撮ったかって? 腕一杯の花束から1本を選び、花冠の編みひもに使うのさ」
 崇高とおおげさの境界線上というこの難しいポジションに対して、評論家の意見は分かれている。ロ・デュカLo Ducaはスタレヴィッチを「傑出した」と呼び、フランスアニメ作家のランキングの中でエミール・コールに次ぐ2位においた。エイゼンシュテインEisensteinの伝記を書いたマリー・セトンMarie Setonは「20世紀のイソップ」とした。2100mの長編『狐物語』(原作はオイル語(古北仏語)の古い文学)は、スタレヴィッチの同時代人に、「エクセレントな映画、いやそれ以上だ。おそらくこれは詩だ」(L・ドラプレーL.Delapree )といった具合にアピールした。レオン・ムシナックLeon Moussinacは賞賛した。ルネ・ジャンヌRene Jeanneは彼の天才を強調し、ミシェル・コワシックMichel Coissicは賛辞を連ねた。バルデーシュBardecheとブラジラッハBrasillachはその『映画史』Histoire du Cinemaの中でスタレヴィッチの持つ「メリエスと同等の天才」を認め、映画史の中で「独自の」「傑出した地位」を与えた。ルネ・ジャンヌとシャルル・フォールCharles Fordはその『映画史』Histoire du Cinemaでこう書いている。「彼の才能はトーキーの時代の間も向上して行った。偉大なアーティストでありかつ非常に有能なアルチザンだったラディスラフ・スタレヴィッチは映画史上でも特異なケースであり、これに比すべき人物はいない。アニメを産業化したディズニーでさえも、またエミール・コールでさえも…」

 スタレヴィッチが受けた否定的評価は主としてその誇張した抒情と極めてゆっくりした動作のせいである。彼の作品を詳細に分析すれば(ほとんどの作品が復元した現在では可能である)、この矛盾した感覚を研究することができる。とはいえ、そのオリジナリティは否定すべくもない。

ベルトルト・バルトーシュ Berthold Bartosch


 ベルトルト・バルトーシュBerthold Bartoschは1893年にボヘミアのポラウンに生まれた(当時はオーストリア・ハンガリー帝国、現在はスロヴァキア共和国のポルブニー)。1911年に建築を学ぶためウィーンに移り、そこでハンスリックHanslick教授と知り合った。美術学校における彼の師ハンスリックは左翼の人物でもあり、バルトーシュに多大な影響を与えた。バルトーシュが学科を終えると、ハンスリックは「大衆のため」に教育アニメを共同製作することを持ちかけ、バルトーシュはこれを承諾した。

 バルトーシュの初期作品のいくつかは純然たる教育用であり(地理学など)、それ以外の『共産主義か人間性か』Communism or Humanity(ヤン・マサリークJan Masarykのテーゼを解説したもの)は明らかに政治志向のものである。これら「非・芸術的」作品でバルトーシュは修行した。個人主義者にして発明に対する生まれながらの情熱を持っていた彼は----真のアニメ作家となるために不可欠な2つ----誰からも技術を学ぶことなく、独力で解決することを好んだ。1919年にはベルリンに移り、ハンスリックの制作会社の支部を開設した。そこで彼はエッゲリングやリヒター、ルットマン、ロッテ・ライニガー、ジャン・ルノワールらと出会い、終生の交友関係を結んだ。また、当時はまだ若く無名の作家であったベルトルト・ブレヒトBerthold Brechtとも親しくなった。ベルリンでバルトーシュは教育映画の創作を続け、また『アクメッド王子』でロッテ・ライニガーに協力した。1929年、バルトーシュはクルト・ヴォルフKurt Wolff(教養人で、フランツ・カフカを見出した目利きの出版人)の依頼を受けた。ヴォルフはベルギーのフランス・マセレールFrans Masereelの絵物語を映画化しようと考えたのである。ハンスリックはその仕事のためにバルトーシュを選び、バルトーシュはOKした。すでにパリに移っていたバルトーシュは、ヴィユー・コロンビエVieux Colombier座の下のごく狭いアパートで、ただ一人だけの作業を開始した。マセレールの木版画は印刷物としては悪くなかったが、映画にするには重苦しく、アニメートは非常に困難だった。バルトーシュは自分なりに作品を構成した。ここで彼は自分で発明した仕組みを使った。1枚の絵では不可能な奥行を画面に与えるため、いくつかの層のガラス板にそれぞれ素材を作り、これを上からのカメラで撮影したのである。各層には背景素材や切り紙の人物を並べ、下から照明した。アニメーションの硬さやエッジをばかすため、石鹸をガラス板に吹き付け、また多重露光の多用によってもやもやした雰囲気を作り出した。『観念』L'Ideeと題されたこのフィルムは1931年に完成した。この作品の真の作者はバルトーシュであり、マセレールの原作の特徴はほとんど残されていない。「ピープル」Le Peuple紙1932年1月8日号には次のようなリポートが出ている。

 「仲間数人と『観念』を見に行った。一人の人間、労働者、芸術家(誰であるかはわからないし、また知る必要もない)の頭から「観念」が生まれる。「観念」は愛から、抵抗から生まれた。「観念」は他を圧倒する。純粋な光として、それは労働者たちとともに自由に向かって苦難に満ちた行進をする。そして何者もそれを抹殺することはできない。だが、あらゆるものが「観念」を殺そうとする。それは「観念」が彼らの平穏な消化をひっくり返すものだからだ。だが、実業家も司法も支配階級の手先である軍隊もそれを破壊することはできない。「観念」を産み出した人間が撃たれたときでさえ、弾丸は「観念」の体を無傷で通り抜ける。まことに残念なのは、バルトーシュのこの美しい作品が労働者達のために作られながら、当の彼らには公開されなかった(将来もまた?)ということである。我々は検閲されているのだ。この作品は感動的なまでに美しく、2回目を見たときは(技術的創造の目新しさに目を奪われなくなれば)心が洗われる思いがする。その奇想天外なストーリーにも驚かされるだろう。この観念に殉じたすべての者たちに捧げられ、労働の世界を啓蒙している」
 『観念』にはほとんど筋がない。一人の男が「観念」を心に抱く。これは美しく、純粋な創造物で、裸の少女の姿で表される。保守勢力は彼女を亡き者としようと、あるいは彼女に衣服を着せることで純粋さをなくそうと、また彼らの目的に従わせようと様々な試みをする。しかし、観念は搾取されるものたちの方だけに向かう。彼女の創造者が銃弾に倒れても星々を振りまくことをやめない。シンコペートした編集とドラマティックなスーパーインポーズは今見てもなおその見るものの心を捉えることができる。これは政治的コミットメントが抒情と葛藤しない希有な映画である。ちょうどプドフキンPudovkinやエイゼンシュテイン、ドヴチェンコDovzhenkoの作品のように。

 このフィルムは制作に数ヵ月を要したが、一般公開はされず、バルトーシュはまったく収入を得ることができなかった。バルトーシュの作品に強い印象を受けたイギリスの批評家ソロルド・ディキンソンThorold Dickinsonは、バルトーシュを財政援助して、2作目の制作を依頼した。

 バルトーシュの第2作は「反戦」詩である。これは手の込んだプロセスを使いカラーで撮られた。映像は3回ずつ別々のフィルムに撮影され、各フィルムは3色法カラープロセスの3原色に感光する。撮影されたフィルムは、パリに設備のある現像所がなかったため、ロンドンで現像された。撮影は大戦の直前に終了し、バルトーシュは900〜1000mのフィルムの編集にとりかかった。作品はアルテュール・オネゲルArthur Honegger(『観念』のサントラも作曲)の音楽をつけて公開されるはずであった。だが、ほんの数cmの断片を残し、ネガとプリントはすべて戦争で破壊されてしまった。

 後年、彼の妻マリア・バルトーシュMaria Bartoschはこう書いている。「この反戦映画を観ることができたのは3名だけだった。夫と私がパリで、ソロルド・ディキンソンがロンドンで」 この作品は最終タイトルが未定であり、『悪夢』Cauchemarあるいは『聖フランチェスコ』Saint Francoisと呼ばれている。

 バルトーシュは戦争の瓦礫の中から国籍さえも持たずに蘇った。1950年にフランスの市民権を獲得してから、宇宙を主題とした第3作のためのリサーチを始めた。彼は光の詩というべきものを生み出そうとした(「光、この光への探求がつねにあの人に取りついていた」と妻マリアは回想している)。だが、健康を害した彼に、その撮影台で数時間立ちっぱなしで作業する事は不可能であった。晩年のバルトーシュは絵画に専心した。1968年に亡くなった彼は、たびたび病室を見舞ったアレクサンドル・アレクセイエフAlexandre Alexeieffに映画の計画について語った。

 「非常にシンプルな作品になるはずだ。シンプルであることは難しい。が、必要なことだ。過去の制作で私は多くの事を学んだ」
 1959年、アンドレ・マルタンAndre Martinはバルトーシュをこう書いている。

 「バルトーシュは自分が読まれるかどうかなど気にもかけない詩人として制作した… 映画を徹底的に学ぼうとする者は、もはや見ることができないフィルムや放棄された計画、実現不可能な映画の重要性を認めるようにならねばならない。芸術や科学、管理、政治権力といったものが肥大化した時代の中で、バルトーシュは頑なに沈潜し、半ば無意識に怠惰という罪----詩の罪を犯したのである」

その他のヨーロッパ諸国-イギリス


 すでに触れた通り、アーサー・メルボルン・クーパーArthur Melbourne Cooper(1873年セント・オルバンズ〜1961年バーネット)はアニメ映画の「第1作」である『マッチ・アピール』Matches: An Appeal(1899)の作者である。クーパーはイギリス映画のパイオニア、バート・エイカーズBirt Acresのもとで働きながら、「活動写真」のテクニックを学び、プロデューサーや映画のオーナー、そしてあらゆる種類の記録映画の監督となった。1908年、彼はもう1本のモデルアニメ映画『おもちゃの国の夢』Dreams of Toylandを作った。この中では、ある昼下がり、子供にプレゼントされたおもちゃたちがその子の夢の中で生命を得る。人形は正確にまた細心にアニメートされている。ただ、影の動きが一種不思議な印象をもたらしている(人工照明ではなく太陽光を使用したため、コマ撮り作業は地球の自転の影響を受ける)。他の作品としては、『ノアの方舟』Noah's Ark(1906)や『シンデレラ』Cinderella(1912)『木製の体操人形』Wooden Athletes(1912)、『おもちゃ屋の夢』The Toymaker's Dream(1912)等がある。

 1906年、ウォルター・P・ブースWalter P. Boothは『画家の手』The Hand of the Artistを制作した。1本の手をカメラがとらえ、それは行商人と少女のダンスを描く。続く3、4年の間に、ブースは数本のフィルムを作り、その中には『魔術師のハサミ』The Sorcerer's Scissors(1907)も含まれる。1910年、影絵の名人、サミュエル・アームストロングSamuel Armstrongは『道化とロバ』The Clown and his Donkeyを作り、その後も2、3本の映画があるが、まったく現存しない。

 この時代の数多くの漫画映画に混じって(そのほとんどが単に静止画をスライドのように映写しただけであることは言っておかねばならない)、ライトニング・スケッチは1分野をなしており、イギリスのみならずアメリカでもポピュラーな存在であった。第1次大戦中、ライトニング・スケッチ画家(ハリー・ファーニスHurry Furniss、インド系イギリス人フランク・リーFrank Leah)は諷刺画家、漫画家たちと同じように自分の絵をスクリーン上で展開した。ドイツ人、特に皇帝をばかにしたり、家庭や前線でのモラルを向上させるために、ファーニスは『平和と戦争の鉛筆画』Peace and War Pencillings(1914)や『ウィンチェルシー界隈』Winchelsea and Its Environs(同じく1914年)を制作した。ジョージ・アーネスト・スタディGeorge Ernest Studdyは『ウォー・スタディ』War Studiesシリーズ(1914)を始め、ダドリー・テンペストDudley Tempestは『戦争漫画』War Cartoonsを作った。ランスロット・スピードLancelot Speedは『がき大将』Bully Boyシリーズ(ニュースや戦争の話題を諷刺した短編映画)の責任者であるが、『Uチューブ』The U Tube(1917、ドイツ皇帝が英仏海峡の海底トンネルを掘って、イギリスに到達しようとするが、進路を間違えてしまう)や『シー・ドリーム』Sea Dreams(1914、海軍力を熱望する皇帝を馬鹿にしたもの)で名を挙げた。ダドリー・バクストンDudley Buxtonの『戦争漫画』の中では『エヴァー・ビーン・ハッド?』Ever Been Had?(1917)が当時にしては念入りなプロットであり(戦火に焼かれた地球「最後」の男が登場する。舞台は敗北したイギリスで、その後ようやくこのドラマが撮影中の映画であったことがわかる)、非常に不安をかきたてる雰囲気を持った作品である。

 バクストンは友人のアンソン・ダイヤーAnson Dyer(1876〜1962)をイギリスアニメにひっぱり込んだ人物としても名を挙げられている。約20年間、ダイヤーは教会のステンドグラス画家として働いていた。39才でアニメ業界に入ったときには、まったくの素人だったが、30年代のイギリスではもっとも重要なアニメーション制作者になり、1952年までアニメーションに従事した。第1次大戦中はバクストンと共に戦争プロパガンダ『ジョン・ブルのアニメスケッチブック』John Bull's Animated Sketchbookシリーズを制作した。戦争が終わるまでには、イギリスのアニメーターは観客を獲得し、新しい技術を学びながら(まだ切り紙アニメの方を好んではいたが)、より長いフィルムに挑戦していた。バクストンやダイヤーとその協力者数名は、セシル・ヘップワースCecil Hepworthのプロデュースで『キディグラフ』Kiddigraphという別のシリーズを作った。その後ダイヤーはシェイクスピアの映画化に取り組み、バクストンは『ミフィーの回想』Memoir of Miffyと『バッキーのバーレスク』Bucky's Burlesqueの二つのシリーズを作った。ランスロット・スピードは別のシリーズ『ピップ、スクィーク、ウィルフレッド』Pip, Squeak and Wilfredに従事した。最も大衆に受けたのはジョージ・アーネスト・スタディの『ボンゾ』Bonzoの冒険もの(開始は1924年)である。ボンゾはお人好しの犬で、ミドルクラスの環境の中でトラブルに巻き込まれるというものであった。

 イギリス映画産業の規模が小さいことから経済的には困難もあったが、新作のシリーズが作られ続け、スタジオはさらに開設された。ジョー・ノーブルJoe Nobleは少年と犬が登場する『サミーとソーセージ』Sammy and Sausageを作った。シド・グリフィスSid Griffithは映写技師をしているときに『フェリックス・ザ・キャット』の動きを分析することでアニメーションの基本を学んだ人物であるが、同じく犬が登場する『野良犬ジェリー』Jerry the Tykeのシリーズを作った。漫画家のトム・ウェブスターTom Websterは『X脚の馬ティシー』Tishy the X-Legged Horseで犬のかわりに馬を主人公にしようと試みた。

 アンソン・ダイヤーは1920年代のイギリスアニメーションでもっとも力強い足跡を残した一人である。舞台デザイナー、教育映画の監督として働きながら、『ストーリー・オブ・ザ・フラッグ』The Story of the Flag(長編として構想されたが、結局1927年に6つのエピソードとして公開された)に2年を費やした。イギリス映画の状況と同様に、イギリスのアニメはほとんど孤立した存在であり、国内向けだけに公開された。大陸で公開されたわずか数本のフィルムも当時のヨーロッパで働く作家たちには何の影響も与えることはなかった。

イタリア


 イタリアにおける最初のアニメーションは『戦争とモミの夢』La guerra e il sogno di Momi(1916)の中のコマ撮りトリックシーンである。これはジョヴァンニ・パストローネGiovanni Pastrone(『カビリア』Cabiriaの監督)の実写劇映画の一部であった。このシークェンスでは、老人が甥のモミに戦争の話をする。だんだん子供は眠りに落ち、人形が闘う夢を見るのである。やがて銃剣に刺されて目が覚めると、これはバラのトゲの仕業だった。このほとんど完璧でなめらかなアニメーションは驚くべきものである。これはパストローネとスペインのカメラマンにして特撮の巨匠セグンド・デ・チョーモンSegundo de Chomonの協力の結果であった。

 1920年、トリノのティツィアーノフィルムTiziano FilmはザンボネッリZambonelliの名で知られたボローニャの画家カルロ・アメデオ・フラスカリCarlo Amedeo Frascari(1877〜1956)による児童向け喜劇映画を数本制作した。3本はほら男爵が登場するもので、4本目は『ベイビーとルクレツィア・ボルジア』Baby...e la Lucrezia Borgiaという題である。1920年にはジェノア出身の若い画家アントーニオ・ボッティーニAntonio Bottini(1890年8月24日サンレモ〜1981年7月23日ジェノア)がイタリアアニメ界にデビューした。ボッティーニ(後にフランス式のジャン・ビュタンJean Buttinに改名し、ジルベルト・ゴヴィ劇団の舞台装置で知られるようになった)は「アメリカ製と思われる」アニメを見てアニメーションに転職した。彼はコマ撮りや透明シートの使用のような製作法を再発見した。8ヵ月の作業の後、『風邪の直し方』La cura contro il raffreddoreを公開した。これは約10分のフィルムで、吹出しと字幕入りであった。その10年後、ボッティーニは第2作『いじわるガエル』Rana dispettosa(1933年公開)にとりかかり、トーキーを試みた。その後ボッティーニは映画を離れ、漫画や挿絵、舞台美術に転身した。

 1923〜1932年の間、ローマのデザイナー、グイド・プレセピGuido Presepi(1886〜1955)は子供向けの短編映画を制作した。その中でも『田舎のネズミと町のネズミ』Il topo di campagna e il topo di cittaは際立った出来である。彼の小さなスタジオでは広告映画や科学映画、教育映画も制作した。プレセピは長編アニメを最初に作ろうとした人物の一人である。この『ムッソリーニの生涯』Vita di Mussoliniは未完のまま残された。

 1925年、アルベルト・マストロヤンニAlberto Mastroianni(1903年パリ生まれ)は映画『アフリカ探検』Avventura in Africaで、部分的に黒板にチョークで描いた絵を撮影した。彼は約50年間の沈黙を経て、1972年に発表した『呪われたK43号リール----トップシークレット』Quella dannata bobina K 43, Top Secretで突然復活した。

 その他のパイオニアたちの中で、トリエステ出身のグスターヴォ・ペトローニオGustavo Petronio、ローマ出身のウーゴ・アマドーロUgo Amadoro、ルイージ・リベリオ・ペンスーチLuigi Liberio Pensutiらは特に広告・教育映画に従事した。カルロ・コッシオCarlo Cossio(1907〜64)と弟ヴィットーリオVittorio(1911〜1984)はこの世界で長いキャリアを誇ったが、障害やフラストレーションにつきまとわれていた。ブルーノ・ムナーリBruno Munariと共に、彼らはアメリカでの普及に10年以上遅れて、セルを「発見」した。1932年、ミラノでコッシオ兄弟とコルベッラCorbella、ピッカルドPiccardoらは『ツィビッロと熊』Lo Zibillo e l'Orsoを制作した。これはトーキーで、煙突型の帽子をかぶった子供が主人公である。その後間もなくコッシオ兄弟はポピュラーソングの『愛のタンゴ』Tango dell'amoreと『さすらいのタンゴ』Tango del nomadeをアニメ化した。同じ年、レッケ出身で20才のアントーニオ・アタナージAntonio AttanasiはブラウニングBrowningの詩を原作とした『ハーメルンの笛吹き』Il Pifferaio di Hamelinでデビューした。

スペイン


 スペインの初期アニメーションの中でもっとも傑出した作家の一人がセグンド・デ・チョーモンSegundo de Chomonである(1871年10月17日アラゴン、テルエル〜1929年5月2日パリ)。彼は腕利きのカメラマンで、特撮の生みの親でもあった。第1作『列車衝突』Choque de trenes(1905年、約60m)は映画におけるミニチュア使用のさきがけである。チョーモンの『電化ホテル』El hotel electrico(同1905年)は「傑作であり、後のウォルト・ディズニーのような巨匠たちや『隣人』Neighboursにおけるマクラレンなどのオブジェアニメに匹敵するものである」(フランシスコ・マシアンFrancisco Macian)

 チョーモンの果たした貢献はアニメの分野のみならず、映画制作全般にわたっている。チョーモンは監督あるいは撮影監督としてバルセロナやパリ(パテPathe社)、トリノ(イタラItala社)で働いた(『戦争とモミの夢』での貢献はすでに言及した)。彼は何よりもまず有名な撮影監督であり、ドリーのような技術や映画メディアの表現性を高める機材を発明した。コマ撮りの技法に関しては、チョーモンは動く映像という言語全体の1要素と考えており、彼が発明したり完成させた多くのトリックと同レベルに考えていた。アニメ映画の監督のオファーを彼は断ったが、その理由は経済的リスクとアニメに伴う労苦ゆえであったと言われる。

 諷刺画家フェルナンド・マルコFernando Marcoは一度だけ映画への道を志し、『お化け牛』El toro fenomeno(1917年、初映は1919年)を制作した。マルコは映像を担当し、ルイス・タピアLuis Tapiaが見事な韻文のテクストを書いた。プロットのくだらなさにもかかわらず(巨大な角の牛による偶然だらけの走り)、この映画はその人を愉しませる観察眼により人気を博した。

 数年後、ホアキン・サウダロJoaquin Xaudaroは『海辺のドラマ』Un drama en la costa(1933)を制作した。K=イトK-Hito(本名リカルド・ガルシア・ロペスRicardo Garcia Lopez)は『ファースト・ラット』El rata primero(1932)や『運命の女フランシスカ』Francisca la mujer fatal(1932)を撮った。両者とも批評家や観客から賞賛された。人形アニメーターのフェリシアーノ・ペレスFeliciano Perezとアルトゥーロ・ベリンゴリArturo Beringoliは『豪勇ラウル』El intrepido Raulを1930年に作った。ホセ・マルチネス・ロマーノJose Martinez Romanoと諷刺画家のメンダMendaは『安全のためその1』Una de abonoおよび短編西部劇『バッファロー・フル』Buffalo Fullで1935年にデビューした。彫刻家アドルフォ・アスナールAdolfo Aznar(1900年ラ・アルムニア・デ・ドーニャ・ゴディナ〜1975年)は『ピポとピパ、ココリンを探す』Pipo y Pipa en busca de Cocolin(1936)を制作した。これは画家サルバドール・バルトロッシSalvdor Bartolozziのキャラクターをもとにした人形アニメである。1936年に始まったスペイン内乱はもともと限定されたスペインの映画制作を激減させ、わずかにニュース映画や記録映画にインサートされるだけとなった。

スウェーデン


 1920年以降、スウェーデンのアニメーションは広告映画の分野で発展した。コマーシャル以外では、ヴィクトル・ベリダールVictor Bergdahl(1878〜1939)がスウェーデンアニメを代表する作家である。漫画家ベリダールはアメリカの同業者と同じ道をたどり、自分のキャラクターをアニメートした。アニメーターとしての活動は1915年から1930年までだが、その間に船乗りのグロッグ船長Kapten Groggのキャラクターに集中し、かれのナイーブな冒険を見事に展開させた。発明好きなベリダールは様々な撮影テクニックを考案したが、セルの長所に気づくことはなかった。たった一人で生み出したその作品は内容と共に技術的にも苦労の跡が見える。とはいえ、彼はウィットとユーモア、そしてインスピレーションを保っている。

 エミーレ・アグレンEmile AgrenとM・R・リリクヴィストM.R.Liljeqvistも同様の努力をおこなったが、その試みはまとまったものではなく、個人の一時的な活動にとどまった。1933年、もう一人の画家ロベルト・ヘーグフェルトRobert Hogfeldtが10分の面白い『トロールの訓練法』How We Tame a Trollを発表した。ヘーグフェルトは1894年にスウェーデン人の両親の子としてオランダで生まれ、デュッセルドルフとストックホルムで学んだ。彼はトロールの絵で有名になり(トロールとは北欧民話に出てくる木から生まれた魔物である)、挿絵画家として活躍した。『トロールの訓練法』は彼唯一の映画作品である。

デンマーク


 別の自主制作の例がデンマークの作家・イラストレーター、そして俳優でもあったロベルト・ストーム=ペテアセンRobert Storm-Petersenの仕事に見い出される。彼は日刊新聞の人気漫画の小さな制作会社を持ち、そこから1916年にアニメーションを発表した。ストーム=P(同時代のデンマーク人は彼をこう呼んだ)は「バロック」的ユーモアのセンスを示し、独自の絵のスタイルを持っていた。実際にはスールムの映画をずっとアシストしたオペレーターのカール・ヴィーグホルストKarl Wieghorstがアニメーションを担当していた。だが、技術解説を求められると、ストームは「マジシャンや猛獣使いは企業秘密を明かしたりはしないものさ」と嬉々として煙に巻くのだった。初期のフィルムの中で知られているのは未完成の『島』The Island(1920)やおかしなナンセンス・ストーリー『ダック・ストーリー』Andreventyr(1920)である。『ダック・ストーリー』は彼自身にそっくりの画家がアヒル狩りの最中に3人の小男とやりあう話である(この3人は後にペテアセン・アニメのレギュラーキャラになる)。続くギャグ映画の中で、『若返り:ステイナック教授の方法』Foryngelseskuren eller professor Steinacks metode(1921)が知られている。1920年代末にストーム=ペテアセンは広告活動に重点を移し、1930年には映画から手を引いた(すでに彼自身、喜劇映画スターとしても有名になっていたのであるが)。生年は1882年、没年は1949年である。

 デンマークでストーム=ペテアセンの唯一のライバルだったのがスヴェン・ブラッシュSven Brasch(1886〜1970)である。諷刺画家・デザイナーだった彼は『まずまずの善意』Den er pingeling(1919)を制作した。

フィンランド


 エリク・ヴァストレムErik Wasstrom(1887〜1958)はフィンランドの映画史の中で最初にあらわれたアニメ作家である。1914年、彼はブラックトンを模倣して、“魔法の筆”で同時代の事件を映画化した。10年後、カール・サレンKarl Salenとユーリア・ニュベリYrjo Nyberg(1934年にノルタと改名)が『本物の日曜狩猟家』Aito sunnuntaimetsastajaを制作した。この映画はトゥルクに本社があるアニメCF製作会社のラヒュンフィルムLahyn Filmからリリースされた。1920年代末に諷刺画家で漫画家のオラ・フォゲルベリOla Fogelberg(1894〜1952)がペッカ・プーポーPekka Puupaa(ピーター・ウッドンヘッドPeter Woodenhead)のキャラを基に5分のフィルムを撮った。一方、アニメーターのヤルマール・レフィングHjalmar Lofving(1896〜1968)がデビューし、そのキャリアの間に15本のアニメ映画を作り続けた。

ロシア


 20世紀初頭の専制ロシアではラディスラフ・スタレヴィッチが活躍した。革命後、ソヴィエトの映画産業が再生し、新作アニメが公開されるまでには数年を要した。二人の著名人がアニメーションに参加した。ウラジミル・マヤコフスキーVladimir Mayakovsky(その未来主義詩はアニメーションの活動とも共通点があり、政治的マニフェストをアニメ化しようとした)、そして、ジガ・ヴェルトフである。

 この時期には異なる芸術分野の協同作業が盛んであった。これは大いなる創造の可能性を持ち、今世紀で最も素晴らしいものである。だが、このような状況にもかかわらず、アニメ映画はエイゼンシュテイン、プドフキン、ドヴジェンコ、ジガ・ヴェルトフといった輝かしい映画作品に比べれば小さな役割しか演じなかった。ソヴィエトアニメにも質の高い作品はあったが、実写映画や演劇、文学、絵画に比べればあまり発展しないまま取り残された。

 「民話、童話、シュルレアリスム小説、ニュースを題材としたミュージカル・コメディ、政治・社会諷刺、パンフレット、これらが初期ソヴィエトアニメのテーマだった」(イワン・イワノーフ=ワノIvan Ivanov-Vano『アニメーション』Risovannyi Film、1950、モスクワ)
 ソヴィエトアニメの直接の源泉は政治的マニフェストや諷刺漫画であった。ジガ・ヴェルトフDziga Vertovはそのニュース映画『キノ・プラウダ』Kino-Pravdaにアニメシーンをインサートした。その第1作が『ソヴィエトの玩具』Sovietskie Igrushki Советские игрушки(1924)で、作画はアレクサンドル・イワノーフAleksandr Ivanovとアレクサンドル・ブーシキンAleksandr Buskin、撮影はイワン・ベリャコーフIvan Beljakovである。この映画は自由主義経済に対抗する内容であった。彼らは切り紙アニメの手法を用いて『ユーモラスな小品集』Yumoreski Юморески、『第2インターナショナルに対して』V Mordu II Internatsionalu、『マクドナルドの出世』Kar'iera Makdonal'daを作った。ブーシキン(1896年4月1日バラソフ〜1929年6月5日モスクワ)は才能を十分に発揮することなく、若くして亡くなったが、イワノーフ(1899年6月5日ラスカソヴォ〜1959年5月13日モスクワ)はあの強力なソヴキノSovkinoの中にアニメ部門を設立し(1928年)、この世界で華々しい業績をのこした。

 同じ頃、画家ニコライ・ホダターエフNikolai Khodataev(1892年5月9日ロストフ〜1979年12月27日モスクワ)やゼノン・コミサーレンコZenon Komissarenko(1891年4月10日シンフェロポル〜?)、ユーリー・メルクーロフJurii Merkulov(1901年4月28日ラスカソヴォ〜1979年2月3日モスクワ)らはアニメーションの実験をおこなった。未完の『惑星間革命』Mezhplanetnaya Revolyutsiya Межпланетная революцияの後(マヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』Misteriya-Vuffに類するもの、あるいはプロタザノフProtazanovのSF映画『アエリータ』Aelitaのパロディを意図していた)、中国における革命戦争を扱った『燃える中国』Kitai v Ogne Китай в огнеを公開した。同年、ロシアの第1革命から1925年の出来事までを扱った『1905−1925』を撮った。1927年、ホダターエフは全て女性スタッフにより(彼の妹オリガOlgaやヴァレンティナ・ブルームベルクVanlentina Brumberg、ジナイダ・ブルームベルクZinaida Brumberg)、『多数の中の女ひとり』Odna iz Mnogikh Одна из мноихを作った。これは映画や(アメリカの)映画スターにあこがれる思春期の少女の夢である。この映画はブロンドの主人公のショットとアニメ部分をミックスしたもので、教訓的ではあるが、楽しめる調子で語られている。

 1927年、ユーリー・ジェリャーブシュキーJurii Zheljabuzhsky(1888〜1955)は『スケートリンク』Katok Катокを制作、これはN・バトラムN. Batramの話で、作画はダニエル・チェルケスDaniel Cherkesとイワン・イワノーフ=ワノである。スケートリンクにこっそりと入り込んだ腕白小僧がいたずらをするが、最後にはレースに勝つというものである。この作品はストーリーも面白く、アニメートも良くできている。美術は素晴らしく、またモダンである(白黒で描かれ、シンプルでドライ、しかも極めて表現力に富んでいる)。チェルケス(1899年8月31日モスクワ〜1971年6月10日)は舞台美術のデザイナーであり、メイエルホリトMeyerholdと仕事をし、政治映画にも加わった人物である。さらに2本のアニメ映画を作った後、1930年代には絵画に専心した。一方、イワン・イワノーフ=ワノIvan Ivanov-Vano(1900年1月27日モスクワ〜1987年5月)はアニメーションの分野で長く活躍した。チェルケスと共にワノは『アフリカ人セーニカ』Sen'ka-Afrikanets Сенъка-Африканец(1927)や『ほら男爵の冒険』Pokhozhdenie Myunkhgauzena Похождения Мюнхгаузена(1928)を共同制作し、これがアニメにおける新たな分野を盛んにした。つまり、子供向けの古典や民話のアニメ化である。その一例が北シベリアの民衆的イメージを登場させたホダターエフの『サモイェード族の少年』Samoedskii Mal'chik Самоедский малъчик(1928)である。

 モスクワが以上のような状況だった一方、レニングラードでは画家・挿絵画家のミハイル・ツェハノーフスキーMikhail Tsekhanovsky(1889年6月6日プロスクロフ〜1965年6月22日)が、『郵便』Pochta Почтаを制作、これは初期のソヴィエトアニメにおける最高傑作である。サムエル・マルシャークSamuel Marshakの人気童話を原作としたこのフィルムは、世界中の郵便配達人を描き出している。1929年に撮影され、1930年にはトーキーに再編集されて、ソヴィエト国外でも有名になった。アメリカの批評家ハリー・アラン・ポタムキンHarry Alan Potamkinはこれを高く評価し、建築家フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wrightは思考を刺激するアニメーションの例としてウォルト・ディズニーにこれを見せたほどである。

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