20世紀初頭の専制ロシアではラディスラフ・スタレヴィッチが活躍した。革命後、ソヴィエトの映画産業が再生し、新作アニメが公開されるまでには数年を要した。二人の著名人がアニメーションに参加した。ウラジミル・マヤコフスキーVladimir Mayakovsky(その未来主義詩はアニメーションの活動とも共通点があり、政治的マニフェストをアニメ化しようとした)、そして、ジガ・ヴェルトフである。
この時期には異なる芸術分野の協同作業が盛んであった。これは大いなる創造の可能性を持ち、今世紀で最も素晴らしいものである。だが、このような状況にもかかわらず、アニメ映画はエイゼンシュテイン、プドフキン、ドヴジェンコ、ジガ・ヴェルトフといった輝かしい映画作品に比べれば小さな役割しか演じなかった。ソヴィエトアニメにも質の高い作品はあったが、実写映画や演劇、文学、絵画に比べればあまり発展しないまま取り残された。
「民話、童話、シュルレアリスム小説、ニュースを題材としたミュージカル・コメディ、政治・社会諷刺、パンフレット、これらが初期ソヴィエトアニメのテーマだった」(イワン・イワノーフ=ワノIvan Ivanov-Vano『アニメーション』Risovannyi Film、1950、モスクワ)
ソヴィエトアニメの直接の源泉は政治的マニフェストや諷刺漫画であった。ジガ・ヴェルトフDziga Vertovはそのニュース映画『キノ・プラウダ』Kino-Pravdaにアニメシーンをインサートした。その第1作が『ソヴィエトの玩具』Sovietskie Igrushki Советские игрушки(1924)で、作画はアレクサンドル・イワノーフAleksandr Ivanovとアレクサンドル・ブーシキンAleksandr Buskin、撮影はイワン・ベリャコーフIvan Beljakovである。この映画は自由主義経済に対抗する内容であった。彼らは切り紙アニメの手法を用いて『ユーモラスな小品集』Yumoreski Юморески、『第2インターナショナルに対して』V Mordu II Internatsionalu、『マクドナルドの出世』Kar'iera Makdonal'daを作った。ブーシキン(1896年4月1日バラソフ〜1929年6月5日モスクワ)は才能を十分に発揮することなく、若くして亡くなったが、イワノーフ(1899年6月5日ラスカソヴォ〜1959年5月13日モスクワ)はあの強力なソヴキノSovkinoの中にアニメ部門を設立し(1928年)、この世界で華々しい業績をのこした。
同じ頃、画家ニコライ・ホダターエフNikolai Khodataev(1892年5月9日ロストフ〜1979年12月27日モスクワ)やゼノン・コミサーレンコZenon Komissarenko(1891年4月10日シンフェロポル〜?)、ユーリー・メルクーロフJurii Merkulov(1901年4月28日ラスカソヴォ〜1979年2月3日モスクワ)らはアニメーションの実験をおこなった。未完の『惑星間革命』Mezhplanetnaya Revolyutsiya Межпланетная революцияの後(マヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』Misteriya-Vuffに類するもの、あるいはプロタザノフProtazanovのSF映画『アエリータ』Aelitaのパロディを意図していた)、中国における革命戦争を扱った『燃える中国』Kitai v Ogne Китай в огнеを公開した。同年、ロシアの第1革命から1925年の出来事までを扱った『1905−1925』を撮った。1927年、ホダターエフは全て女性スタッフにより(彼の妹オリガOlgaやヴァレンティナ・ブルームベルクVanlentina Brumberg、ジナイダ・ブルームベルクZinaida Brumberg)、『多数の中の女ひとり』Odna iz Mnogikh Одна из мноихを作った。これは映画や(アメリカの)映画スターにあこがれる思春期の少女の夢である。この映画はブロンドの主人公のショットとアニメ部分をミックスしたもので、教訓的ではあるが、楽しめる調子で語られている。
1927年、ユーリー・ジェリャーブシュキーJurii Zheljabuzhsky(1888〜1955)は『スケートリンク』Katok Катокを制作、これはN・バトラムN. Batramの話で、作画はダニエル・チェルケスDaniel Cherkesとイワン・イワノーフ=ワノである。スケートリンクにこっそりと入り込んだ腕白小僧がいたずらをするが、最後にはレースに勝つというものである。この作品はストーリーも面白く、アニメートも良くできている。美術は素晴らしく、またモダンである(白黒で描かれ、シンプルでドライ、しかも極めて表現力に富んでいる)。チェルケス(1899年8月31日モスクワ〜1971年6月10日)は舞台美術のデザイナーであり、メイエルホリトMeyerholdと仕事をし、政治映画にも加わった人物である。さらに2本のアニメ映画を作った後、1930年代には絵画に専心した。一方、イワン・イワノーフ=ワノIvan Ivanov-Vano(1900年1月27日モスクワ〜1987年5月)はアニメーションの分野で長く活躍した。チェルケスと共にワノは『アフリカ人セーニカ』Sen'ka-Afrikanets Сенъка-Африканец(1927)や『ほら男爵の冒険』Pokhozhdenie Myunkhgauzena Похождения Мюнхгаузена(1928)を共同制作し、これがアニメにおける新たな分野を盛んにした。つまり、子供向けの古典や民話のアニメ化である。その一例が北シベリアの民衆的イメージを登場させたホダターエフの『サモイェード族の少年』Samoedskii Mal'chik Самоедский малъчик(1928)である。
モスクワが以上のような状況だった一方、レニングラードでは画家・挿絵画家のミハイル・ツェハノーフスキーMikhail Tsekhanovsky(1889年6月6日プロスクロフ〜1965年6月22日)が、『郵便』Pochta Почтаを制作、これは初期のソヴィエトアニメにおける最高傑作である。サムエル・マルシャークSamuel Marshakの人気童話を原作としたこのフィルムは、世界中の郵便配達人を描き出している。1929年に撮影され、1930年にはトーキーに再編集されて、ソヴィエト国外でも有名になった。アメリカの批評家ハリー・アラン・ポタムキンHarry Alan Potamkinはこれを高く評価し、建築家フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wrightは思考を刺激するアニメーションの例としてウォルト・ディズニーにこれを見せたほどである。
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