ウィンザー・ゼニス・マッケイWinsor Zenith McCayは天才的な漫画家であり、彼の漫画
『夢の国のリトル・ニモ』Little Nemo in Slumberlandは1905年10月15日から
「ニューヨーク・ヘラルド」New York Herald紙に連載され、現在もなおコミックストリップの最高傑作の一つである。彼はまたアメリカのアニメーションにおける最初の「古典」作家であった。マッケイは1871年9月26日にミシガン州スプリング・レイク近くに生まれた。同時代の仲間と同じように独学の人であり、看板や舞台の背景画、新聞漫画を描くことから出発した。シンシナティで15年を過ごした後、1903年
ジェームズ・ゴードン・ベネットJames Gordon Bennettによってニューヨークに呼ばれた。ベネットはアメリカジャーナリズム界の伝説的人物であり、「ニューヨーク・ヘラルド」紙や
「ニューヨーク・イブニング・テレグラム」New York Evening Telegram紙の発行者だった。ニューヨークにおいて、マッケイの名声は早くも頂点に達した。同業者からも尊敬を集め、作品の質と一般受けを両立させることができた。彼は大衆の人気に対する鋭い嗅覚に優れていた。
1906年6月、マッケイは再びヴォードヴィルの舞台に戻るが、今度は演じる側だった。彼の出し物は
「チョークトーク」のタイプで、客の似顔絵を描いたり、
「人生の七つの顔」The Seven Ages of Man(2つの顔に少しづつ描き足して年を取らせる)というパフォーマンスだった。11年間に渡るこの巡業活動は成功し、その間も漫画やイラストの活動が止むことはなかった。
マッケイがアニメーション第1作を始めたのはこのヴォードヴィル活動のためである。名目としては、漫画家仲間との賭けのために、数千枚の原画を休みなく描き、映画として撮ることに挑戦するはめになった、というものであった。当時知ることの出来たわずかな技術、そして恐らくは
ジェームズ・スチュアート・ブラックトンの助言を借りて、マッケイは1910年に
『リトル・ニモ』Little Nemo を撮影した。1911年4月12日からマッケイは『リトル・ニモ』をヴォードビルの出し物に加えた。この映画は同時に映画館でも上映された。ブラックトンの製作会社である
ヴァイタグラフVitagraphは、ブラックトンが撮った「枠」となる導入部分(賭けの模様とマッケイの制作風景を示す)を加えて公開した。
補足
1912年1月、マッケイは
『蚊の話』The Story of a Mosquito(別題
『蚊はいかにして行動するか』How a Mosquito Operates)を制作した。だが、今回は自分の劇場で披露されている間は映画館で上映されないようにマッケイは要求した。『リトル・ニモ』はまさしく「第1作」である。筋も背景もなく、ほとんどワン・シークェンスのイメージ以上のものではない。その中でイメージ自体がスクリーン上で自分の存在証明をするかのように、実体化し、それから消え失せるのである。この実験性は皮肉で愉快なストーリーを持つ『蚊の話』では克服される。山高帽をかぶった巨大な蚊が酔っぱらいの血を貪り狂い、ついに飲み過ぎた蚊は破裂してしまう。
マッケイの第1期の特徴は並外れてシャープな作画とアニメーションにある。彼の漫画の豊かでエレガントなアール・ヌーヴォーのスタイルは、簡略化されたものの決して貧弱化してはいない。動きは遅く滑らかで絵柄に完璧にマッチしており、アニメーションの歴史の中でもほとんど類を見ない典雅さを示している。マッケイ自らが制作したことで精魂を傾けることができ、数千枚の原画を用いてアニメーションの滑らかさに細心の注意が払われた(マッケイは旧式の
ムトスコープを用いて撮影前に原画をチェックした)。
補足
1914年2月8日、シカゴのパレス・シアターPalace Theaterで彼の最高傑作
『恐竜ガーティ』Gertie the Dinosaurが公開された。この映画は一人の調教師と恐竜による類を見ない見世物であった。この巨大な生物は岩陰からうかがい、果物を食らい、湖を飲み干し、マンモスと戯れ、マッケイの命令でダンスした。時には反抗的になり、叱られると泣き出す。アニメーションが素晴らしいだけではなく、この小犬のようなブロントサウルスに与えたパーソナリティもまた驚くべきものがある。ガーティのパフォーマンスはタイミング・演技ともによく出来ており、マッケイを脇役にしてしまった。これを伝える唯一の人物である
エミール・コールEmile Cohlはアメリカからの手紙でこう書いている。
「主演、というよりむしろ独演するのは前世紀の生物です…スクリーンの前では鞭を持ったマッケイが上品に立っています。短い口上の後、調教師のようにスクリーンに向き直るとこの動物を呼びます。(ガーティは)岩陰から姿を現わし、この瞬間、最高のショーが始まるのです…」
マッケイが連載していた新聞社が『恐竜ガーティ』の見世物に対して独占権を主張したため、彼の演芸活動に終止符が打たれることになった。争いが嫌いなマッケイは、まずその見世物をニューヨークだけに限定し、それからやめてしまったのである。『ガーティ』はプロローグと実写の場面を付け加えて再編集され、1914年の末に
ウィリアム・フォックスWilliam Foxに映画の配給権が渡された。
補足
マッケイの次の作品が見られるまでには数年を要した。20分を超える今回の作品は、全く異なるものになった。
『ルシタニア号の沈没』The Sinking of the Lusitania(1918年7月)と題されたこの映画は戦時下の歴史で起きた悲劇----1915年5月イギリス船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈された----に基づいている。死者1198名の中には124名のアメリカ市民が含まれていた。アメリカ世論は沸騰し、アメリカの参戦に決定的な役割を演じることになった。憤激したマッケイはドラマチックで綿密なディテールを持ち、人の心に訴えかける映画を作り出した。これは当時のドキュメンタリー映画やニュース映画のリズムやスタイルがとられている。マッケイの特徴である華やかなスタイルはこの映画の倫理的・劇的な主調の中からさえ現れている。例えばそれは波にさらわれる子供の顔が美しく描かれている中にも見ることができる。
マッケイの残りの完成作や断片の中で最も優れているのは、マッケイが1921年頃に息子のロバートRobertと共同制作した3部作の
『チーズの悪夢』Dreams of a Rarebit Fiendである。第1作『ペット』The Petは一匹の犬が巨大化し、都市を徘徊するというストーリーである。第2作
『虫のサーカス』Bug Vaudevilleでは擬人化しない昆虫が手品やダンス、自転車乗りなどを披露する。第3作
『フライング・ハウス』The Flying Houseでは中年夫婦が自宅に羽根とエンジンを備え付け、宇宙の彼方へ飛び立つ。『虫のサーカス』はオリジナリティも豊かで、うららかで典雅なアニメである。おそらく3本のうちでベストであろう。とはいうものの、この3部作はマッケイの初期作品にははるかにおよばない。紙に描くのをやめてセルを使用したことが芳しくない結果をもたらし、マッケイのインスピレーションとリズムセンスも従来より感じられないのである。
その後、1934年7月26日に亡くなるまでマッケイは漫画とイラストしか制作しなかった。しかしながら、彼は常に自分をアニメーターとみなし、あるインタビューでは自分の映画を一番誇りに思うと語っている。
1920年代にニューヨークのアニメーターたちが食事会を催したとき、マッケイは歯に衣着せぬ言葉で同業者たちにその責任を思い出させた。
「
アニメーションは芸術であるべきだ、そう私は確信していました。しかし、あなたがたはそれを商売の道具にしてしまったのです…芸術ではなく商売に…残念です」