カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第16章 ラテンアメリカのアニメーション
アルゼンチン

 キリーノ・クリスティアーニ Quirino Cristiani 以降、アルゼンチンでメジャー作品を完成させたアニメーション作家は現れなかった。画家・漫画家だったフワン・オリバ Juan Oliva(1910年8月10日バルセロナ〜)は1930年頃にアルゼンチンへ移住し、数年間クリスティアーニに師事した。彼は1937年に自身の作品制作を開始した。これは小さなガウチョのフリアン・センテラ Julian Centella が巻き起こす短編ギャグエピソードで、ニュース映画「アルゼンチンの出来事」Sucesos Argentinos [Events in Argentina] の合間に挿入された。1939年にオリバはアルゼンチン・アニメーション映画社 Compañía Argentina de Dibujos Animados [The Argentine Company of Animated Drawings] を設立し、アメリカ産の短編アニメーションに対抗しようと試みた。

 試作品の『羽をむしり取られたガチョウ』Desplumando avestruces [Plucking Ostriches] の後、オリバは1940年8月28日に『ピューマ狩り』La caza del puma [Hunting the Puma](1940)を公開した。主人公は子供のレフシロ Rejucilo とその愛馬シクロン Ciclón で、彼らがピューマを酔わせて狩りに成功するという物語である。そのアニメーションや作画の質が――少なくとも当時の水準としては――高かったにもかかわらず、観客にはあまりヒットせず、オリバはスタジオの解散を余儀なくされた。一時期広告映画に従事した後、彼は二本の短編を監督した。『早撃ちフィリピート』Filipito el pistolero [Filipito the Gunslinger](1942)と『恐怖の夜』Noche de sustos [Night of Fright](1942)である。その後引退したオリバは絵画やアニメーション教育に従事した。病気がちだった彼は(長年にわたりほとんど盲目状態で過ごした)1975年7月3日に亡くなった。

 ダンテ・キンテルノ Dante Quinterno(1908年ブエノスアイレス〜)は漫画家・出版業者であり、アルゼンチンのドン・キホーテとも言える有名なインディアンのパトルス Patoruzú の生みの親である。莫大な財産の持ち主だったキンテルノは1939年に自分のキャラクターが登場する長編映画を計画した。渡米してフライシャーとディズニーのスタジオを見学した後、スタッフを編成し、漫画時代からの信頼できる協力者達に統率させた。様々な理由から――最も影響の大きかったのがドイツのガスパーカラーフィルム(開戦後は使用不可能になった)を採用したこと――作品は18分に短縮され、1942年に『困ったウパ』Upa en apuros [Upa in Trouble] のタイトルで公開されたが、失敗に終わった。これはアルゼンチン初のカラーアニメーション映画であり、長年に渡り、良質アニメーションのお手本として考えられてきた。

 ホセ・M・ブローネ・ブルチェ José M. Burone Bruche は1942年にエメルコ Emelco 広告代理店でフワン・オリバの後を継いで活動を開始した。この会社で前任者オリバがほとんど自作を制作する機会がなかったのとは反対に、ホセ・ブローネ・ブルチェは『老ウサギの忠告』Los consejos del viejo vizcacha [The Advice of Old Man Hare] を映画化することができた。これはホセ・エルナンデス José Hernandez の国民詩『マルティン・フィエロ』Martín Fierro からの自由な翻案である。1947年には1分シリーズ『民衆のことわざ』Refranes populares [Popular Sayings] を生み出した。彼は教育映画も数本手がけ、その後は広告映画に専念した。

 1950年にブローネ・ブルチェの弟子であるホルヘ・カロ Jorge Caro はウサギのプラシド Plácido が主人公のシリーズを開始した。プラシドは陽気なキャラクターで、とりわけ『チャンピオンの拳』Puños de campeón [Fists of a Champion] は大成功を収めた。カロはペルーに移住し、そこでアニメーションスタジオを設立した。

 1950年代にはアヴァンギャルド映画の分野でも進展があった。映画作家にして映画批評家、そして文化イヴェントの仕掛人でもあったビクトル・イトゥラルデ・ルア Victor Iturralde Rua(1927〜)はフィルムにダイレクトペイントした作品で異彩を放っている。彼はマクラレン作品を特集上映で観て、同じ手法を取り入れた。作品としては『思考』Ideitas [Ideas](1952)、『ヒック…!』Hic...!(1953)、『ピリピピ』Piripipi(1954)、『ペトロリータ』Petrolita(1958)がある。ロドルフォ・フリオ・バルディ Rodolfo Julio Bardi は『コンポジション』Composición [Composition](1954)でタイルや彩色ガラス、糸など様々な素材を組み合わせた。ホセ・アルクリ José Arcuri は幾何学的な絵で10分の抽象映画『造形的連続性』Continuidad plástica [Plastic Continuity](1958)を制作した。

 人形アニメーションの制作も行われた。そのスペシャリストがカルロス・ゴンサレス・グロッパ Carlos Gonzáles Groppa である。一番有名で数々の国際映画祭で受賞したのが『トリオ』Trio(1958)、『フランク』Franc(1959)、『マジア』Magía(1960)である。前述したチェコ出身のカレル・ドダル Karel Dodal(今はカルロス Carlosとなった)も人形アニメーションに取り組み、やはりチェコ出身で彼の二番目の妻にあたるイレーネ Irene と共同して、主に教育作品に従事した。

 1960年代と1970年代に広告が目覚ましい成長を遂げた結果、年450本ものCMアニメーションが制作された時期もあった(ヨーロッパからすれば夢のような数字である)。この分野での第一人者としてはカルロス・コスタンティーニ Carlos Costantini、アルベルト・デル・カスティーヨ Alberto del Castillo、ジル&ベルトリーニ Gil & Bertolini のコンビ(1961年制作の短編『サー・ウェリントン・ボーンズ』Sir Wellington Bones は絶賛された)などがいる。

 1960年代に作家・出版者のマヌエル・ガルシア・フェッレ Manuel García Ferré は小さな帝国の基礎を生み出した。1929年10月8日スペインのアルメリーアに生まれ、才気と野心に満ちた彼は17才でブエノス・アイレスに移住し、1955年にローベ・エメルコ Lowe Emelco でアニメーターとしてスタートした。1959年にはガルシア・フェッレ・プロダクション Producciones García Ferré を設立し、ラテンアメリカで最も成功したTVシリーズのいくつかを制作・監督した。その最初が『アンテオヒートとアンティファス』Anteojito y Antifaz で、それから『イヒトゥス』Hijitus(1967〜1973)、二つの教育番組『ペテーテの分厚い本』El libro gordo de Petete(ギニョルと俳優とドローイングアニメーションを使用)、『カルクリンの冒険』Las aventuras de Calculín [The adventures of Calculin] がこれに続いた。フェッレには三本の長編もあり、いずれも娯楽作品として制作された。『千の計画と一つの発明』Mil intentos y un invento [One Thousand Projects and One Invention](1972)はTVキャラのアンテオヒト Anteojito とアンティファス Antifaz 主演のミュージカルコメディである。『ペテーテとトラピト』Petete y Trapito(1975)は海や陸を舞台としたかかしと小鳥の冒険映画で、『宮廷の子馬』Ico el caballito valiente [The Tale of a Foal at the King's Court](1983)は王宮にやってきた子馬の物語である。ガルシア・フェッレは漫画のデザインや児童向け出版、マーチャンダイジング、TV制作にも精力的に活動した。

 もう一人のマルチタレントがシモン・フェルドマン Simón Feldman である。作家・エッセイスト・実写映画監督であった彼は長編『四つの秘密』Los cuatro secretos [The Four Secrets](1976)を制作した。これは三人の子供が夢の中で地水火風四大要素の秘密を聞かされるという物語である。

 もう一本の長編アニメーションが1987年にルイス・パロマレス Luis Palomares によって作られた。それが『コンドルの盾』El escudo del condor [The Condor's Shield] で、サーカス団員が悪のロボットを倒すSFストーリーを人形アニメーションで物語っている。

 最後に、ホルヘ・「カトゥ」・マルティン Jorge 'Catú' Martín も取り上げるべき作家である。1933年8月2日サンイシドロ生まれの彼は、1960年代初めにアニメーションへ転身する前は専門雑誌に漫画を描いていた。作品としては『壁』La pared [The Wall](1961)、『小型タクシー』Compacto cupé [The Compact Cab](1964)がある。1970年代初頭には漫画家キノ Quino(ホアキン・ラバド Joaquín Lavado)が生んだ反抗的な少女マファルダ Mafalda が登場する二百本以上のTV用短編を制作した。マファルダは長編アニメーションの主人公ともなったが、こちらについてカトゥは一切関与せず、「苦心の編集も…進行・リズム・展開・プロットが基本的に欠如しているせいで台無しになってしまっている」と彼は指摘している。とはいえ、マファルダは漫画のアニメ化としては希な成功例の一つである。アルゼンチンの漫画が世界の漫画の中でもアニメーションに多大な貢献をした証である。

ブラジル

 風刺画家セト Seth(アルバロ・マリンス Alvaro Marins)による『皇帝』O Kaiser はブラジル初のアニメーションフィルムだと考えられている。この極めて短いフィルムは1917年1月22日に公開され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世 Wilhelm II を風刺の的にした反戦映画である。ドイツの指導者である皇帝が世界支配を夢見るが、最後には地球に飲み込まれてしまう話である。補足しておくと、ブラジルは第一次大戦時に仏英米側についていた。その二、三ヶ月後の1917年4月26日、キルス・フィルム Kirs Filme はブラジルで二番目のアニメーション映画である『シキーニョと相棒ハグンソの冒険』Traquinices de Chiquinho e Seu Inseparável Amigo Jagunço [The Escapades of Chiquinho and His Inseparable Friend Jagunco] を発表した。このフィルムのクレジットには監督名は登場しない。その一年後、ジルベルト・ロッシ Gilberto Rossi とフォノ Fono(エウヘーニオ・フォンセカ・フィーリョ Eugénio Fonseca Filho)の『ビレとボレの冒険』Aventuras de Bille e Bolle [The Adventures of Bille and Bolle] が続いた。この映画の主人公ビレとボレはバッド・フィッシャー Bud Fisher のマットとジェフ Mutt and Jeff の模倣である。

 その後約10年間、アニメーション制作はCMのみに留まり、この分野に転向したセトが主に手がけた。1933年、セトのスタッフだったホアン・スタマト João Stamato はルイス・セール Luiz Seel と共同で『醜い猿、可愛い猿』Macaco feio, macaco bonito [Ugly Ape, Pretty Ape] を監督した。1938年、風刺画家のルイス・サー Luiz Sa は短編『ヴィルゴリーノの冒険』Aventuras de Virgolino [The Adventures of Virgolino] を発表し、その1年後には『ヴィルゴリーノの悩み』Virgolino apanha [Virgolino's Troubles] を制作した。ブラジル映画のパイオニアの一人であるウンベルト・マウロ Humberto Mauro は短期間アニメーションを手がけた。18分の『小さなドラゴン』O dragãozinho manso [The Good Little Dragon] はこの国初の人形アニメーションである。

 1953年、アネリオ・ラティーニ・フィーリョ Anelio Latini Filho(1924年ノヴァ・フリブルゴ〜1986年4月20日リオ・デ・ジャネイロ)はブラジル初の長編アニメーション『アマゾン河交響楽』Sinfonia Amazônica [Amazon Symphony] を制作した。ラティーニは若干12才の時、遊び半分で6分のアニメーションを作り上げた。それからは絶えず手引き書を読んだり、アメリカ作品を見たりして技術を学んだ。彼はスタイル面ではディズニーの熱烈なファンだったが、テーマ面ではブラジルの民間伝承への親近感を感じていた。24才の時、彼は作家のホアキン・リベイロ Joaquim Ribeiro に依頼して、民話の題材を長編映画用にアレンジしてもらった。リベイロはラティーニにアメリカ・インディアンの伝説を七つ提示した。話の舞台が全てアマゾン流域であることにちなんで『アマゾン河交響楽』のタイトルがつけられた。七つのエピソードをつなぐのはこの地域を旅する主人公クルミン Curumín である。当時のブラジルにはカラーフィルムの現像を行う現像所がなかったため、ラティーニはモノクロで映画を制作した。彼は少なくともブルーに調色したいと望んだが、技術および制作上の理由から白黒で我慢せざるを得なかった。この映画はリオ市内の8劇場で同時公開された。評判も良く、観客動員も多かったが、ビジネスマンとしての腕に乏しかったラティーニは収益をあげることが出来なかった。彼は短期間広告の世界で活動し、その後はコパカバーナで観光客相手に自分の絵を販売した。1968年には長編第二作『アマゾニアのキタン』Kitan da Amazonia [Kitan from Amazonia] に着手したが、未完に終わった。

 マクラレンの作品はブラジルのアヴァンギャルドアニメーションに多大な影響を及ぼした。ロベルト・ミレル Roberto Miller は6ヶ月間カナダでマクラレンのもとに滞在した後、フィルムにダイレクトペイントした第一作『ルンバ』Rumba(1957)を制作した。孤高の実験作家ミレル(1925〜)はこれ以後もアニメーションに全身全霊を捧げ、『ブギ・ウギ』Boogie Woogie(1959)、『アブストラクト・ドローイング』Desenho abstrato [Abstract Drawing](1960)、『陽気な原子』O atomo brincalhão [The Playlul Atom](1968)、『アブストラクト・フレーム』Fotograma Abstrato [Abstract Frame](1985)などを制作した。そのフィルモグラフィーは多様な技法を用いた数多くの抽象映画を含んでいる。ルーベンス・フランシスコ・ルケッティ Rubens Francisco Lucchetti とバッサーノ・ヴァッカリーニ Bassano Vaccarini も抽象アニメーション作家で、1960年にマクラレンの短編を見た後、制作を始めた(その6年前、ミラーが天職を見出したときと同様に)。ルケッティはこう書いている。

「長い間、私は自分を満足させ、新しい芸術ジャンルを生み出す表現メディアを探し求めていた。すなわち、音楽を形態によって解釈し、抽象絵画に運動をもたらす、もしくは単純に形態・サウンド・色彩の幻想曲やアラベスクや旋回を創造することである」
 ルケッティとヴァッカリーニが最初に作った4本の実験作は17分のフィルム『抽象』Abstrações [Abstractions] にまとめられた。二人はフィルムのダイレクトペイント以外にも他のアヴァンギャルド技法を使用した。彼らの最も評価された作品『ファンタスマゴリカ』Fantasmagoricas(1961)はペインティングアニメーションである。二人はリベイランプレート映画実験センター Centro Experimental de Cinema de Ribeirão Preto を設立し、ここにはミラーも参加した。だが、このグループは財政難のためわずか2年で解散した。

 1962年、アミルトン・デ・ソウザ Hamilton de Souza(1929〜)はグループ・タン・タン Grupo Tan Tan の名前で友人数名と共に短編『ブラジルの歴史――輸出用』Uma historia do Brazil - tipo exportacão [A History of Brasil - made for export] を制作した。その後、ソウザは長編『アメリカの歴史』Historia sa America [History of America] に従事した。これは各30分のエピソードによる三部構成となる予定だったが、完成したのは第一部『発見』A descoberta [The Discovery] だけだった。

 TV出身のアルヴァロ・エンリケ・ゴンサルヴェス Alvaro Henriques Goncalves(1930〜)はわずか四十日間で『翼持つインディオの物語』Estòria do indio alado [The Story of the Winged Indian](1969)を撮り上げた。それから二年間、ゴンサルヴェスは毎晩一人で『クリスマスプレゼント』Presente de Natal [Christmas Gift] に取り組んだ。これはブラジル二番目の長編アニメーションで、カラー長編としては初となる作品である。この映画は1971年2月にゴンサルヴェスの故郷マナウスで公開された。ホアン Joáoとミリアム Miriam という二人の子供が登場するクリスマス物語で、スタイルと技術は極めて素朴である。

 イッペー・ナカシマ Yppê Nakashima(1927年日本〜)は1956年にブラジルへ移住し、TVシリーズの『パパ・パポ』Papa Papo や短編の『ヴィクトリア女王の伝説』Leyenda da Vitória-Régia [Legend of Victoria-Regia](1957)および『ゴリラ』O gorila [The Gorilla](1958)を制作した。1972年にはホアン・ルイス・アラウージョ João Luiz Araújo やシルヴィオ・レノルディ Sylvio Renoldi と共同でブラジル三番目の長編『ピコンゼの冒険』As aventuras de Piconzé [The Adventures of Piconze] を完成させた。ピコンゼ Piconzé は黒髪の少年で、亀のテイモソ Teimoso、オウムのロウロ・パポ Louro Papo、ブタのドン・シコ・レイタン Don Chico Leitão、金髪の少女マリア Maria らが冒険に同行する。ナカシマらはこの映画で「ブラジル的性質と感性を備えたキャラクター」を作り出すことで、アメリカの文化的帝国主義に対抗させたのだと主張している。イッペー・ナカシマは1970年代中盤に亡くなった。

 1967年に美術学校出身の若い作家グループがアニメーション研究センター CECA : Centro de Estudos do Cinema de Animação [Center for Animation Film Studies] を設立した。CECAはホアン・デ・オリヴェイラ João de Oliveira の『牧場の黒人少年』Negrinho do pastoreiro [Black Child of the Pastures] やルイ・デ・オリヴェイラ Rui de Oliveira の『猛獣使いの道化』O palhaço domador [The Animal-tamer Clown] や『ずる賢い小ウサギ』O coelhinho sabido [The Shrewd Little Rabbit] といった短編を制作した後に解消した。だが、その1年後に残存メンバーがフォトグラマ Fotogramas グループを設立して、制作以外にアヴァンギャルドアートの普及を目的に掲げた。彼ら若手作家たちはユーモア作家のゼリオ Zelio (数年前に『混沌の中に新たな希望の種子がある』No caos está contido o germe de uma nova esperança [In Chaos Lies the Germ of New Hope] を制作した経験があった)を中心として野心的プロジェクトのために結集し、いったんは長編の企画を提示した。計画は未完に終わったが、何本かの短編によってそのグループ名は専門家の注意を引いた。

 ホアン・デ・オリヴェイラは『黒豹』A pantera negra [The Black Panther] を、カルロス・アルベルト・パシェコ Carlos Alberto Pacheco とスティル Stil(エルネスト・スティルペン Ernesto Stilpen)は『現状』Status quo を制作した。スティルペンは『バトゥーキ』Batuque でその監督としての才能を証明し、この映画はルーマニアのママイア映画祭(1970年)でブラジルに栄冠をもたらした。同年、スティルペン(1944〜)は『都市』Urbis [City] と『都市の息子』O filho de urbis [Son of the City] で大都市における疎外のテーマを扱った。1971年には『街灯、もしくはあらゆるコオロギには娼婦がいる』Lampião, ou para cada grilo uma curtição [Street Lamp, or For Each Cricket There is a Whore] で(マスカルチャーに対立するものとしての)大衆文化に味方した。1974年にはアントーニオ・モレノと共同で『省察』Reflexos [Reflections] を制作した。スティルペンは間違いなく重要な作家であり、現代的なドローイングとテーマを用いて、観る者の心を動かす力と目覚ましい表現力を備えていた。

 1968年、ホルヘ・バストス Jorge Bastos は佳作『線』A linha [A Thread] を制作した。CMアニメーターのバストスはモンテイロ・ロバート Monteiro Lobato の小説『天国への旅』Journey to Heaven を長編映画化しようとしたが失敗に終わった。1975年、クロヴィス・ヴィエイラ Clovis Vieira は『至高の愛』Amor mor [Greatest Love] を作画・監督した。かなり難解な作風で、政府や支配階級の政策を攻撃する作品である。日刊紙「ブラジル新聞」Jornal do Brasil の資金援助で生まれたいくつかの作品にも言及しておきたい。1960年代末から1970年代初めにかけて制作されたこれらの作品には、ペドロ・アーレス Pedro Aares の『種』Semente [Seed]、ヴァルター・イロキ・オノ Walter Hiroqui Ono とエンニオ・ラモーリア・ポセボン Ennio Lamoglia Possebon の『生活と消費』Vida e consumo [Life and Consumption]、エンニオ・ラモーリア・ポセボンの『…点…』... pontos ... [Dots]、ロベルト・シロン Roberto Chiron の『無題』Sem titulo [Untitled] などがある。

 ホセ・ルーベンス・シケイラ José Rubens Siqueira はドライでエレガントな絵柄で、特に視覚的・グラフィック的アイディアに優れた作家である。彼は『企て』Emprise(1973)、『微笑』Sorrir [To Smile](1975)、『ハムレット』Hamlet(1977)を制作した。シケイラはアニメーション作家にとどまらず、舞台監督や実写映画監督でもあった。アントーニオ・モレノ Antônio Moreno(1949〜)は『省察』でスティルペンと協力する前に、『キツネと小鳥』A raposa e o passarinho [The Fox and the Little Bird](1972)と『省察あるいは疑問を巡る徘徊』Reflexões ou divagações sobre um punto duvidoso [Reflections or Ramblings on a Doubtful Point](1973)を制作した。モレノは同じ技法(彼はセルを使用せず、紙にドローイングした)で『イカロスと迷宮』Icaro e o labirinto [Icarus and the Labyrinth](1975)を撮影した。そのかわり、賞を受賞し、絶賛された『蝕』Eclipse(1984)はフィルムペインティングである。

 1980年代は活発な時期で、その始まりとなったのがカンヌ映画祭で脚光を浴びたマルコス・マガリャネス Marcos Magalhães の『ミャーオ』Meowである。1986年にマガリャネスは28人による共同作品『惑星地球』O planeta terra [The Planet Earth] をコーディネートした。これは国際平和年の記念作品である。これ以外で言及すべき作品としては、フラヴィオ・デル・カルロ Flávio Del Carlo の『真夜中の12時1分前』Um minuto para a meia noite [A Minute Before Midnight]、フランシスコ・リヴェラート Francisco Liverato の『ワン・アンド・アナザー』Um e outro [One and Another]、ファビオ・リニーニ Fabio Lignini(1965年リオ・デ・ジャネイロ〜)の『夜鷹が口を閉ざすとき』Quando os morcegos se calam [When Night Hawks Hold Their Tongues](1986)などがある。カオ・アンブルジェル Cao Hamburger (1962年サン・パウロ〜)とエリアナ・フォンセカ Eliana Fonseca (1961年サン・パウロ〜)は数多くの作品を発表し、共同作品の『フランケンシュタイン・パンク』Frankenstein Punk(1986)は世界的に知られている。

 最後に、この概論で特別な位置を占めているのがマウリーシオ・デ・ソウサ Maurício De Sousa である。1935年10月20日サンタ・イサベル(サン・パウロ)に生まれたこの漫画家・映画作家はまさにブラジルのディズニーである。ジャーナリストとして彼はまず多様な出版活動を行った後、1959年には日刊紙「フォーリャ・ダ・マーニャ(leaf of morning)」Folha da manhã に最初の漫画を掲載した。たちまち成功した彼は二、三年後には作画スタッフを指揮し、子供向け物語を休むことなく制作した。こうして生み出された百人を越えるキャラクターたちは、それぞれ別の「一族」に分類された。最も人気があったのは二人の少女モニカ Mônica とマガリ Magali で、デ・ソウサ自身の子供からヒントを得ている。それから田舎男のシコ・ベント Chiko Bento、子供の幽霊ペナディーニョ Penadinho、強大な水の悪魔カスカン Cascão、小さな恐竜オラシオ Horácio、有名なサッカー選手ペレ Pelé の子供版ペレジーニョ Pelezinho らがいる。以上のキャラクターの冒険は連載漫画としてブラジルだけでも新聞120紙に掲載され、コミックブックの販売は月150万部に達した。これに加えて、レコード、舞台、数え切れないマーチャンダイズ商品があり、海外、特にラテンアメリカとヨーロッパでも目覚ましい成功を収めた。

 アニメーション分野に関しては、1979年にマウリーシオ・デ・ソウサ・スタジオ Maurício De Sousa Studios で短編TVアニメーションの制作を開始した。このシリーズは4本のエピソードをナレーターがつなぐ構成になっている。25秒の極めて短い「ユーモア漫画」は、まさに新聞連載漫画のTV版といった趣がある。スタジオは1〜2分の短編も制作し、こちらは友情・協力・自然への愛情といった教育的テーマを扱った。

 サン・パウロに本社を持つこの会社の活動で最も重要なものが長編映画の制作であり、これにはすべてマウリーシオ・デ・ソウサが監督としてクレジットされている。『モニカと仲間達の冒険』As aventuras da turma da Mônica [Adventures of Monica and Her Friends](1982)は公開された初年だけで100万人近くの観客を動員した。続く長編作品も同じように好評を博した。それが『王女とロボット』A princesa e o robô [The Princess and the Robot](1983)、『モニカと仲間達の新しい冒険』As novas aventuras da turma da Mônica [New Adventures of Monica and Her Friends](1986)、『モニカとリオの人魚』Mônica e a sereia do Rio [Monica and the Mermaid of Rio](1987)、『モニカと仲間達、ブギーマンとその他の物語』A turma da Mônica em o bicho papão e outras histórias [Monica and Her Friends, the Bogeyman and Other Stories](1987)である。肝心なのは常に子どものための物語であることで、それはアニメーションは観て楽しめるものであるという考えにしっかりと結びついている。デ・ソウサの楽しく穏やかな世界は、宇宙戦争や戦闘ロボット、モンスター、危険、打ち勝つべき挑戦といったものからはほど遠い。彼の晴れやかな世界は楽観的テーマを中心として、そのうえ見せかけや感傷を避けることに成功している。

第17章以降未翻訳