カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第14章 東ヨーロッパ
 ほぼ全ての東欧諸国で映画は同じモデル、すなわち国家資金による映画という規範に従っていた。それは政府の指導方針に左右され、制作・配給・公開・劇場運営などあらゆる分野を包含するものだった。制作部門には通常1つか2つのアニメーター部門があり、彼らは子供向け作品の作家として任命された。地方分権化(ソ連の先例にならい)の方針に従い、プロダクションが首都ではなく、地方都市に設置されることもしばしばだった。

 国家映画の目的は全年齢層の市民が持つ文化的ニーズに応えることである。かくして、アニメーションは子供に人気があるという理由で、大抵は子供向けに制作された。だが、時代が下り、イデオロギーのコントロールが緩むにつれ、アニメーションがより広範な主題を取り扱うことや、それを可能にするスタイルの探求が許されるようになった。このようなことが起こったとき――その時期やあり方は国によりさまざまだが――作品は「実用」映画と「威信」映画に分けられた。後者は少数精鋭のアニメーション作家によって制作され、彼らは自分のインスピレーションを追求することが許されていた。そうであったにせよ、完璧な創作の自由は決して許可されず、いわゆる思想的危険性ゆえに公開されない映画も存在した。東欧におけるアニメーションの全体像を描き出すことは困難な課題である。なぜならこの多様な世界(1989年の革命が起こる前は西欧から一枚岩のブロックとして考えられていた)には多くの伝統や計画があるからである。

 東欧映画の一番顕著な傾向(かつてそうであったという意味で、常にではない)は民話や民間伝承を着想の源にしていることである。アヴァンギャルド運動とのつながりを完全に絶たれ(東欧で作られた映画作品は20世紀を特徴づける諸芸術運動とはいっさいの関係を持たない。それらは君臨する社会主義リアリズムによって忌避されたからである)、アニメーション作家たちは時代を超えた農民の歌や先祖以来の伝説・民話にその発想の源を探し求めた。この傾向はしばしばマンネリに陥ったが、そこから最上の結果を引き出した作家(例えばトルンカ)もいた。ポーランドのようにグラフィックに発想を求める場合もあれば、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアのようにイラストレーションの場合もあり、また風刺画やマンガの場合もあった。

 第二次大戦後間もなく、アニメーション制作は画一化と体制順応主義へと向かった。経済の発展、設備の向上、そして美学的イデオロギーに対するスターリン主義の影響が衰えるにともない、東欧諸国のアニメーションはそのバイタリティと革新性によって浮上した。

チェコスロヴァキア社会主義共和国と人形アニメーション

 チェコスロヴァキアにおけるアニメーションの創始者はカレル・ドダル Karel Dodalである。彼は数多くの広告映画を制作・演出すると共に、チェコ初の人形アニメーション『ランターンの秘密』The Lantern's Secret(1935)や実験映画『思想は光を求める』Ideas Search for Light(1936)を制作した。ドダルは第二次大戦の直前にアメリカへ移住し、戦後はアルゼンチンで活動した。

 ヘルミーナ・ティールロヴァー Hermina Tyrlova(1900〜)はドダルの妻にして協力者であった。1941年、戦争のただ中で彼女は人形アニメーション『われら蟻族(アリのフェルダ)』Ferda the Antを制作した。プトゥシコ Ptushkoの影響も見られるこの作品は、児童向けアニメーションにおける彼女の長く実り豊かなキャリアのスタートとなった。ティールロヴァーはプラハからズリーン(親ソ政権時代にはゴットヴァルドフという都市名となり、1990年に再びズリーンとなった)に移り、バータ Bataのスタジオに加わった。

 だが、未来の偉大なチェコアニメーションのルーツはプラハにあった。1935年、プラハのシュチェパンスカ通り33番地にAFIT(トリック映画アトリエ Atelier Filmovych Triku)が開設された。これは6人のスタッフしかいない小さなスタジオで、実写映画のためのトリック撮影、モデルアニメーション、特撮、タイトルアニメーションなどが制作された。占領期の1941年にはナチの高官であったヨーゼフ・プフィスター Joseph Pfisterがこのスタジオを所有し、より大きな制作会社に変えることを決定した。美術学校の卒業生が採用され、スタッフの数はまたたく間に増加した。アーティスティックディレクターは未経験のオーストリア人リヒャルト・ディレンツ Richard Dillenzに任された。ディレンツはグルック Gluckのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』Orfeo ed Euridice を原作とした長編映画に失敗し、スタジオを去った。ディレンツの後任が来る前に、ベルリンのホルスト・フォン・メーレンドルフ Horst von Mollendorffが新しいアーティスティックディレクターとなった。スタジオのアニメーターたちは魚の結婚式を扱った短編『サンゴ礁の結婚式』Hochzeit im Korallenmeerを制作した。この短編はフォン・メーレンドルフの演出で完成し、クレジットも彼の名義であった(この映画についてはもう二本の映画と共に言及済である)。1944年9月、このスタジオは戦争のために閉鎖され、終戦後に再開した。

 1945年6月、解放直後のプラハで一本の短編広告映画『感覚・魅力・素晴らしき眺め』Sensational Attractions, Marvelous Entertainmentが劇場公開された。これは独立系アニメーション作家が制作したものとしては最初の作品で、新生チェコスロヴァキア初のアニメーション映画である。このときから本格的な活動が始まった。イジー・トルンカ、エドゥアルト・ホフマン、ヨゼフ・ヴァーハ Josef Vacha、そして作曲家ヴァーツラフ・トロヤン Vaclav Trojanが彼らのデビュー作となる『おじいさんと砂糖大根』Zasadil dedek repu [Grandfather Planted the Beet](1945)の制作を開始した。

 チェコは激動期にあった。権力闘争に熱い議論が加わった。復興と楽観主義の時代であった。アニメーターたちのスタジオは陶酔状態にあった。イジー・トルンカは1946年にこう語った。「今や実験の時だ。我々はこの好機を逃してはならない!」 この時から作家たちはアニメーションの新たな表現手法を探求した。後年、主題面での順応主義が広がったときも、優れた作家たち(トルンカ、ゼマン、ティールロヴァー)は刺激的・前衛的な解法を探求し続けた。トルンカのしゃれた発案でプラハのスタジオはトリック・ブラザーズ Bratri v triku(「シャツを着た兄弟」の意味だが、同時にアニメーションに関連して「トリック」にもかけている)と命名された。ズデネク・ミレルが作ったロゴは三人の巻き毛の子供が縞のシャツを着ている。プラハのアニメーション作家の中で最も影響力の大きい人物はイジー・トルンカであり、彼の作品については後ほど詳述する。10年以上に渡り、トルンカはプラハで制作される人形アニメーションのほとんどを、彼が1946年から指揮するスタジオ(彼の死後、その名を冠した)で制作した。

 ドローイングアニメーションは別の道をたどった。多くの才能ある作家たちが制作に挑んだが、注目すべき収穫はイジー・ブルデチカ Jiri Brdeckaのデビュー作『飛行船と恋人』Vzducholod a laska [Love and the Dirigible](1948)とズデネク・ミレル Zdenek Milerの『太陽を盗んだ百万長者』O milionari, ktery ukradl slunce [The Millionaire who Stole the Sun](1948)のみである。前者はカミル・ロータク Kamil Lhotakの作画で、世紀末のイラストレーションから着想された。これは二人の恋人の物語で、若者が飛行船を建造し、ライバルから恋人を取り返すことでハッピーエンドとなる。後者はヴェネツィア映画祭受賞作で、金持ちが自分一人で享受するために太陽を盗み、世界は暗黒となるが、一人の子供によって人類が救われるという物語である。創意に富んだドローイングが特色で、ミレル(1921年2月21日クラドノ〜)最良の作品の一つである。

 1947年、スタニスラフ・ラタル Stanislav Latal(1919年5月7日サモティスキー〜)はオリジナルストーリーの『キツネと水さし』Liska a dzban [The Fox and the Pitcher](1949)を監督した。ヴァーツラフ・ベドジッヒ Vaclav Bedrich(1918年8月28日プリブラム〜)は児童向け作品のスペシャリストであり、多産なアニメーション作家である。エドゥアルト・ホフマン Eduard Hofman(1914年5月16日クラクフ〜1987年プラハ)も子供向け作品の専門家で、『天使の上着』Andelsky Kabat [The Angel's Cape](1948)や『ペーパー・ノクターン』Papirove nocturno [Paper Nocturne](1949)でその才能と趣味を示した。1950年にホフマンはアニメーションスタジオを統率するために招かれた。イジー・ブルデチカはこう回想する。

「ホフマンは偉大なオーガナイザーだった。戦後アニメーションを存続させた一人だった。彼はトルンカにイラストレーションや人形劇を離れることを決断させ、映画界に導いた一人でもあった。1950年から1956年にかけて傑出した所長としてアニメーションスタジオを運営し、その後は子供向け映画制作全般を指揮した」
 ホフマンの功績にもかかわらず、彼の時代は満足のいく物とは言えなかった。ヤン・ホジェイシ Jan Horejsiはこう記している。

「様々な外的要因もさることながら、最も重大な原因は――私見だが――アニメーション全般が衰退した結果だった。知性偏重が台頭し、過剰な描写そのものが目的化する傾向の中で、アニメーションの発展はますます限定されるようになったのだ」
 しかしながら、ホジェイシはこうも付け加えている。

「…1956年以後、制作は息吹を取り戻しはじめた。この遅滞の理由は…つまるところ社会的なものだった。徐々に開放されていく空気、創作における勇気…これらは戦後すべての芸術分野で再び現れてきた」
 ホフマンの締めくくりとして、彼がチェコスロヴァキア初の長編ドローイングアニメーションを監督したことを書き添えるべきであろう。これがフランス人ジャン・エッフェル Jean Effelの絵を基にした『天地創造』Jak je svet za rizen [The Creation of the World](1957)である。

 既に述べたとおり、ズリーンでは他にも活躍したアニメーターたちがいた。とりわけヘルミーナ・ティールロヴァー Hermina Tyrlovaは子供向けのアニメーションにその身を捧げた作家である。天与の趣味と感受性に恵まれた彼女は「明晰かつ透明、そしてデリケートなイマジネーションを備えた女性作家であり、人々に忘れられた生物や物が織りなす繊細微妙な物語を紡ぎ出す術を心得ていた」 彼女は伝統的民話を翻案するより現代の物語を好み、観客を見慣れぬ素材で刺激し続けた。伝統的な人形作品を制作する代わりに、毛糸玉や銀紙、木片、ハンカチ、タオル、おもちゃといったものを彼女は選択した。新素材を使用することで、創作の停滞を回避し、かつ身の回りの日用品に秘められた生命を子供に示すという二重の目標を達成することが出来た。彼女の傑作としては、反ナチの古典『おもちゃの反乱』Vzpoura hracek [The Revolt of the Toys](1946)と『子守歌』Uklebarka [The Lullaby](1947)――二本とも実写の人物とオブジェクトアニメーションを組み合わせた作品――『九羽のヒヨコ』Devet kuratek [The Nine Chicks](1952)や『結んだハンカチ』Uzel na kapesniku [The Knotted Handkerchief](1958、織物アニメーションを使用)、『機関車くん』Vlacek kolejacek [Little Coal Train](1959)、『青いエプロン』Modra zasternka [The Blue Apron](1965)、『ペイント』Malovanky [Paintings](1970)などがある。

カレル・ゼマン Karel Zeman

 カレル・ゼマン Karel Zemanは1910年11月3日オストローメルに生まれ、1989年4月5日ゴットヴァルドフ=ズリーンで亡くなった。1943年に『クリスマスの夢』The Christmas Dreamでデビューした後、プロコウク Prokouk氏が登場する5本の短編ギャグ作品で子どもたちの人気を博した。1948年には叙情的作品『水玉の幻想』Inspirace [Inspiration](1948)とカレル・ハヴリチェク・ボロフスキー Karel Havlicek Borovskyの小説を原作とした風刺中編『王様の耳はロバの耳』Kral Lavra [King Lavra](1948)を監督した。ミダス王に似たストーリーを使った『王様の耳はロバの耳』はゼマンの自信に満ちた演出手腕と人形創作技術を示している。その後、ゼマンは『鳥の島の財宝』Poklad ptaciho ostrova [The Treasure of Bird Island](1952)で実写映画制作に転向した。『前世紀探検』Cesta do prevaku [A Journey into Prehistory](1954)は時の河を遡る4人の生徒が古代の生物を発見するという物語である(この作品で唯一のアニメーション素材は恐竜のモデルアニメーションで、それ以外はすべて実写である)。

 1958年には2年を費やした作品『悪魔の発明』Vynalez zkazy [The Diabolic Invention](1958)を発表した。原作はジュール・ヴェルヌ Jules Verneの小説『悪魔の発明』Face au Drapeau [Face the Flag]〔訳注 原題は「国旗にむかって」の意〕で、ドローイングアニメーションやモデルアニメーションが実写の人物と共に登場する。批評家からはその技術的成果とヴェルヌの持つ19世紀的雰囲気をよく伝える美術デザインが賞賛された。

 アンドレ・バザン Andre Bazinはこう記している。「この映画の欠点は技術とインスピレーションのアンバランスにある。だが、数え切れない美しいシークエンスやゆかいな冒険に満ちている」

 ヴィットーリオ・スピナッゾーラ Vittorio Spinazzolaはこう書いている。「中心的主題の鋭い現代性に気付いた批評家はほとんどいなかった。これは冷淡な科学の失敗、そして自らの成果の使用目的が人類に益なのか害なのかを理解できない学者の悲劇的結末を取り扱っている」 チェコの批評家は「メリエスは死んだのではない。彼は今やゼマンという名のチェコスロヴァキア人なのだ」と誇らしげに宣言した。

 1961年、ゼマンは『ほら吹き男爵の冒険』Baron Prasil [Baron Munchhausen](1961)で再び成功した。これはゴットフリート・ビュルガー Gottfried Burgerの小説とギュスターヴ・ドレ Gustave Doreが描いたその挿絵に基づいている。

「今回はいまだかつて実写映画で見られなかった方法でゼマンはミュンヒハウゼンやビュルガー、ドレの世界に入っていく。プラシル Prasil(プラシルとはミュンヒハウゼンのチェコ名である)はペガサスの引く船で月からコンスタンティノープルに旅をする。彼が入るトルコ皇帝の王宮ではドレの銅版画がその驚くべき魔法を甦らせている。王宮からビアンカ姫 Princess Biancaと駆け落ちし、海戦が起こり、ミュンヒハウゼンは輝かしい勝利を収める。男爵は怪鳥の爪に捕らえられ、無理矢理空中飛行し、タツノオトシゴにまたがって帰還する。大砲に乗って空を飛ぶ…。さらに二本の作品『破壊のクロニクル』Blaznova chronika [A Jester's Tale]や『盗まれた飛行船』Ukradena Vzducholod [The Stolen Airship]では、この経験に新基軸を加えている」
 『彗星に乗って』Na komete [On the comet](1970)に引き続き、ゼマンは『シンドバッドの冒険』Druha cesta namornika Sindibada [Sinbad the Sailor](1972)や『クラバート』Krabat Carodejuv ucen [The Sorcerer's Apprentice](1977)、『ホンジークとマジェンカ』Pohadka o Honzikovi a Marence [The Tale of John and Mary](1979)、『カレル・ゼマンと子供たち』Karel Zeman for Children(1980)を制作した。常に驚異と技術の間を漂いながら、その繊細でわくわくさせる映画は冒険映画という限界を超え、陽気なバイタリティと進歩への信頼――ヴェルヌやメリエスに通じる――を示している。

イジー・トルンカ Jiri Trnka

「イジー・トルンカは私の師匠である。とはいえ、トルンカは人に何かを教えるにはあまりに謙虚だったので、彼に直接教わったことはない。だが、その作品の質は、それに追いつき、追い越したいという気持を我々全員に起こさせた。トルンカはアニメーションが芸術の一形態であることを示してくれた初めての人物だった。彼は芸術映画を作り、それは当時としては革命的な何かだった。トルンカは我々に規律を教えてくれた。勤勉で自己に厳しく、スタッフにも同じことを要求した。優しかったが、同時に厳しい人物でもあった。彼は妥協を許さなかった。彼は我々に真剣であれと勇気づけてくれた」
 これはイジー・ブルデチカがトルンカを語った言葉である。トルンカこそはチェコスロヴァキアのアニメーションに栄光をもたらした人物である。

 トルンカは1912年2月24日プルゼニに生まれた。父は鍛冶屋、母は仕立て屋だった。小学校の美術教師であったヨゼフ・スクーパ Josef Skupa(彼は最後の偉大な人形遣いの一人だった)に勇気づけられ、少年トルンカは美術を学び、スクーパの弟子となった。トルンカは木製人形の彫刻技術を彼から学んだ。

 チェコスロヴァキアでなぜ人形アニメーションが発展したのか。この問いに対して批評家イジー・ストルスカ Jiri Struskaはこう回答している。

「その原因は恐らくルネサンスやバロック民衆演劇の伝統にある…あるいは人形の伝統にあるのだろう」
 マリア・ベネソヴァ Maria Benesovaはこう説明している。

「何世紀も前から、人形劇は俳優が演じる演劇の代替物だった。オーストリア=ハンガリー帝国の支配下で、人形劇はドイツ文化の強制に対する抵抗を扇動した。1840年代に少なくとも79個の人形劇団がボヘミアを巡回していた。作曲家スメタナ Smetanaは人形芝居の優美な序曲を二つ作曲し、画家アレス Alesはその場面や人形を絵に描き、小説家イラーセク Jirasekは自作のおとぎ話『ヨハネス氏』Mr. Johannesを人形遣いたちに捧げている」
 第一次大戦後、チェコの人形は人形専門の劇場や新設の劇団、ラジオ番組などのおかげでより一層の大衆性を獲得した。さまざまな演劇「ジャンル」の中で、子供の作品からヴォードヴィル、古典劇、喜劇、政治風刺に到るまで、木製人形の俳優が取り扱わないものはなかった。他のどの国にもまして、チェコスロヴァキアでこの伝統はごく自然に映画へ組み込まれた。人形劇と人形アニメーションの間にはいかなる断絶も認められない。移行はスムーズに起こり、新たな表現手段にともなう最小限の変更を受けただけで、演技法や背景デザインについては同一だった。

 画家や風刺画家として既に名をなしていたトルンカはブックイラストレーションや演劇にも惹かれていた。彼は前衛ディレクター、イジー・フレイカ Jir Frejkaのもとで舞台デザイナーとして働いたが、人形に対する昔からの愛情を忘れられず、「木の劇場」を設立した。1930年代半ばにカレル・ドダルがトルンカ制作の人形フルヴィーネク Hurvinekを動かしたという単発的な例外を除き、トルンカが映画に取り組んだのは戦後になってからのことである。トルンカは『おじいさんの砂糖大根』Grandfather Planted a Beetを題材として提示し、受理された。これがトルンカのドローイングアニメーション第一作となったが、紛れもないその才能を示しているとはいえ、後年に人形アニメーションで達成したレベルにはまだほど遠い。ほとんど実験映画ともいえる『贈り物』Darek [The Gift](1946)は、当時としては珍しいシュルレアリスム的ユーモアを備えている。『動物たちと山賊』Zuiratka a petrovsti [The Animals and the Brigands](1946)は古い民話の翻案で、活気に溢れた作品である。『バネ男とSS』Perak a SS [The Springer and the SS Men](1946)はウェルメイドな反ナチ映画で、煙突掃除夫が二人のSSを愚弄し、足にはいた二本の強力なバネで彼らから逃れる物語である。以上の作品は全て1946年の制作である。だが、「中間工程(アニメーター、彩色)が多過ぎるために、原画のオリジナリティが弱められてしまっている」とトルンカは考えた。そこで彼は人形をアニメートする計画を立てた。これが1946年秋のことである。

トルンカはこう述べている。

「ポヤールと共に、私が昔使った木製人形の一体(バレリーナ)をアニメートした。動き自体は良好だったが、あまりに抽象的な感じがした。効果としては良いが、何も意味するものがなかった。こうして我々が理解したのは、人形アニメーションには具体的なシチュエーションやストーリーが必要だということだった」
 『チェコの四季』Spalicek [The Czech Year](1947)はこの実験後に誕生した長編映画で、ひとつのストーリー、というより複数のストーリーを語っている。ミクラシュ・アレス Mikulas Alesの挿絵入り本を原作として、チェコの年間行事を取り上げた一種のドキュメンタリー映画である。この作品はトルンカが後年発展することになる詩法の萌芽をすでに示している。それは自然への愛情であり、繊細だが力強い叙情性であり、民衆文化に対する深い感受性である。トルンカの長編第二作が『皇帝の鶯』Cisaruv Slavik [The Emperor's Nightingale](1948)で、原作はアンデルセン童話である。主題的には前作の対極にあり、中国宮廷という舞台、装置や登場人物の容貌が持つ貴族趣味と洗練は、頑強で素朴なボヘミア農民達とは対照的である。だが、その主題は事実上同じもので、ここではアイロニーによってアプローチされている。シンプルな生活や自然と対比されることで、宮廷の環境、内気な幼帝の機械仕掛けの玩具、典雅なヘアスタイルなどが滑稽なものに転じるのである。そもそもこの主題はアンデルセン(トルンカは彼に親近感を抱いていた)の原作がすでに提示していたものであった。

 1950年にトルンカは三番目の長編である『バヤヤ』Bajaja [Prince Bayaya](1950)を制作した。これは一人の農民が騎士となり、竜と戦い、王女の愛を勝ち取る物語である。『チェコの古代伝説』Stare povesti ceske [Old Czech Legends](1952)では第一作から七年を経て再び民衆的主題に立ち戻った。映画の構造そのものは旧作と同様であり、古代スラヴィア神話から採られた様々なエピソードが提示され、全体として一代絵巻をなしている。『チェコの古代伝説』は多くの批評家からトルンカの最高傑作と見なされ、英雄や崇高といった主題が人形という控えめな手段によっていかに扱うことができるかを示す好例である。

 1954年から1955年にトルンカは野心的な企てに取り組んだ。それがヤロスラフ・ハシェク Jaroslav Hasekの『勇敢な兵士シュヴェイク』Dobry Vojak Svejk [The Good Soldier Schweik](1955)を映画化した三部作である。ハシェクのこの小説はしばしば映画化やTV化されたが、多くの文学作品の例に漏れず、映像的な描写に向いているとは言いがたい。だが、トルンカ作品として最上の類とはいかないまでも、ハシェクのエッセンスを保つことには成功している。この映画はキャラクター的にはオリジナル版のヨゼフ・ラーダ Josef Ladaの挿絵がベースとなっている。

 トルンカ最後の長編はシェイクスピア原作の『夏の夜の夢』Sen noci svatojanske [Midsummer Night's Dream](1959)である。彼はこの作品で自らの空想力を解放し、豪華な衣装を創り出した。だが、この映画が卓越しているのは一般民衆の描写、例えばパック Puckのいたずらの犠牲となるアセンズの愚かな農民達(ボトム Bottom一座)である。批評家ディリス・パウエル Dilys Powellは「サンデー・タイムズ」Sunday Times紙(1959年10月11日付)でこう書いている。「トルンカの職人技は卓越しており、しかも楽しませてくれる。ボトムは素晴らしく、スナッグ Snugはこれ以上ないというくらい愉快である…私は人形がこれほどの力を持つとは想像だにしていなかった」

 ウーゴ・カシラギ Ugo Casiraghiは欠点を指摘する。

「トルンカは華麗で気品のあるパントマイムの中で羽を伸ばし、そこには多彩な振り付け表現がある。だが、様式の混淆(新古典主義からロココに至る)や行き過ぎた洗練、そしてつまるところ過度のマニエリスムをも示している」
 この後、トルンカは短編しか制作しなかった。「人形映画に可能なことはすべてやろうと考えた。昔話からパロディや古代英雄叙事詩にいたるまで、あらゆるジャンルを試してみた。私に残されたジャンルはただ一つ。それは世俗的ジャンルだ」

 多産で才能に溢れていたトルンカだったが、『情熱』Vasen [The Passion](1962)でペシミスティックな、そして最後の時期に突入した。これは現代の若者を主人公とした辛辣な物語で、彼は人間的理想に対してまったく無関心であり、その唯一の関心は自分のバイクである。『電子頭脳おばあさん』Kyberneticka babicka [The Cybernetic Grandmother](1962)では一人の少女が祖母の慈愛を離れ、ロボットの老婆のもとへ行く。ロボットは明らかに拡大するテクノロジーに対する反論である。『手』Ruka [The Hand](1965)においてトルンカの憂鬱は頂点に達した。一人の植木鉢職人が巨大な手から記念像を作るよう命じられる。職人は拒絶し、手は飴と鞭に転じる。黄金の檻に囚われた職人は初めは渋々従い、それから逃亡して自分が植木鉢を作ってあげた花のもとへ戻る。だが、権力の象徴である手は男に死をもたらし、荘厳な葬式を彼に施すのである。『手』はトルンカ最後の作品であり、怒りを込めて創造の自由を擁護している。1966年、トルンカは健康上の理由から活動停止を余儀なくされた。友人の回想によれば、彼の晩年は辛いものだった。心臓病が原因で制作もかなわず、この中止状態が体調を更に悪化させた。「私の手は動くのに、私の心は空っぽだ」とトルンカは死の前年に記している。トルンカは1969年12月30日、57才で亡くなった。

 カシラギはこう書いている。

「トルンカは二種類の傾向を示している。一つは自国の民衆的伝統を取り扱うときに古典様式として出現する正統的――リアリズム的――傾向である。もう一つはより創造的で洗練された――「デカダンス」的と言っても良い――傾向である。後者はトルンカが外国の高尚で貴族主義的な伝説を取り扱うときに現れる」
 国民詩人としてのトルンカ像はまさにその農民詩人としての本質とつながっている。トルンカはこう語る。「私は田舎に属している。都会では気の休まる覚えがしない」 トルンカは農民(彼らは常に大地を糧としている)の伝統に根ざしており、自然への愛情や民衆の風習と変わらぬ魂に対する信頼を映画に込めている。これらは彼の横溢するユーモア感覚や人生への信頼に霊感を与えている。偉大な語り手であったトルンカはボヘミアの物語作家や小説家達の連綿と続く系譜を代表する究極の人物である。彼の仕事は多産な小説家に例えることができる。それは歴史小説から騎士道小説、児童文学(短編『草原の唄』Arie prerie [Song of the Prairie](1949))、実験小説(ドローイング作品『黄金の魚』O zlate rybce [The Golden Fish](1951)、影絵作品『二つの霜』Dva mrazici [2 Frosts](1954))にまで到っている。

 トルンカ作品には「洗練された」側面が存在する。確かにそれは良く消化された教養に基づいているが、表面的で批判すべきものである。人形アニメーションの詩法を発展させること、彼らの演技法や構成法を創造することにこそトルンカの真骨頂がある。トルンカ以前、人形アニメーションは表情やフェイスアニメーションの問題にぶつかっていた。ファイルボックスの中は人形の顔に取り付ける口、目、まつげのパーツに溢れていた。トルンカは人形の顔が演劇の仮面と同じ機能を持つことを発見した。それは仮面と同じく、固定され、神聖なものであるべきなのだ。トルンカの人形は控えめな表現と厳かな動きによって特徴づけられ、人形の関節を弛めてドローイングアニメーションのように動かそうとした作家たちを芸術的に乗り越えた。トルンカの人形は動作よりむしろ構図と照明によって表現力を持つ。心理的要素がキャラクターに生気を与え、ドラマが彼らの演技を生み出している。トルンカは演劇から演技へ、外的な表現から内的な劇的体験への移行を示している。ブジェティスラフ・ポヤールはこう書いている。

「トルンカが自分の役者達の頭を彩色しているとき、彼がいつもあいまいに目を描いていることに気づきました。役者の頭を回したり、照明を変えるだけで、微笑みや哀しみ、夢見がちといった表情を身にまとうのです。これは人形がその外観以上のものを隠し持ち、その木の心臓がよりいっそうのものを宿しているという印象を与えます」
 これに対して、主題が彼の表現能力に対して挑戦的であるとき、トルンカはより技巧的になり、教養がトルンカの自発性を圧迫する。これが『夏の夜の夢』のケースであり、初期作品(特に『チェコの古代伝説』)のいくつかのシーンでも同様に形式的完璧主義と「リアル」な動きやキャラクターの気取った表現によって損なわれている部分がある。トルンカで最も感動的な作品が、その簡潔さによって際立っている『手』であることは偶然ではない。

ユーゴスラヴィア:ザグレブ派第一期

 ユーゴスラヴィアにアニメーションをもたらした功労者はセルギエ・タガッツ Sergije Tagatzである。彼はソ連で学んだ後、ザグレブに帰国した。タガッツは産業映画、特に広告分野で活躍した。ザグレブではベルリン出身のマール兄弟 Maar brothersがドイツのユダヤ人迫害を逃れて広告会社を設立した。これは1940年まで存続し、年二百本の短編制作量を誇った。

 戦争中に作家・設備・作品は散逸し、占領軍は一切の映画制作を禁止した。1945年にユーゴスラヴィアが自由を取り戻したとき、アニメーションは跡形もなくなっていた。他の社会主義諸国とは異なり、ユーゴスラヴィアでは国家が制作を促進したりサポートすることはなかった(当初からユーゴスラヴィアの社会主義はワルシャワ条約機構加盟国のものとは異なっていた)。そのかわり、作品を制作したのはザグレブを本拠地とする数人のファンたちだった。その一人が風刺雑誌「ケレンプー」Kerempuhの編集者、ファディル・ハジッチ Fadil Hadzicで、ユーゴスラヴィアが他の東欧ブロックから独立していることを賞賛するため、風刺短編を制作しようと考えた。この作品が『大集会』Veliki miting [The Big Meeting]で(制作は1949年だが、ユーゴ側の資料によると1951年となっている)、後に頭角を現すことになるボリヴォイ・ドヴニコヴィッチ Borivoj Dovnikovicやワルター・ネウゲバウアー Walter Neugebauer、ノルベルト・ネウゲバウアー Norbert Neugebauerらが参加していた。

 ハジッチは政府の援助を受けてドゥガ・フィルム Duga Filmを設立した。ここには100人以上のスタッフがおり、4つの制作チームに分かれていた。このときすでにクロアチアアニメーション最高の作家たちが登場していた。ドゥシャン・ヴコティッチ(第一期ザグレブ派の先導者)が第二グループを指揮し、引き続きマルクス、ボウレク、コラール、グルギッチ、クリストルらがやってきた。知識も技術も持たない若き作家たちは、ディズニーやチェコスロヴァキアをかわるがわる模倣し、試行錯誤で進んでいった。制作が二、三年間続いた後、連邦政府は出資の対象をアニメーションから、もっと緊急性の高い学校や病院に切り替えた。

 建築家ニコラ・コステラッチ Nikola Kostelacはアニメーションに熱中し、短編教育映画制作会社ゾラ・フィルム Zora Filmの助けを得て、なんとか最小限の活動を保持した。そのころまでにユーゴスラヴィアは独自の市場経済を発展させ、宣伝広告の必要性があきらかとなっていた。活動を停止したドゥガ・フィルムの創立メンバーは広告分野に転身し、コステラッチのスタッフと合流して独立グループを形成した。1955年頃に彼らはリミテッド・アニメーション技法を開発した。これは時間や労働、経費を節約すると同時に、「新しい」スタイルを可能にした。この風潮はアメリカのUPAがその数年前に追求したスタイルの系列につながるものである。

 これが目覚ましい成功を収め、クライアントが殺到した。このグループの配給元であるザグレブ・フィルム Zagreb Filmは、政府の再編命令によりただちに制作グループ自体に編入された。1956年、ザグレブ・フィルムは小さな白馬をロゴマークとし、その旗の元でヴコティッチ、マルクス、コラール、ボウレクは彼らが得意とする娯楽映画の分野へと出陣した。ザグレブ・フィルムが発表した最初の短編が『ゆかいなロボット』Nestasni robot [The Playful Robot](1956)である。監督はドゥシャン・ヴコティッチ Dusan Vukoticで、脚本はアンドレ・ルシチッチ Andre Lusicic、作画はアレクサンダル・マルクス Aleksandar Marksとボリス・コラール Boris Kolar、美術デザインはズラトコ・ボウレク Zlatko Bourek、アニメーションはヴィエコスラフ・コスタニシェク Vjekoslav Kostanisekとヴラディミル・ユトリシャ Vladimir Jutrisaによるものである。このフィルムはプーラ映画祭で上映され受賞した。これがザグレブ派の初お目見えとなった。

 1957年にヴァトロスラフ・ミミツァ Vatroslav Mimica(1923年オミシュ〜)がアニメーション部門に加わった。作家・批評家・ジャーナリストであったミミツァは1952年と1955年に二本の長編実写映画を監督していたが、金も栄光も得ることができなかった。ザグレブグループは絵が描けないミミツァを脚本家として迎え入れた。ミミツァはただちに監督職に転じ、それ以来彼の貢献と個性がグループ全体に影響を及ぼした。1958年は重要な年である。すなわち、ミミツァの『孤独』Samac [Alone](1958)がヴェネツィア映画祭で名誉ある賞を受賞し、カンヌ映画祭ではザグレブ・フィルムのアニメーション部門全体が批評家および観客から賞賛された。

 ヴラド・クリストル Vlado Kristl(1923年ザグレブ〜)は第一世代のアニメーション作家の一人で、その後南米に移住していた。彼は新聞でかつての同僚たちの成功を知り、帰国したいと望んだ。だが、その間にザグレブ・フィルムはアニメーション部門をがんじがらめに縛っていた。

 当時、アニメーション部門は上層部からアーティスティック・ディレクターを押しつけられていた。クリストルは『大宝石泥棒』Kradja dragulja [The Great Jewel Robbery](1959)に手腕をふるったが、フィルムを見るとアーティスティック・ディレクターが手柄を独り占めしていた。バルザック Balzacの恐怖小説を原作とした『あら皮』Zagrenska koza [La peau de chagrin](1960)で、クリストルはアールデコのリバイバルを先取りし、緊迫した雰囲気を創造したが、彼の名前は共同監督としてヴルバニッチ Vrbanicの隣に並べられた。そしてついにクリストルは『ドン・キホーテ』Don Kihot [Don Quixote](1961)を制作した。これは前衛的グラフィックが使用され、難解かつ知的であるが、同時に極めて詩的な作品である。

 1962年にクリストルは『最高司令官』General i resni clovek [The General-in-Chief](1962)を制作した。これは風刺的な短編実写映画で、クリストルは検閲のごたごたに巻き込まれた。不愉快な思いをした彼はドイツに移り、そこで何本かの実写短編と二本の長編映画『ダム』Der Damm [The Dam](1965)及び『手紙』Der Brief [The Letter](1965)を制作し、その中に俳優としても出演した。クリストルは再びアニメーションに転向し、1967年に『ユートピア』Die Utopen [Utopia]と『豊かな土地』Das Land des Uberflusses [The Land of Plenty]、1982年に『ドイツ映画の若き裏切り者は眠らない』Die Verrater des jungen Deutschen Films schlafen nicht [The Traitors of the Young German Films Don't Sleep]を制作した。

 プレス・キャンペーンが声高に表現の自由を要求して、「アーティスティック・ディレクション」のシステムは廃止された。1960年代の初頭に決して背いてはならぬ一つの原則が決められた。すなわち、アニメーション映画はアートフィルムでなければならないというものである。

 ザグレブ派は通常二つの時期に分けられている。第一期は1957年から1964年までで、ヴコティッチやミミツァ、クリストルらが代表作家である。「ザグレブ・スタイル」はリミテッド・アニメーションとアヴァンギャルドなグラフィックや描写技法(コラージュやアッサンブラージュ等)への顕著な志向を特徴としている。そして、何よりもシナリオに対して細心の注意が払われている。ユーゴスラヴィアの作家たちはもはや風刺的キャラクターのささいなストーリーを取り扱うのではなく、苦悩や伝達不能性、そして悪を主題とした。笑いが解放を呼び起こす作品が存在していたのも事実だが、ザグレブ作品は残酷な生に対する嘆きの声へと発展し、これがザグレブ派のトレードマークとなった。個々の芸術的個性や思想は異なるものの、絶えず役割やアイディアを交換することで共通の発想を生み出した。ザグレブでは新規プロジェクトに対して役割交換やチームの新規編成が習わしだった。監督が同僚のためにアーティストやデザイナーとなったり、その逆も行われた。ニコラ・コステラッチ Nikola Kostelac(1920年ザグレブ〜)はこのような特質を持った監督の第一号である。彼の『オープニング・ナイト』Preimijera [Opening Night](1957)と『草地にて』Na livadi [In the Meadow](1957)はアメリカやカナダの先進作に負っている部分もあるが、それでも流行のスタイルを巧みに統合している。

 ミミツァは『孤独』(1958)でデビューした後、『探偵の帰宅』Inspektor se vraca kuci [The Inspector Comes Home](1959)、『日々の記録』Mala kronika [Everyday Chronicle](1962)、ユーレ・カステラーナ Jure Kastelanaの詩を原作とした『チフス』Tifusari [Typhus](1963)を制作した。1963年以後はアニメーションを離れ、最初の恋人であった実写映画に専念し、ペトロヴィッチ Petrovicやマカヴィエフ Makavejevと共に、ユーゴスラヴィア・ヌーヴェル・ヴァーグで最も重要な作家の一人となった。

 ヴコティッチ(1927年ビレカ〜)は1959年に『機関銃のコンサート(銀行ギャング)』Koncert za mazinsku pusky [Concerto for Sub-Machine Gun](1959)や『月の上の雌牛』Krava na mjesecu [Cow on the Moon](1959)を監督した。『代用品』Surogat [Substitute](1961)は彼の一番よく知られた作品で、アニメーションの歴史において最上の作品の一つであり、ヴコティッチにオスカーをもたらした。批評家のランコ・ムニティッチ Ranko Muniticはこう書いている。

「ヴコティッチはカリカチュアから発想したシンプルな絵柄を選択し、これが淡彩の白い背景上でアラベスクのように動く。さらに画面のコンセプトを決定する要素として色彩を用いており、その高い装飾性は際だっている。これに対してミミツァの方はアニメーションの絵画的側面に関心があった。彼は中間調の画面や単純なドローイングより、豊かで複雑な画面構成の方を好んだ。彼の背景空間は奥行きによって区切られた平行する色彩層で構成され、登場人物を曲がりくねった迷宮に閉じこめるのだ」
「すでに1959年の段階で、このような素材の使用法は表現上の解答としてコラージュへと導いた。ミミツァのキャラクター(不条理性の象徴的体現)はヴコティッチのカリカチュアのような自然さや表情の豊かさを持っていない。彼らの硬直した外面は現代文明の網に囚われた人間の深い絶望を表す詩的メタファーである。ミミツァは色彩の表現的価値を駆使している。その世界は我らの時代の悲劇的葛藤に対する鋭敏な自覚に特徴づけられている。人はテクノロジーの急速なリズムに順応することを強要され、その代償に個人の誠実さを犠牲にするのだ」
ポーランド

 ポーランドのアニメーションは第二次大戦以前にさかのぼる。1917年にエッセイスト・ジャーナリストのフェリックス・クチコフスキー Feliks Kuczkowski(1884〜1970)が『椅子の遊戯』The Chairs' Flirtationと『望遠鏡には二つの端がある』The Telescope Has Two Endsを制作した。マルチン・ギジツキー Marcin Gizyckiはこう指摘している。「これらは友人の画家ルチャン・コビエルスキー Lucjan Kobierskiが描いた何枚かの絵から制作された。一作目は38枚の絵で構成されており、つまりは「真の」アニメーションではないということである」

 1918年、クチコフスキーはオブジェクトアニメーションの作品(タイトルは失われてしまっている)を制作した。この作品は彼が「ヴィジュアル・フィルム」と命名した表現(カメラの前で行う一種のインプロヴィゼーション)を実践したものである。1920年代には粘土を用いて二作目の「ヴィジュアル・フィルム」である『オーケストラ指揮者』The Orchestra Conductorを制作した。もう一人のパイオニアがスタニスワフ・ドブジンスキー Stanislaw Dobrzynskiで、1918年から1924年にかけて数本のフィルムを制作した。次の時期でもっとも活動的なポーランド人アニメーション作家がヴォディミエルジ・コヴァンコ Wlodimierz Kowankoで、クラクフやカトヴィツェ、ワルシャワで活躍した。彼の最良の作品は民話を原作とした『トヴァルドフスキー氏』Mr. Twardowski(1934)と『ネズミのケーキ探検』The Mice's Expedition for a Cakeである。コヴァンコのスタイルにはアメリカの影響が感じられる。ルヴーフ出身のヤン・ヤロシュ Jan Jaroszは1920年代中盤に活動を開始し、1931年に『プックの冒険』Puk's Adventuresで注目された。その後は広告映画で手描きサウンドトラックの実験を行った。ポズナンでは1930年代にイアリチェフスキー Iaryczewskiという人物が活躍し、1934年に『女性スターと男性スター』Female Stars and Male Starsを発表した。

 ステファン・テメルソン Stephan Themersonとフランチスカ・テメルソン Franciszka Themersonはその実験作品(コラージュ、オブジェクトアニメーション、ダイレクトペインティング)でポーランドアニメーション史に特別な位置を占めている。『薬局』Pharmacy(1930)や『ヨーロッパ』Europe(1931〜32)、『眼、耳』The Eye, the Ear(1945、イギリスで制作)などがそれである。

 人形アニメーションの分野では、『黄金の壺』The Golden Pot(1935)を制作したカロル・マルチャーク Karol Marczak(パリにおけるラディスラフ・スタレヴィッチ Ladislas Starewichの元アシスタント)や1938年に『オモチャの兵隊』Toy Soldiers(アニメーションは一部)を制作したマクシミリアン・エメル Maksymilian Emmerとイェルジ・マリニャック Jerzy Maliniakらの名を挙げておく。戦前と戦後のポーランドアニメーションをつなぐただ一本の鎖が人形アニメーション作家のゼノン・ヴァシレフスキー Zenon Wasilewski(1903〜66)である。詩人・風刺漫画家のヴァシレフスキーは1930年代半ばにコヴァンコの作品で作画をしながらアニメーションの基礎を学んだ。1938年には人形で数本の広告映画を作り、その後、同じ技法で竜のヴァヴェル Wawelが登場する物語(『クラクフの丘』Cracow's hill)を制作した。この作品は完成直前に1939年9月のドイツ軍侵攻が起こり、サウンドがつかぬままに終わった。ヴァシレフスキーはソ連でポーランド人レジスタンスの代表として戦時中を過ごした後、祖国に戻り、ウーチに居を構えた。そこで制作・配給会社(後に重要な制作会社セマフォール SeMaForとなる)を設立した。1947年にヴァシレフスキーは以前制作した物語の改訂版を『クラクス王の時代』In King Krakus' Timeと題して公開した。それから彼は死ぬまで絵画と映画の双方に自分の時間を費やした。彼は子供向けの『二人の小さなドロシー』The Two Little Dorothies(1956)や『靴屋のドラテフカ』Dratewka the Shoemaker(1958)、大人向けの『悪魔にご用心!』Caution! The Devil(1958)や『腹話術猫通りの犯罪』The Crime on the Street of the Ventriloquist Cat(1961)といった作品を発表した。

 ポーランドは世界大戦によって荒廃し、主要都市は激しく破壊され、首都は破壊しつくされた。被害のより小さかったウーチとカトヴィツェの二都市がアニメーションの最初の中心地となった。カトヴィツェではスラスク Slaskという名のグループが国立映画機関フィルム・ポルスキー Film Polskiからの発注でドローイングアニメーションを制作した。その後、ビエルスコ=ビャワのスタジオがドローイングアニメーション専門に活躍し、ウーチのスタジオが人形アニメーションの分野に特化した。後者の部門で突出していたのがヴロディミエルジ・ハウペ Wlodimierz Haupeとハリナ・ビエリンスカ Halina Bielinskaで、彼らはポーランド初の長編アニメーション『ヤノシック』Janosik(1954)を制作し、その四年後にはマッチ箱をアニメートした愉快な『見張りの交代』Changing of the Guardを作った。ドローイングアニメーションの分野ではヴワディスワフ・ネフレベツキ Wladislaw Nehrebeckiの子供向け作品が唯一言及に値する。

 1956年以降、ポーランドでもアートフィルム志向が次第に解禁となった。この新たな傾向の旗手がヤン・レニツァ Jan Lenicaとヴァレリアン・ボロフチク(ボロヴズィック) Walerian Borowczykである。彼らの初期作品は共同制作で、『昔々…』Byl sobie raz... [Once Upon a Time ...](1957)、『家』Dom [The House](1958)、『報いられた愛』Nagrodzone uczucie [Love Rewarded](1957)などがある。委託映画の超短編『ストリップ』Striptease(1957)および『若さの印』Sztandar mlodych [Banner of Youth](1957)の二作をこれに加えても良いだろう。

 レニツァ(1928年ポズナン〜)は音楽や建築、美術を学んだ後にグラフィックへ転身し、この分野でただちに名声を獲得した。ボロフチク(1923年10月21日クヴィルチ〜)もレニツァと同じような教育を受けた後、映画に移行した。ボロフチクのデビュー(短編実写映画)は1950年代初頭にさかのぼる。二人とも独立心の強い個性の持ち主だったため、彼らの協力関係は1958年に破局を迎えた。その後、レニツァとボロフチクは二、三ヶ月の間を置いて西欧に移住した。二人の軋轢は解消されぬままだったが、もはや自己表現するために互いを必要とはしていなかった。1957年の彼らの作品群はポーランドで歴史を切り開いた。これ以降、不条理感覚やシュルレアリスム、不安に満ちた雰囲気が「ポーランド派」の得意とする主題となったからである。

ハンガリー

 ハンガリーアニメーション最初のパイオニアがイシュトヴァーン・カトー Istvan Katoで、1914年に切り紙映画『ジルブ・エデン』Zsirb Odon(1914)でデビューした。彼はその長いキャリア(1957年に引退)を通じて百本余りのアニメーション作品を制作し、それは娯楽から広告、教育、ニュース映画までありとあらゆる分野にわたっていた。カトーのアニメーション制作は暗中模索の中でスタートした。ブダペストの映画館の屋上で、彼は自然光を使用し、メトロノームの助けを借りて露光時間を計ったのである。サーンドル・ペテフィ Sandor Petofiの詩を翻案した『騎士ヤノス』Janos the Knight(1916)と影絵映画『ロミオとジュリエット』Romeo and Juliet(1931)は称賛に値する。

 もう一人忘れてならないアニメーション作家がイシュトヴァーン・ウォーカー Istvan Walkerで、彼は民話の『水車屋と娘とロバ』The Miller, His Daughter and the Donkey(1934)をアニメ化した。その一方で、才能の離散が戦前ハンガリーを襲った。海外に職を求めた作家の中にはジェルジ・パール・マルツィンチャーク Gyorgy Pal Marczincsak(ジョージ・パル George Pal)、ヤーノス・ハラース Janos Halasz(ジョン・ハラス John Halas)、イムレ・ハイドゥ Imre Hajdu(ジャン・イマージュ Jean Image)、エティエンヌ・ライク Etienne Raik(アレクセイエフの協力者にして、主として広告分野における優れた人形アニメーター)らがいた。ハラスとジュラ・マッカーシは共にバウハウス派であるサーンドル・ヴォルトニーク Sandor Bortnyikの門下生である。

 戦前は広告映画専業だったジュラ・マッカーシ Gyula Macskassy(1912〜1972)は戦後に新生ハンガリーアニメーションの「父」となった人物である。1951年、マッカーシは新世代初の短編となる『おんどりのダイヤモンド』The Rooster's Diamondを監督した。1959年に彼とジェルジ・ヴァルナイ Gyorgy Varnai(1921年ブダペスト〜)が『鉛筆と消しゴム』The Pencil and the Eraserを発表するまでは、マッカーシの映画も東欧諸国の作品制作(民話を題材とした子供向け作品)をモデルとしていた。1960年のアヌシーで上映されたこの作品は新しい簡潔なコンセプトを備え、もはや子供だけに向けたものではなかった。同年、二人はもう一本の傑作『決闘』The Duelを制作した。これは知的かつ愉快なやり方で主戦論者を非難した作品である。

 『白い水玉のボール』The Ball with White Dots(1961)は革新的・確信的スタイルを備えた作品で、一人の少女がボールと一緒に驚くべき冒険を夢に見るという物語である。このフィルムでヴェネツィア映画祭の金獅子賞を受賞したのがティボル・チェルマーク Tibor Csermak(1927年カポシュヴァール〜1965年ブダペスト)で、1957年に監督を始めたばかりという短いキャリアで早くも頂点に上りつめた。

ルーマニア

 1920年代にアウレル・ペトレスク Aurel Petrescu(1897〜1948)がルーマニアアニメーションのパイオニアとなった。彼はたった一人でおよそ40本の作品を制作し、中では『月のパカーラ』Pacala in the Moon(1920)と『恋するパカーラ』Pacala in Love(1924)が有名である。ペトレスクはジャーナリスト、グラフィックアーティスト、カリカチュア作家、そしてルーマニア初の映画評論家で(1915年から映画欄を執筆)、亜流や弟子は一人もいなかった。彼の作品は二、三本の例外を除き戦争で失われ、その早過ぎた死は戦後の新しい世代が彼の経験から学ぶ機会を奪い去った。

 もう一人の多才にして常識の枠を超えた天才作家がデザイナー、画家、作家、演出教授のマリン・イオルダ Marin Iordaである。『ハプレア』Haplea(1927)はタイトルにもなっている民話のキャラクターが主人公で、イオルダ唯一のアニメーション作品である。戦後、共産主義政権は国家による映画制作を推進した。真にプロフェッショナルなアニメーションが始まるのは1950年になってからのことである。

イオン・ポペスク=ゴポと「ピル・フィルム」 Ion Popescu-Gopo

 イオン・ポペスク=ゴポ Ion Popescu-Gopo(1923年4月30日ブカレスト〜1989年12月3日)は1951年に『ミツバチとハト』The Bee and the Pigeonでデビューした。これは国がスポンサーとなった最初の映画であり、ブカレストスタジオで制作された。ブルガリアの制作本数は次第に増加し、1951年には1本だったものが、1956年には10本に達した。このころまではポペスク=ゴポと同僚も伝統スタイルを踏襲しており、独創性を発揮して目立つということもなかった。1956年に突然転機が訪れ、ポペスク=ゴポは「古典的」遺産を放棄して、革新的短編『ショート・ストーリー』Scurta istorie [Short History](1956)を制作した。主人公は小柄で頭が長い裸の原始人である。彼はあらゆる歴史の発展段階を経て、ついには宇宙へ到達し、新たな生命の誕生を発見する。哲学的で巧みに奇想を凝らしたフィルムであり、緻密な編集と簡潔な線を特徴としている。この作品はルーマニア国内および国外で認められた。これに続くのが『七芸』7 arte [Seven Arts](1958)、『ホモ・サピエンス』Homo Sapiens(1960)、『もしもし…』Allo, allo ... [Hallo, Hallo](1962)で、同じ主人公が登場し、同じように喜劇的・格言的なシリーズである。その一方でポペスク=ゴポは言語の問題に関心を持ち、短編こそがその統合的特質ゆえに優れているとの理論を構築した。彼はこの命題を「ピル・フィルム」pil-filmと名付け、電光のような(しばしば15秒以下しかない)アニメーション・スケッチのシリーズとして具現化してみせた。これは1966年のママイア映画祭で毎晩のオープニングを飾った。

 1967年、ポペスク=ゴポはピル・フィルムの第二弾となるアンソロジーを公開し、『キス』Kisses(1969)や『砂時計』Hourglass(1972)がこれに続いた。後期作品としては実写長編映画や様々な素材(ピン、髪の毛)を用いた実験映画があるが、観客の受けはあまり芳しくなかった。ポペスク=ゴポの最良の時期は1956年から1962年にかけて、あの裸の小男を題材とした四部作を制作していた時期である。才気溢れる年代記作家の彼は、自分のバリエーションを発展させるための主題として、人類の歴史や芸術の誕生、コミュニケーションの歴史を使用したのである。

 だが、ポペスク=ゴポが技巧に走って大筋を見失うとき、彼のいささか衒学的・玄人的な調子が現れる。そのユーモアは時に場違いでほとんど凡庸であり、初期作品で見せた破壊的で不条理な感覚をもはや保持していない。その代わり、『キス』ではポペスク=ゴポが1956年に見せた初期スタイルへの回帰を示している(あの主人公こそ登場しないが)。搾取や欺瞞に関するその寓話はむき出しで本質にまで還元され、ある種の教訓性を帯びているが、狙いとしては確かに正しい。

 アニメーションを映画的な警句の場とするポペスク=ゴポの制作理論は確かに多産であった。1967年のモントリオール万博で1分以下のフィルムというテーマのコンクールが開催された。この出来事はあらゆる規格化――長さに関しても――を放棄しようとする要求を明らかにし、ポペスク=ゴポの革命がタイミング良く起こったことを裏付けた。そして急速に進化するアニメーションの世界を実感させるものだった。

イワーノフ=ワノのソ連

 第二次世界大戦後の15年間、ソ連のアニメーションは主に子供向け映画の制作に従事し、セルに描く古典的手法や丸っこいアメリカ式スタイルを好んだ。だが、このスタイルは動きとしては地味で、スラップスティックアニメーションに典型的なデフォルメや変形からはかけ離れていた。簡単に言えば、それはディズニーの長編映画から学んだものであった。研究と実験は(初期のアヴァンギャルド時代の記憶と共に)脇に追いやられた。人形アニメーションや切り紙アニメーションは1953年にソユーズムリトフィルムSojuzmultfilmに専門部門がスタートしてから新たな力を再開した。

 1960年代にはおそるおそるではあったがスタイルや主題の刷新が見られ、それはこの膨大な民族と国家を抱える連邦におけるロシア人や他民族の民俗的描写において特に表れている。だが、ソ連のアニメーションが(ソ連映画全般と同様に)創造性と知的挑戦の欠如や慣例を捨て去るには多くの歳月が必要であった。同じ共産主義国家のチェコスロヴァキアやポーランドで先に起こったように、ソ連がエリート主義で個人の創造的表現を可能にする自発的な作家を送り出すには時を待たねばならなかった。ロシアの実写映画がグリーゴリ・チュフライ Grigori Chukhraiの作品で花開いたのとは異なり、ソ連のアニメーションはフルシチョフの「雪融け」と時を同じくして到来した繁栄の時代に加わることはなかった。技術やストーリーテリングやドラマツルギーに関してソヴィエトのアニメーターたちが持っていた優れた知識にもかかわらず、アニメーションは良き娯楽や教育手段の役目を担う公益事業と考えられていた(イワーノフ=ワノ自身もこの立場を支持した)。伝統的な短編の他に長編や中編も制作された。主な作家としてはイワン・イワーノフ=ワノ Ivan Ivanov-Vanoやブルームベルグ姉妹、レフ・アタマーノフ、ミハイル・ツェハノーフスキーらの中堅作家がいた。

 イワーノフ=ワノは文化行政面で最大の影響力を持った人物であり、絶大な人気を博した『せむしの仔馬(イワンと仔馬)』The Humpbacked Little Horse(1947)によって人民の人気監督となった。エルショフ Ershovの題目や他の民話を原作としたこの作品は、愚か者のイワヌースカ Ivanuskaや彼のせむしの馬、美しい王女、彼女との結婚を望む邪な王などの物語を語る。イワヌースカは仔馬の助けを借りて、冷水とミルクと熱湯による三つの釜の試練に合格し、王子となる。彼は王女と結ばれ、邪悪な王の方は熱湯の中で煮られたままとなる。このフィルムは筋立てこそ古典的だが、アニメーションは良くできており、暖かみのある的確な語り口に支えられている。

 この後も折衷主義的なイワーノフ=ワノは数え切れないフィルムを制作し、それらは良いアニメーションや多様な造形プランに関する手堅い感覚を示している。彼の長編には以下のようなものがある。『死んだ王女と勇敢な一家』The Story of a Dead Princess and a Brave Family(1951)はプーシキン Pushkinによる『白雪姫』Snow Whiteのバリエーションである。『森は生きている』The Twelve Months(1956)は気まぐれな女王が元日にカゴ一杯のマツユキソウを欲しがり、森で出会った12月の精たちに罰せられる話である。『金の鍵(ブラチーノの冒険)』The Adventures of a Puppet(1959)はコロディ Collodi作『ピノキオ』Pinocchioの別バージョンで、ドミートリー・バビチェンコ Dmitri Babichenkoとの共同制作である。『左利き』The Left Hander(1964、『ロボット蚤』The Mechanical Fleaのタイトルでも知られている)ではレシコフ Leshkovによる19世紀の物語にスポットを当て、画家アルカージー・チューリン Arkadij Tiurinによる“ルボーク”(民衆版画のこと。フランスのエピナル版画に同じ)を使って物語っている。ナポレオンの風刺版画から玩具に至るまでの多彩な比喩的暗示は様々な要素が混在しながら首尾一貫した展開に貢献している。1969年にイワーノフ=ワノは『四季』The Seasons of the Yearを制作した。これはチャイコフスキーの『トロイカと秋』Troika and Fallという曲に基づいており、刺繍や伝統的織物からイメージを引用している。イワーノフ=ワノは1987年5月に亡くなった。

 ブルームベルグ Brumberg姉妹も長編アニメーションに従事した。『なくした証書』The Missing Diploma(1945)は一人のコサックの夢物語で、小さな悪魔が証書を盗んで皇后に与えるという内容である。『クリスマス・イブ』Christmas Eve(1951)の主人公は一羽のツグミで、彼は自分の気まぐれな恋人のために美しい靴を一足欲しくなり、その靴を王宮で手に入れるという話である。『月旅行』Flight to the Moon(1953)は消えたロケットの乗組員を助けるため、少年が惑星間旅行に参加する物語である。『願いがかなう』Wishes Come True(1957)では一人の木こりがあらゆる願い事をかなえる贈り物を受け取り、美しいお姫さまと結婚する。だが、ブルームベルグ姉妹の中心を占める作品は『サーカスの少女』The Girl at the Circus(1950)や『過ちの島』Mistake Island(1955)、『船乗りステパ』Stepa the Sailor(1955)といった劣悪な学習習慣や怠惰を告発する教育的作品であった。これらお説教好きの作品の中で、少なくとも『落書き犯人』Fedya Zaitsev(1948)は、その作画の見事さとリズミカルで生き生きとしたストーリーテリングの点で取り上げるに値する。『私は小人を描いた』I Drew the Little Manでも知られるこの作品は、一人の少年が学校の壁に小人を落書きし、ぬれぎぬを着せられたクラスメイトが非難されるのを黙って見ていたが、ついには良心の呵責からクラス全員の前で告白するという話である。

 レフ・アタマーノフ Lev Atamanovはイワン・イワーノフ=ワノにならい、主として文学作品の翻案に従事した。アタマーノフは感傷主義に傾きがちで、細心な作家ではあったが、独創性や演出力の面でイワーノフ=ワノには劣っていた。長編『紅い花』The Reddish Flower(1952)はアクサコフ Aksakov原作で、遠い国から帰国途中の商人が、最愛の妻のためにプレゼントをさがしているうちに暴君に囚われ、ついに妻が助けにやってくるという話である。アタマーノフの最良作として知られているものとしては、『黄金のかもしか』The Golden Antelope(1954、原作はインド説話)と『雪の女王』The Snow Queen(1957、アンデルセン原作)がある。前者ではひづめから金貨を生み出すかもしかを貪欲な王が搾取しようとする。後者は一人の少年が雪の女王に連れ去られて氷の宮殿に囚われるが、最後には親友ゲルダ Gerdaの愛によって解放されるという物語である。芸術的弱点はあるものの、これらの映画は大衆や映画祭の審査員には愛され、いくつかの賞を受賞している。1960年代と1970年代にもアタマーノフは子供向け作品の制作を続けたが、それと同時により野心的なもくろみに取り組んだ。例を挙げれば、『船の上のバレリーナ』The Ballerina on the Boat(1969、芸術の純粋美への賞賛)や『束』The Bundle(1966)、『ベンチ』The Bench(1977)、『我々には可能だ』We Can(1970、政治的・社会的事件を題材とした)などである。アタマーノフは1981年2月12日にモスクワで没した。

 ミハイル・ツェハノーフスキー Mikhail Tsekhanovskyはかつての野心を断念し、子供向け映画に専念した。1954年には何度目になるのかわからない民話の翻案『蛙になった王女様』The Frog Princessを制作した。『ジャングルの少女』The Girl in the Jungle(1956)などの短編や中編をいくつか手がけた後、彼はハンス・クリスチャン・アンデルセン原作の『野の白鳥』The Wild Swansを制作した。1964年、彼は最後の作品となるリメイク版『郵便』Post Officeを制作した。

 ツェハノーフスキーと同様、ムスティスラフ・パシチェンコ Mstislav Paschenko(1901年4月1日ヤロスラヴリ〜1958年10月22日モスクワ)もサンクトペテルブルグ(当時のレニングラード)を拠点に作家として活躍した。彼はその地にあるレンフィルム Lenfilmのスタジオで制作し、『ジャブシャ』Dzhabsha(1938)は重要な作品である。戦後パシチェンコは同僚ツェハノーフスキーと共にモスクワへ移った。作品としては『クリスマスツリーが灯る時』When the Christmas Trees will be Lit(1950)や『森の旅人』The Traveler of the Forest(1951)、映画祭で受賞した『変わったマッチ』An Unusual Match(1955)などがある。最後の作品はボリス・ディオスキン Boris Dioskin(1914年8月19日クルスク〜)との共同監督である。ディオスキンは主に他監督との共同制作にたずさわってきた人物であり、自分自身の監督作は時たまあるだけであった。1960年代になって彼は国際的な成功を収めた『ゴール! ゴール!』Goal! Goal!(1964)を経て一本立ちした。

 ヴラディーミル・デグティアレフ Vladimir Degtiarev(1916年1月18日モスクワ〜1974年9月6日)は1953年に『誇り高いパック』The Proud Pakでデビューした。彼は戦後初めて成功を収めた人形アニメーション『台無し』Spoilingと『ミャオと鳴いたの誰?』Who Said Meow?で人気を確立した。

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