カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第11章 アメリカ
第11章 アメリカ

産業

 1945年から1960年にかけての15年間はアメリカにとって矛盾した時代だった。戦争の勝利は未曽有の経済発展・旧世界の凋落とあいまってアメリカに世界のリーダーとしての地位をもたらした。全世界に向けて、アメリカは富と寛大・オプティミズムという像を描いてみせた。このイメージはアメリカの経済援助(特にヨーロッパに対する)によって強化された。だが、このような華々しさにも過ちがないわけではなかった。ソ連に対する冷戦下に隠れていた心理的不安と恐怖はマッカーシーの赤狩りという形で現実化した。映画は純朴だが疲れを知らない質実なアメリカ人の肖像を、新たなキャラクター、新たな俳優に置き換え(クリフトからブランド、ディーン、パーキンスへ)、彼らは不安と神経症を訴える人物だった。青少年犯罪は増加し、アメリカの中流階級の大半は次第に社会的・文化的な分裂を意識し始めた。ビートニクのコミュニティが興り、自立したカウンターカルチャーを提示した。消費時代がTVの普及でブレークし、何十年も続いてきた思想と習慣を変えてしまった。

 映画を危機に陥れたのはまさにTVの力だった。1946年に放映を開始してから、TV受像機の売り上げは劇的に増加した。すぐさまネットワークがカラー放送を始めた。この新種のホームエンターテインメントは莫大な数の視聴者を劇場から奪った。そして1948年には一つの判決が長年の訴訟を終わらせた。最高裁は反トラスト法に従って(カリフォルニアのメジャー映画会社すべてを含む)アメリカ合衆国対パラマウントの裁判でその裁定を支持した。以来、製作・配給・公開の3部門は分離しなければならなくなった。この評決が映画会社の観客に対する独占に終止符を打ち、娯楽産業を特徴づけていたライフスタイルや労働方法を終わらせた。簡単に言えば、これがハリウッド伝説の終わりだった。

 喜劇映画には進展があった。キャプラ、ルビッチ、スティーヴンスやそのエピゴーネンが姿を消し、喜劇は職人たちの作品やビリー・ワイルダーの辛辣な映画を通じて生き延びた。映画界の外では辛辣さが支配していた。それが1950年代末期に登場したシック・コメディアンである。彼らはインテリで、政治ギャグや罵倒の言葉に熟達しており、学生や「病んだ」知識人の観客を楽しませた。彼らの十八番はアメリカの不満で、その舞台は戦後、雨後のタケノコの如く乱立したナイトクラブであった。このグループにはレニー・ブルース、モート・サール、ディック・グレゴリーらがおり、長年にわたり影響を与えつづけ、ウッディ・アレンのような作家たちを生み出した。反対に古いスラップスティックコメディはその馬鹿馬鹿しさと派手さゆえに、幼稚で子供じみた時代の遺物と片づけられてしまった。ジェリー・ルイスやボブ・ホープは部分的に過去に耳を傾けたが、孤立した現象になった。

 音楽の世界では、ジョン・ケージのような実験作家を別として、ビバップが全盛だった。これは黒人ゲットーから生まれたジャズの一つで、オルタナティヴカルチャーの表現だった。ジャズにおけるチャーリー・パーカーにあたるのが、小説におけるジャック・ケルアック、詩におけるアレン・ギンズバーグ、絵画におけるジャクソン・ポロックらである。彼らは排除された世界・周縁的世界の伝令であり、過激で反抗的なスタイルを提示するスポークスマンだった。彼らの多くは直ちに商業主義に飲み込まれていった(特にポロックとその一派のアクション・ペインティング)。だが、当初彼らが望んだのはアメリカ文化の主流から自らを遠ざけることだった。

 このような背景にアニメーションはかなり重要な役割を果たした。それでもなお、ハリウッドのアニメーションは映画産業全般と運命を共にした。映画界で一番か細い小枝だったアニメーションは枯れるのも一番速かった。短編アニメはずっと埋め草として使われていたが、コストが高騰するとほぼ例外なく消滅した。アニメスタジオは次第に縮小、または閉鎖された。若者がスタッフに新採用されるのは皆無に等しく、独創的なアイディアが生まれることは少数だった(例外の一つがUPAである)。

 ディズニーは真っ先に短編の製作を減らして長編映画や後には子供向けの実写映画、自然の脅威の記録映画、大成功したアミューズメントパークに集中した。アヴァンギャルドのグループはメアリー・エレン・ビュートMary Ellen Buteとオスカー・フィッシンガーOskar Fischingerの精神的遺産を集め、新たに抽象アニメの豊かな制作活動がわきおこった。これはオフ・ハリウッドの映画作家によるスタイルや表現の探求を完璧に補足した。

 伝統的な丸っこい絵柄(「Oスタイル」)はもはやコミック作家や人気漫画家、新聞漫画家たちの絵とは比べるべくもなかった。アニメーターはサーバーやスタインバーグSteinberg等の漫画家のスタイルや辛辣なニューヨークの雑誌「マッド」Madの知的ユーモアを畏敬の念を抱きながら見ていた。黄金時代のスタッフ数人はなお作家活動を続け、この時期にピークを迎えてさえいたが(チャック・ジョーンズがその例である)、1940年代と1950年代はUPAという小さな革命のものだったことは疑いを得ない。

UPA

 1944年、デイヴ・ヒルバーマンDave Hilberman、ザッカリー(ザック)・シュワルツZachary (Zack) Schwartz、スティーヴン・ボサストウStephen Bosustowら元ディズニースタッフ3人は1941年のストライキで会社を去り、共同でフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトのための短編政治映画を製作した。これが『ヘル・ベント・フォー・エレクション』Hell Bent for Electionである。彼らは自分たちの会社に「ユナイテッド・プロダクションズ・オヴ・アメリカ」UPAというやや大袈裟な名をつけた。

 最初はノンフィクションの製作に集中した。その中には教育映画やプロパガンダ映画も含まれる。これらの作品ですでに後年を特徴づける革新的研究の跡が見える。これは新しく雇われたスタッフ——美術設定やレイアウトのエキスパートたち(ジョン・ハブリーJohn Hubley、ポール・ジュリアンPaul Julian、ジュールス・エンゲルJules Engel、ビル・ハーツBill Hurtz、ハーブ・クリンHerb Klynn)や演出家(ボブ・キャノンBob Cannon)、脚本家(フィル・イーストマンPhil Eastman)——に与るところが大きい。

 1946年、ヒルバーマンとシュワルツは事業から手を引き、スティーヴン・ボサストウだけがエグゼクティヴ・プロデューサーとして残った。ボサストウの指導下、UPAは名声を馳せた。ボサストウは複雑で矛盾に満ちた人物だった。ブリティッシュ・コロンビア州のヴィクトリア出身で(1911年11月6日)、カリフォルニアに移住して数年後にMGMでデビューした。優秀な脚本家だった彼はウォルター・ランツのところで働いた後、1934年にディズニーに入社した。ディズニーではミッキーマウスのシリーズや『白雪姫』『バンビ』『ファンタジア』等の映画に加わった。

 UPAのリーダーとして、彼は良き組織のまとめ役を演じ、協力者の才能や文化、あふれるエネルギーを尊重した。時には世間知らずでへまをすることもあった。基本的にはシャイな男で、自分の判断の過ちやか弱さを後悔して自責の念にかられることもしばしばだった。社内で貴重な役割を演じたにもかかわらず、謙遜する彼は自分の才能を卑下してみせた。彼は監督に何も教えることはせず、彼らが知的欲求を表現したいままにさせた。アニメーションの流れ作業を取り除き、アニメーターがその時々に小さなグループを作るようにサポートした。ボサストウは1981年7月4日ロス・アンジェルスで没した。

 この新会社の資産はコロンビア(スクリーン・ジェムズとの契約はいつでも廃棄できる状態だった)がUPAの短編を配給する契約を結んでから好転した。『ロビン・フッドラム』Robin Hoodlum(1948)や『マジック・フルーク』The Magic Fluke(1949)にはスクリーン・ジェムズがすぐ過去に使っていたのと同じキャラクターが登場する(キツネとカラス)。これらの作品は見せ場の作り方が上手い。独創的で考え抜かれたギャグ、様式化した絵を特徴とし、ボサストウの以前のアニメよりも激しくない。(後年、ディズニーの作家が彼らの長編『ロビン・フッド』Robin Hoodを作ったとき、『ロビン・フッドラム』のことを覚えていた。

 UPAで一番知られたキャラになった、新世代のミッキーマウスとも言うべき近眼のマグーMister Magooは、すでに1949年の『ラグタイム・ベア』Ragtime Bearでデビューしている。マグーは存在そのものが新しかった。彼は動物ではなく人間であり、子供ではなく大人だった。さらにその心理的・身体的特徴はハリウッドの典型的魅力からは程遠かった。マグーはしわがれ声で禿でむさ苦しい頑固爺であり、目立つ点と言えば、間抜けと極端な近眼だけだった。彼の冒険は10年にわたりシリーズ化されたが、UPAが製作したのはそのうち1本だけである(UPAは単発の短編の方を好んだ)。第1作の監督はジョン・ハブリーで、後にはピート・バーネスPete Burnessに任せられた。

 UPAの名声は上がり、その新しい表現スタイルは1951年と1952年に2本の短編を生み出した。ボブ・キャノンの『ジェラルド・マクボインボイン』Gerald McBoing Boingとジョン・ハブリーの『ルーティ・トゥート・トゥート』Rooty Toot Tootである。前者はオスカーに輝き、言葉がしゃべれないかわりに「ボイン・ボイン」のようなノイズを発する子供が主人公である。後者は伝統的バラッド「フランキーとジョニー」Frankie and Johnnyの翻案である。絵柄は意図的に平板化され、長方形や角張った形をしている。前世代の絶え間ない動きとは対照的に、アニメーションはリミテッドである。反リアリズムの背景美術はしばしば2,3点の略図や広い範囲のべた塗りにまで限定されている。総てはひとつの視覚文化に支配されている。それは——明らかに、そして考え抜かれた上で——マティス、ピカソ、クレーらに影響を受けている。もはや漫画のアニメ化でも絵の俳優が演じる映画でもなく、アートディレクターの作品である。そこではドローイングとペインティングが主役となる。

 1953年にはもう2本重要なフィルムが公開された。ビル・ハーツBill Hurtzの『庭の一角獣』A Unicorn in the Gardenはジェームズ・サーバーJames Thurberのほろ苦い物語を翻案したもので、サーバー自身の絵柄を使っている。よくまとまったクレバーな作品で、一般公開されたアメリカンカートゥーンの中でもっとも見る人を選ぶ作品である。

 『告げ口心臓』The Tell-Tale Heartは非ギャグカートゥーンという点で革新的だと考えられた。エドガー・アラン・ポーの小説が原作で、物語の悪夢的性質を強調し、ホラーアニメの最初の例となった。スタッフは監督がテッド・パーメリーTed Parmelee、シナリオがビル・スコットBill Scott、美術デザインがポール・ジュリアンで、ジュリアンは1964年にオグデンの詩『首吊り男』The Hangmanをレス・ゴールドマン・プロダクションLes Goldman productionで映画化した人物である。

 ボブ・キャノンBobe Cannonは類希れな感受性を持った監督で(クレジットにはいつもロバートRobertで出ている)アニメーションの可能性を最大限理解していた。彼の作品には『マデリーン』Madeline(1952。主題はルートヴィヒ・ベメルマンスLudwig Bemelmansより)やジェラルド・マクボイン・ボインと同じく環境不適応な夢見る子供が登場する『クリストファー・クランペット』Christopher Crumpet(1953)がある。

 1950年代の中盤までにUPAの短編は次第に輝きを失う。最良のスタッフが様々な理由で会社を去り(ハブリーの場合はブラックリストに載ったこと)、活動は縮小されマグーシリーズのリピートやTVの「ジェラルド・マクボイン・ボイン・ショー」(CBSで1956年から1958年まで放映)、そしてCM製作だけになった。UPAに関わった人の中にはオーレリアス・バターリアAurelius Battaglia、ソーントン(T)・ヒーThornton (T) Hee(元ディズニー)、ビル・メレンデスBill Melendez、アブストラクトアニメのジョン・ホイットニーJohn Whitney、若き日のアーネスト・ピントフErnest Pintoff、ジミー・テル・ムラカミJimmy Teru Murakami、ジョージ・ダニングGeorge Dunning、ジーン・ダイチGene Deitchらがいた。1958年、ニューヨークとロンドン支社が閉鎖された。1年後、マグーの映画『近眼のマグー・千一夜物語』1001 Arabian Nightsが失敗し、UPAは危機に瀕した。ボサストウは1961年に退社し、自分の名を冠した教育映画製作会社で活動した。その後、UPAは平凡なTVシリーズを製作した。

 『ジェラルド・マクボイン・ボイン』と『近眼のマグー』は過去のパイ投げや追っかけの伝統からは隔絶したギャグ精神の先駆者である。これらの新しいキャラクターは中流階級の洗練された小喜劇に知的ユーモアで味付けしたものである。映画において、同時代の漫画におけるチャールズ・シュルツCharles Schulzの『ピーナツ』Peanutsに相当し、落ち着きがなく神経質でさえある感じやすさを表現している。それにもかかわらず、これらの映画はいつも娯楽のために作られた。作品リストにはさまざまなフィルムが並んではいるが、UPAは常にマーケットに目を配りつづけ、アーティストよりアートディレクターによって作られた映画を好んだ。

 ハブリーたちが提示したドライで尖った「Iスタイル」はたちまち普及し、ディズニーの模倣スタイルを捨てるときが来たことを示した。これは適切に使われることもあったが、間違っている場合もしばしばだった。事実、UPAの作品ではユーモアのタイプと絵のタイプ、アニメーションのタイプが正確な対応を維持している。リミテッドアニメーションを作業節約のために用いて、古いスラップスティックコメディの発想をそのままに維持できると考えたものもいたが、彼らはリミテッドアニメーションとはスタイル上の解決法であり、経済上の手段ではないことを証明する結果となった。リミテッドアニメーションは時代を超えた射程を持っていたと考えるべきである。ジョン・ハブリーはキャラクターの輪郭線をはみ出して色を置き、線と色彩を一体化した造型要素として使用した。これにより、ストーリー法則を犠牲にして絵画的法則に完璧に応えられるようにしたとき、彼はある特定の表現方法への権利を主張したのである。簡単に言えば、ジャクソン・ポロックがそれ以前に偶然性の絵画で始めたことをハブリーは行ったのだ。

 誇張ではなく、アートアニメーションは(アメリカ国内だけでけなく他の国においても)UPAと共に誕生したと考えることが可能である。楕円を基本とした「Iスタイル」とストーリーの解決法は至る所で模倣された(当初懐疑的だったディズニーでさえ1954年の『プカドン交響楽』Toot, Whistle, Plunk and Boomで行なった)。だがそれだけでなく、このスタイルを選んだ背後にある思想にも多数の追随者がいた。これ以後、娯楽アニメはコメディの王国を去り、グラフィカル・ピクトリアルな探求や多様なスタイル・テーマ・ジャンルの基礎となった。簡単に言えば、幅広い表現の自由度をもつメディアになったのである。観客がこの新しい表現に必ずしも適合しなかったことも付け加えねばなるまい。伝統を愛する者たちは様式化に対して貧弱な絵だと、また分割されたアニメーションに対して能力が無いのだと非難した。後にはフルアニメも再評価され、今日では二つの流派がなお大衆の関心を競っている。

チャック・ジョーンズとワーナー Chuck Jones

 ワーナーは1946年にその最良の監督たちを失った。この時、ボブ・クランペットBob Clampettはスクリーン・ジェムズに去り、TV人形劇に専念した(クランペットのTV劇「タイム・フォー・ビーニー」Time for Beanyは1949年に始まった)。フリッツ・フリーレングFriz Frelengとチャック・ジョーンズChuck Jonesはワーナーに残り、才能的には劣るロバート・マッキンソンRobert McKimsonが加わった。フリーレングは傑作を作りつづけた。だが、作家として成長し、ワーナーを著しく革新したのはチャック・ジョーンズであり、ワーナースタジオは数々の変化に最も良く耐えたプロダクションとなった。

 1912年9月21日ワシントン州生まれたチャールズ・マーティン・ジョーンズCharles Martin Jonesは幼少時にカリフォルニアに移り、チャールズ・チャップリンのスタジオの近所に住んでいた。そこから彼は喜劇や映画に惹かれた。アートスクールを卒業して、アブ・アイワークスのところで雑用をし、スクリーンジェムズに移った後ウォルター・ランツに乗り換えた。放浪生活で苦労した後(路上で似顔絵描きを1枚1ドルでやっていた)、ジョーンズはレオン・シュレジンガーLeon Schlesingerのところの仕事に応募した。クランペットやアヴェリー(ジョーンズは彼を絶賛する)のグループに入った彼は、たちまちバッグス・バニーBugs Bunnyやポーキー・ピッグPorky Pig、ダフィ・ダックDaffy Duckといったキャラクターを発展させる重要な役割を演じた。1938年にはデビュー作『ナイト・ウォッチマン』The Night Watchmanを演出した。

 ジョーンズの作家としてのキャリアは戦後劇的な転換点を迎えた。彼は才能あるスタッフたち(シナリオライターのマイク・モルティーズMike Malteseやレイアウトアーティストのモーリス・ノーブルMaurice Noble)らの助けを得た。UPA以外で活動する演出家の中で、ジョーンズは最も「インテリ」であり、超現実的狂気より知的ゲームを好み、自分のキャラやその心理的リアクションを細心に設計した。彼はカルチャーにも目配せし(彼の作品ではしばしばモダンアートから背景画が取られている)、絵に過ぎない俳優たちの身振りや演技を活用した。ジョーンズの手にかかると、バッグス・バニーとダフィ・ダックはラディカルに変貌する。バッグス・バニーはその絶対の自信こそ変わらないが、安っぽく錯乱したサディズムが姿を消す。ダフィ・ダックはバッグスにとってより理想的なパートナーとなる。つまりダフィはバッグスのようになりたいという嫉妬心に取り憑かれており、機会さえあればバッグスに取って代わろうと狙っているが、無情にも失敗する運命にある。ジョーンズの導きで二人の暴れん坊の心理的対立は彼らに起こるシチュエーションやギャグ以上に重要で面白いものになった。

 チャック・ジョーンズの最も重要で独創的な貢献は彼がほぼ一人で仕切り、その腕前を見せ付けたワイリー・コヨーテWile E. Coyoteのシリーズである。このシリーズは1948年に始まり、その主要な特徴は時代の推移を超越している。年数を経てもほとんど変化せず、コヨーテはありとあらゆる手を使ってロードランナーRoad Runner(何もない道を突っ走り、「BEEP-BEEP」というラッパのような声で鳴く鳥)を捕まえようとする。コヨーテは常に挫折し打ち負かされて終わる。

 レナード・マルティンLeonard Maltin曰く、

「このアニメの舞台はいつも同じ砂漠で、ロードランナーとコヨーテは決して喋らない。ロードランナーは決して道から外れない。コヨーテの損害は常に自業自得である。コヨーテはどんな災厄に見舞われても、フェードアウトの後には無傷で登場し、次の挑戦を始めようとする。メールオーダーの機械はほぼ全てアクメ社Acme Corporation製である。コヨーテとロードランナーは常にラテン語もどきの名で紹介される。そして最終的にコヨーテは決してロードランナーを捕まえることができない」
 シーシュポス的無限神話のジョーンズによる喜劇ヴァージョンは、ルールこそ過剰だが、非常に簡潔かつ数学的で原則に則っている。それぞれのギャグは一つの基本構造を示している。それは前提・高まる期待・驚きの結末である。ジョーンズは喜劇性のルールだけでなく、このシリーズの知的公理に基づいてプレイした。それは同じ構造を何度も繰り返しながら、反復が単調に陥らず、エキサイティングであるための最小限の変更しか行なわないというチャレンジである。

 コヨーテが登場する次のシリーズでは、羊を捕まえようとするが、いつも一匹の牧羊犬にうちのめされて終わる。コヨーテの努力は勤務時間帯の中だけで行われる。日課が終わるとコヨーテも犬もタイムカードをパンチアウトして親しく別れの挨拶を交わし、家路に就くのだ。良くできたクラシックコメディの例に漏れず、構造原理はキャラクターがしっかりしていて人間的にも面白味があり、心理的に信じられる時にのみ、爽快な効果を生む。コヨーテは並外れて洗練されたキャラクターであり、破滅・恐怖・怒り・貪欲を巧みに強調している。悪役を演じているとはいえ(無垢の鳥を傷つけようとしている)、彼が好かれることに成功しているのは最初から挫折しているからだ。その不屈の粘り強さは崇高の域にまで達している。ダフィ&バッグスに比べ(二人は方言と訛り丸出しで喋くりまくるし、歌い踊り、演劇的手法を取る)、ワイリー・コヨーテは驚くべきほどに簡潔である。

 ジョーンズが生み出したもう一人のキャラがペペ・ル・プーPepe Le Pewで、フランス訛りで喋る雄のスカンクであり、もっぱら雌猫にモーションをかけるが、種類も違う猫の方はスカンクの匂いにうんざりしている。おそらくもっと面白いのはスリー・ベアーズthe Three Bearsで、巨大な子熊が登場し、背の低い不機嫌な父親につきまとう。

 ジョーンズの非シリーズもののカートゥーンの中でアニメーターはより自由な創造性を発揮することができた。中でも『陽気なカエル』One Froggy Evening(1955)や『ハイ・ノート』High Note(1960)が最も有名である。前者は面白いが心をかき乱しもするストーリーで、呪われた作業員が古い家の石から一匹のカエルを見つけ出す。そのカエルがすばらしい歌手であることがわかると、男は芸能界でこれを食い物にしようと考える。男がそれを試みる度にカエルは完璧に普通の動物として振る舞う。男に残された道はカエルを再び新築のビルに塗り込めることで、同じストーリーが何度も繰り返されることになるのである。主人公のアニメーションは絶妙で、この映画はマーク・トウェインさえも喜ばせることができるだろう。これと対照的に、『ハイ・ノート』は動く音符を主人公としたほとんど抽象映画である。赤い音符(赤い理由は酔っ払っているため)が他の音符を妨害して『美しく青きドナウ』の演奏を目茶苦茶にし、ついには指揮者(と音符)は完全にコントロールを失う。ジョーンズとフリーレング、マッキンソンらは同じキャラクターや新しいキャラクター(ヨセミテ・サムYosemite Sam(赤ひげのカウボーイでバッグス・バニーと争うが、自らの粗暴さゆえに屈辱を味わう)、フォグフォン・レグホンFoghorn Leghorn(南部の雄鶏)、スピーディ・ゴンザレスSpeedy Gonzales(超音速の小さなメキシコねずみでスペイン語の雄たけびを挙げる))で制作を続けた。

 中でもトウィーティTweetyとシルヴェスターSylvesterのライバル二人組がいる。もともとはクランペットにより作られたカナリアのトウィーティは、フリッツ・フリーレングが猫のシルヴェスターと組ませてから(1947年の『ピーチク小鳥』Tweety Pie)スターになった。この新キャラは基本的にMGMが作ったトムとジェリーのネコ対ネズミの繰り返しだが、素材の新鮮さとしては新しいシリーズに十分だった。トウィーティとシルヴェスターはハナ&バーバラの二匹より豊かな性格を見せた。トウィーティは赤ちゃんカナリアで子供らしい外見と大きな青い瞳をしている。しかしその天使のような風貌の下にはずる賢くしばしば残忍な性格を隠している。当然、幸運と巧みに呼び込んだ味方によって彼はシルヴェスターから自分の身を守る。シルヴェスターの方はといえば、彼は無垢な存在どころではなく、裏切り者で限りなく卑劣に振る舞う存在である。だが、運命は彼に冷たい。彼は弱者(に見える者)が有利になる判官びいきの犠牲になる。こように見かけと実体が対照をなしているのは、それまで二枚舌には縁がなかったアメリカのカートゥーンでは新しかった。沈滞や不安への嗜好はおそらく新時代の徴候(意地悪なカナリアは決して罰を受けない)であり、アニメーションに徐々に浸透しはじめた。

 1955年、ジャック・ワーナーJack Warnerは自社のスタジオの第1回目の閉鎖を行った。立体映画への流れは不可避で、立体アニメの制作はコストが高すぎると考えたのである。いずれにせよ人間は赤と緑の網膜を持って生まれたわけではないと主張して、チャック・ジョーンズはディズニーに入社した。入ってみて気づいたのは、この会社で唯一良い地位にあるのはウォルトだけだということだった。ジャック・ワーナーがスタジオを再開すると、ジョーンズは元の鞘に収まった。1963年、作品の質が5年間にわたり低下した後、ワーナースタジオは2回目の閉鎖を被った。非常に限定された規模で1960年代から70年代にかけて制作は続き、短期間再開されたが、それはしばしば他の制作会社の下請けとしてであり、それ以上何がしかの成果を挙げることはなかった。

※←30年代のワーナー
テリートゥーン復活

 1946年にヘッケルとジャッケルHeckle & Jeckleという二羽のカラスがテリートゥーンの数少ないスター(マイティ・マウスMighty Mouseら)の一員に加わった。この二羽は落ち着き払って無愛想なのが特徴で、好感度の時代の終わりを告げる一例である。彼らは強大な敵や乗り越えがたいと思える状況に直面したときでさえ自惚れた態度を示し、観客には人気があった。ニューロシェルに基盤を置くスタジオはその単調さにもかかわらず大衆の寵愛を集めつづけた。豊かとはいえないが、この会社は経営的には順調で多産であった。したがってポール・テリーPaul Terryが1955年に突如株式をCBSテレビに売却して現役から引退したときは、長年仕事を共にし、忠誠心やハードワークを理解してくれていると考えていたスタッフにとって寝耳に水であった。

 テリートゥーンが思いがけない復活を遂げたのはまさにこの時だった。ニューヨークのUPAで修行した31才のジーン・ダイチGene Deitch(1924年8月8日、シカゴ生まれ)がアーティスティック・ディレクターを委任されたのである。ダイチはスタイルを著しく変え、人気キャラを否定して、若いスタッフ(アーネスト・ピントフErnest Pintoff、アル・クーゼルAl Kouzel、エリ・バウアーEli Bauer、そして脚本家で漫画家でもあるジュールス・ファイファーJules Feiffer)を雇い入れて新しいアイディアを導入し、この旧態依然のスタジオに衝撃波をもたらした。ピントフの『フレバス』Flebusは人間の主人公と飾らないグラフィックスタイルによって、UPAのお手本を極限まで推し進めた。アル・クーゼルとジュールス・ファイファーの『アナザー・デイ、アナザー・ドアマット』Another Day,Another Doormatの主人公ジョン・ドアマットJohn Doormatはくちやかましい妻から離れると人格が一変する小男である。『聖母の軽業師』The Juggler of Our Ladyは当時まだ無名作家のR・O・ブレッチマンR. 0. Blechmanの小説を原作とし、ブレッチマン自身もこの作品に作画で参加している。

 それ以外のシリーズキャラの中で一番有望だったのは象のシドニーSidney the Elephantで、鼻で鳴いたり吸い込んだりするのが好きな恥ずかしがり屋の動物である。ダイチはトム・テリフィックTom Terrific(魔法の漏斗をかぶっている金髪の子供)を主人公とする良質なTVシリーズも生み出した。これらすべてがジーン・ダイチがとりしきっていた2年間に行われた。ダイチが急進的すぎると考えられたとき、テリートゥーンの社長ビル・ヴァイスBill Weissはアーティスティック・ディレクションを自分でコントロールしようと決定した。その後テリートゥーンスタジオは部分的に過去に戻り、古いキャラをいくつかリバイバルした。限界はあったもののテリートゥーンはもっとも現代的で活気のあるスタジオの一つという地位を確立した。

※←30年代のテリートゥーン
ウォルター・ランツのオアシス

 古いスタジオの中で一番長命だったのがウォルター・ランツスタジオで、1972年に閉鎖されるまで続いた。このスタジオは他とはかなり異なり、ランツは厳しい予算内で制作を続け、昔ながらの着想とキャラクターを守り続けた。現場の和やかな雰囲気は平穏なオアシスとして他社の優れたスタッフを惹きつけた。事実、ランツのもとでは若手よりもベテランが多く働いていた。特にディズニー出身者としてはディック・ランディDick Lundy、ケン・オブライエンKen O'Brien、ホーマー・ブライトマンHomer Brightman、ジャック・ハナJack Hannahらがいた。他の才能あるスタッフには、脚本家マイク・モルティーズMike Maltese(元ワーナー)、テックス・アヴェリーTex Avery、アレックス・ロヴィAlex Lovy、シド・マーカスSid Marcusらがいる。強者揃いのスタジオの中で、ラ・ヴァーン・ハーディングLa Verne Harding(1905ー1984)は多分ハリウッドで唯一言及に値する優れた女性アニメーターである。ランツが後に回想したように、ディズニーは権威主義者であり、多くの人間はランツのフレンドリーな態度を好んだ。ディズニーが予言者だった一方、ランツはプラグマティストだった。

 ウッドペッカーWoody Woodpeckerのシリーズはキャラクターとしては変化したが、このスタジオとその生涯を共にした。実人生でもしばしば起こるように、ウッドペッカーはその破壊的な怒りを捨て、老年期には寛大で落ち着いた性格になった。挑発されない限りは反応せず、ミドルクラスの穏やかな性格を獲得した。ドナルド・ダックやバッグス・バニーにも同様の変化は起きた。ウッドペッカーの体つきもより好ましく、小さく、柔らかな形態に変化した。

 アンディ・パンダAndy Pandaのスクリーンでの活躍は1940年代の後に終わった。アンディはミッキー・マウスと形態的にもあり方としても似ているキャラで、同じ運命を辿り、カートゥーンの世界ではもはやその活躍する場はなくなった。彼の短編には新しいキャラクターのサポートが必要で、アンディは単なるその引き立て役になった。

 ディズニーからは他にペンギンのパブロPablo the Penguin(『三人の騎士』The Three Caballerosより)が寒がりのペンギン、チリー・ウィリーChilly Willyの発想源になった。アレックス・ロヴィに導かれ1953年にデビューしたチリー・ウィリーはランツ最後の重要な創造だった。だが、彼を有名にしたのはテックス・アヴェリーであり、アヴェリーが短期間ランツスタジオにいたときの『僕はさむいんです』I'm Cold(1954)や『北海の子守歌』The Legend of Rockabye Point(1955)に登場したときであった。チリー・ウィリーは小さなペンギンで寒さに震え厚着をしている。チリーには長続きするような心理的特色がなかったが、スタジオが活動を停止するまで何とか生き延びた。

 年月を経るうちにランツスタジオの喜劇の血と霊感は著しく退潮したが、それはライバルたちの質の低下と期を一にしていた。ランツはTVを軽視せず、「ウッドペッカー・ショー」the Woody Woodpecker Show(1957)に自ら出演さえした。ついにはコストの劇的な上昇により、ランツはスタジオを閉鎖し、キャラクターのマーチャンダイズと世界中に過去の作品をセールスし、絵を描くことに専念した。

※←30年代のランツ
MGMとテックス・アヴェリーの黄金時代

 テックス・アヴェリーは1942年から1954年にかけてMGMで活動し、そのキャリアの中でも最も多産な時代となった。スタジオのエグゼクティヴ・プロデューサー、フレッド・クィンビーFred Quimbyのサポートは乏しかったが(クィンビーはアヴェリーのユーモア感覚を理解せず、ハナ&バーバラのコメディの方を好んだ)、アヴェリーはMGMに理想的な創作環境を見出した。

 アヴェリーのフィルムメーキングを論じる際の危険の一つに、非打算的で大衆的なことが明らかである作家を知識人のようにしてしまうことがある。実際はアヴェリーの作品に感情的・政治的・イデオロギー的な内容は欠如しており、したがって批評家はアヴェリーのありのままを、映画とギャグ表現を極端まで探求し操作した作家として捉えなければならない。アヴェリーの詩的内容は笑いそのものであり、ありとあらゆる次元のユーモアである。ここでは壊れた論理ゲームや伝統の破壊(しばしば観客に直接呼びかけた)、限界への挑戦——ある時は時間の限界(ギャグの狂ったようなつるべ打ち)、またある時はリアリズムの限界(キャラクターの極端な巨大化や変形)——などが猛威を振るっている。

 恐らくアヴェリーは映画作家の中でも極めて限定された系譜に属する(チャップリン、キートン、ローレル&ハーディ)。彼らは今世紀のヴィジュアル・コメディをゼロから創造し、そのプロセスやスタイルは以後共通の知識となった。これを証明するのが、アヴェリーが非シリーズの映画を好んだことやキャラクターを続けることに関心がなかったことである。ドルーピーDroopyを除いてアヴェリーのキャラは短命であり(その一つきちがいリスScrewy Squirrelはスクリーン上で殺される)、アヴェリーの犬や猫、カナリア、熊、オオカミ達は仲間の動物たちと目立った差異を持たない。アヴェリー自身が語ったように、重要な要素はキャラクターではなく、むしろその行動なのである。言葉を換えれば、肝心なことは純粋なコメディなのであった。

 アヴェリーをハナ&バーバラやクランペット、ジョーンズ、フリーレングらの同僚と分かつのは、ステレオタイプを拒絶し、それぞれの作品を他から切り離して考える点である(要素要素はアヴェリー作品全体に緊密に結びつくが)。連続ものの基本要素としての決まり事に従って制作する代わりに、アヴェリーは決まり文句(これはステレオタイプとは異なる)を玩び、それをひっくり返して、皮肉な笑いのきっかけとして使うことを好んだ。例えば、彼は言葉の比喩を文字通りスクリーンに転移させる(彼はこのフォーマットを単独エピソードだけでなく、フィルム全体にも適用した。その一例である1951年の『へんな体験記』Symphony in Slangでは、一人の男が言葉の表現を用いて人生を物語る。ここでは「ドレスが手袋のようにぴったりあう」という言い回しがそのまま絵で表現されるのである)。

 安易な批評方法はアヴェリーをアンチ・ディズニーにしてしまうことである。スウィートでリアルなディズニーに対して、暴力的かつシュルレアリスティック、といった具合に。事実はむしろアヴェリーはディズニーの方法論から学び完成させたのである。ディズニーもアヴェリーもパーソナリティ・アニメーション(「絵の俳優による映画」)がアメリカのギャグアニメーションの黄金時代を築くことに貢献した点では一致しているからである。アヴェリーのキャラクターは単なるグラフィック記号ではなく、偉大な俳優であり、演技者であった。たとえ彼らが錯乱し、誇張された世界に生きているにせよ。

 アヴェリーの演劇的技術は飢えたオオカミの前で踊る肉感的な赤ずきんちゃんが登場する6本の作品にとりわけ強烈に現れている(『おかしな赤頭巾』Red Hot Riding Hood. 1943、『早射ちワン君』The Shooting of Dan McGoo, 1945、『狼とシンデレラ』Swing Shift Cinderella. 1945、『むっつりワン君とおたずね者』Wild and Woolfy.1945、『うそつきトム』Uncle Tom's Cabana, 1947、『田舎狼と都会狼』Little Rural Riding Hood, 1949)。極めて人間的な娘はプレストン・ブレアPreston Blair(『ピノキオ』『ファンタジア』)によってアニメートされ、刺激されたオオカミが起こす行動(目を剥き、足をかむ)とは見事に対照的である。

 1947年にアヴェリーは彼の代表作と目される『太りっこ競争』King Size Canaryを生み出した。何の変哲もない郊外の環境で、よくあるキャラクター(猫、ネズミ、ブルドッグ、カナリア)が互いに敵対する。彼らの戦いはジャンボ・グロJumbo Groによってその大きさが交互に巨大化されるようになると、絶頂に達する。最終的には猫とネズミがちっぽけな地球の上に立って観客に挨拶して終わるのである。

 アヴェリーは1954年にMGMを去った後、2,3ヶ月は最初の雇い主であったウォルター・ランツのもとで働き、4本の良くできてはいるが卓越したとは言い難い作品を作った。その後は広告業界で働き、晩年はハナ&バーバラのシナリオ部門で過ごした。アヴェリーは1989年8月26日に亡くなった。

 アヴェリーの同僚であるウィリアム・ハナWilliam Hannaとジョセフ・バーバラJoseph BarberaはトムとジェリーTom and Jerryを生み出したことで大衆に大成功を収めた(映画人に対しても同様だったことを7回のアカデミー賞受賞が証明している)。トムとジェリーは大きな変化を被ることなく長い年月を生き延びた。時には大きなブルドッグの介入やニブルスLittle Nibblesの登場でストーリーがより盛りだくさんになることもあった。ニブルスはタフィーTuffyという名でも知られる3番目の主人公で、ジェリーの相棒となる子供である。『鼠の二銃士』The Two Mouseketeers (1952). といったコスチュームプレイのように普段とは違う舞台が用いられることもあった。だが、作品の実質は変わらず、1950年代後期のベスト作品群はその15年前の作品に比べていささかの衰えも示していない。

 登場キャラと物語の構造を多少変更することが可能だったように、ギャグのスタイルにも若干の変化はあった。テックス・アヴェリーのチームとの競争がもっとも加熱したとき、ハナとバーバラはアクションを加速させ、誇張されたデフォルメや暴力的手段を借用した。その後、彼らはスラップスティックコメディとスクリューボールコメディの妥協点を見いだした。それが例えば1946年の有名な『猫の演奏会』The Cat Concertoであり、優雅なピアニスト(トム)がリストのハンガリアン・ラプソディ第2番を演奏し、ピアノの中で眠っていたジェリーがそれを邪魔する。二匹がいじめあう最中にも曲は途切れることなく、フィナーレで不幸なトムは曲がエンドレスにリピートするのを聞かされる羽目になる。優雅なアニメート、熟練のタイミング、趣味の良いアクション構成でおそらくこのコンビの最高傑作である。

 『鼠の二銃士』も全く同様で、新参のニブルスがトムに子供っぽい悪戯を仕掛ける。ニブルスは他の新趣向のどれにもまして古くなったパターンをリフレッシュすることができた。というのも彼と他のキャラクターの関係が微妙な心理的ニュアンスをもたらしたからである(ジェリーにとっては厄介な弟であり、トムにとってはより悪質なジェリーである)。彼らが実写映画に足跡を残したことについても簡単に触れておくべきだろう。ジーン・ケリーGene Kellyは『錨を上げて』Anchors Aweigh (1945)をMGMのカートゥーンキャラクターとジェリーのダンスのデザインをディズニースタジオに依頼した。これは実写とアニメーションを合成したシーンとしては最も有名なものである。エスター・ウィリアムズEsther Williamsは『濡れたら危険』Dangerous When Wet(1953)で彼に続き、『舞踏への招待』Invitation to the Dance(1953)では再びジーン・ケリーが行なった。

 1955年にフレッド・クインビーがMGMのアニメーション部長を去ると、ハナ&バーバラがその後継者に呼ばれた。そのわずか2年後に会社はアニメーション部門の閉鎖を決定した。ハナ&バーバラは自分の会社を設立し、TV向けの低予算シリーズの製作を開始した。この帝国については後の章で検討する。

※←30年代のMGM
フライシャーからフェイマスへ

 かつてはアメリカ第2のアニメーションスタジオであったフライシャーFleischerは、その子会社であるフェイマス・スタジオFamous Studiosによって活動を継続した。この新会社の名前は親会社パラマウントの旧名であるフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーFamous Players-Laskyに由来する。1942年にフライシャーを解雇したフェイマス・スタジオは施設をマイアミからニューヨークへ移し、長編期から残っていた過大なスタッフを減らした。スタジオは3人のメンバーによって管理された。サム・ブッチワルドSam Buchwald、シーモア・ネイテルSeymour Kneitel(マックス・フライシャーMax Fleischerの義理の息子)、イジー・スパーバーIzzy Sparber(デイヴ・フライシャーDave Fleischerを引き継いでほとんどあるいは全く寄与していないフィルムのクレジットを我がものとした)である。

 製作は『スーパーマン』Supermanのアドヴェンチャー路線からコミック路線へ、例えば保守的な『ポパイ』Popeye映画や『リトル・ルル』Little Luluに転向した。この少女は無表情が特徴で、「サタデー・イヴニング・ポスト」Saturday Evening Post紙ですでに有名なマージMarge原作のコミックストリップであった。『ルル』は5年間続いた。最初は豊作だった『ルル』も単調になり、静止画のアニメーション化という困難な作業の犠牲になった一人である。より成功したキャラクターがお化けのキャスパーCasper the Friendly Ghostで、アニメーターであり、脚本家であったジョー・オライオロJoe Orioloにより、1945年に初登場した。キャスパーのシリーズが始まったのは1950年だが、コミックストリップとしても継続し、活躍した。キャスパーは子供の幽霊で、友達を求め続けているが、いつも拒絶に終わる。児童心理における最も基本的要素の一つである受容への欲求と放棄への恐怖に基づいていたため、クオリティやオリジナリティで卓越することはなかったが、キャスパーは子供にアピールした。込み入った経由の結果、法的義務の不履行により、ジョー・オライオロは自らが掘り出した金鉱の成功からは全く経済的収益を享受できなかった。

 フェイマス・スタジオ(あるいは1956年以降の呼び名に従うとパラマウント・カートゥーン・スタジオParamount Cartoon Studio)の活動は活気のないまま数年続いたが、そこからは得るものより失うものの方が大きかった。1951年にサム・ブッチワルドが亡くなった。1957年にスパーバーとネイテルが亡くなると、ポパイの製作もストップした。1961年にスタジオは一本のオスカー受賞作品でつかの間の成功を獲得した。この作品は外部のジーン・ダイチGene Deitchが監督した『ムンロ』Munroである。その後、シェイマス・カルヘインShamus Culhaneが3度目に戻り、ラルフ・バクシRalph Bakshiが何でもありのTV市場に向けてスタジオを再生させようとしたが、僅かな成功しか収めなかった。フェイマス・スタジオは1967年に閉鎖された。

※←30年代のフライシャー
ブーニンの人形アニメーション Lou Bunin

 人形アニメーションの分野で、この時代にただ一人飛び抜けていた作家がルー・ブーニンLou Buninである。ブーニンはキエフ生まれ(1904年3月28日〜)のロシア系移民で、シカゴの人形劇団を主宰し、『枢軸国を葬れ』Bury the Axis(1937)や『ピート・ローレウム』Pete Roleum(1938)、そして『口の利けない馬ホーマー』Homer. the Horse Who Couldn't Talk.(1941)を制作した。

 1940年代中盤にはハリウッドへ移り、ヴィンセント・ミネリVincente Minnelli主演のMGM劇場映画『ジーグフェルト・フォーリーズ』Ziegfeld Follies(1945)で人形アニメを2,3シーン制作した。パリのグランド・ショミエールアカデミーthe Paris academy of Grande Chaumiereの出身で、彫刻家であり、またブレヒトや古典の読者でもあった彼は、そのあまりに多様な知的野心のゆえにハリウッドで安住することができず、独立系作家として活動するようになった。

 1948年には『不思議の国のアリス』Alice in Wonderland(ヨーロッパとの合作)を制作。これは実写と人形アニメーションを組み合わせた長編だった。この映画はディズニーの翻案にはるかに先駆けて一般公開されたが、人気を得ることは出来なかった。美学的見地からすると、これは期待外れの作品である。リズムの弱さ、想像力とオリジナリティの欠如など、野心作ではあるが、記憶に値しない作品の列に加えられることになるだろう。その後、ブーニンは衣装のスペシャリストである妻のフローレンスFlorenceと共同で、CMの分野で業績を上げ、短期間『ずる賢い小兎とカササギに長い耳が生えたわけ』The Sly Little Rabbit and How Pie Got Long Ears(1955)、『ディンゴ犬とカンガルー』The Dingo Dog and the Kangaroo(1955)などの商業映画に参加した。

西海岸のアニメーション:実験映画運動

 1946年にサンフランシスコで第1回「アート・イン・シネマ・フェスティバル」Art in Cinema Festivalが開催された。主催はサンフランシスコ美術館で、伝統的なアヴァンギャルド映画やアニメーションなどから選りすぐりの10プログラムが上映された。その中には『対角線交響楽』Diagonal Symphonieや『カリガリ博士』Das Kabinett des Dr. Caligari、『幕間』Entr'acte、オスカー・フィッシンガー作品、『時の他にはなし』Rien que les heures、『詩人の血』Le sang d'un poete、シュルレアリスム映画、アメリカアヴァンギャルドの新作、とりわけマヤ・デーレンMaya Deren、ダグラス・クロックウェルDouglas Crockwell、ウィットニーWhitney兄弟、ジェームズ・ブロウトンJames Broughton=シドニー・ピーターソンSidney Petersonのコンビなどが含まれていた。

 この数年前にニューヨークの画家たちはヨーロッパから亡命してきたシュルレアリストやダダイストとの出会いを体験していた。西海岸の映画作家にとって、このアート・イン・シネマ・フェスティバルはそれに相当する事件であった。このフェスティバルは田舎者をアヴァンギャルドから隔てていた距離を乗り越える格好の機会となった。ちょうどペギー・グッゲンハイムPeggy Guggenheimが自分の20世紀美術ギャラリーでミロMiro、エルンストErnst、タンギーTanguy、マッタMattaを展示するだけでなく、アメリカの若い作家を送り出したように、カリフォルニアフェスティバルのディレクターであるフランク・スタウファチャーFrank Stauffacherとリチャード・フォスターRichard Fosterは大作家のフィルムを上映し、さらに若いアメリカ人作家を紹介した。この結果、いくつもの才能や計画、新機軸、革命が突如として開花した。アクションペインティングがおよそ10年後のポップアートへの道を開いたように、この西海岸実験映画運動はアンダーグラウンドシネマの興隆をもたらした。

 西海岸実験映画運動は実写とアニメーションを区別しなかった。フィルムイメージについての「実験的」コンセプトは、かくも多様な映画作家たちの中にあっても統一された基本要素であった。彼らは映像を非現実的なものとしてとらえ、いかようにも操作できる——伝統的な実写映画のタイミングを拡張する、シーンデザインの慣習を破壊する、フレームにペイントする、etc.——と考えた。作家たちはハリウッド哲学とは完全に袂を分かつことによって——それに反抗するにもまして——より個人的な映画を創造したいと考えた。多くの作家(ハイ・ハーシュ、遅れてラリー・ジョーダン)が実写とアニメーションの両方を制作した。他の作家(アンガーAngerなど)は実写作品の中にいながら、抽象作家を自称するものたちよりも抽象的であった。彼らの映画は仏教哲学からジャズ、シュルレアリスム、カバラに至る多くの要素の影響を受けているが、なお自発的かつ革新的であり、当時の文学思潮と並行した道のりをたどり、文化的にも豊かな貢献をなした。アート・イン・シネマ・フェスティバルは数年後に終了するが、ジョーダン・ベルソンやハリー・スミス、ハイ・ハーシュなど、アニメーションの分野で才能ある作家を世に送り出した。

ジョーダン・ベルソンとマンダラ映画 Jordan Belson

 シカゴ生まれ(1926〜)のジョーダン・ベルソンJordan Belsonは1946年にバークレーのカリフォルニア大学芸術学部を卒業した。彼の最大の関心事は少年時代以来ペインティングだった。彼のモノクロサイレント映画『変成』Transmutationは1947年の制作で、アート・イン・シネマ・フェスティバルの影響を直接受けており、映画そのものというより動くペインティングである。

 1948年にベルソンは抽象作品の2作目である『即興作品第1番』Improvisation No. 1を制作した。これもサイレントのモノクロ映画である。並行してペインティング活動も継続し、「シネマティック・ペインティング」を創作した。これは時にフィルム映像そのものであり、前後関係から切り離され、再加工されていた。彼はニューヨークを拠点とするグッゲンハイム財団に入会し、財団はニューヨークとパリでベルソンの絵画を展示した。

 1950年代を通じて、ベルソンはペインティングと映画のバランスを保ち、映画キャメラを放置したり再開したりを繰り返した。1952年と53年には『マンボ』Mambo、『キャラヴァン』Caravan、『マンダラ』Mandala、『バップ・スコッチ』Bop Scotchという4本のカラーサウンド映画を制作した。最初の2本はロール紙に「フリー」ペインティングした習作で、3本目は伝統的なコマ撮りのアニメーションを使用した美しい作品である。一方、『バップ・スコッチ』は「素材」に関する実験作で、舗石や煉瓦など鉱物の映像がスピーディな編集でリズミカルに結合されている。

 1957年から59年にかけて、ベルソンはヴォルテックス・コンサートVortex Concertsのアーティスティック・ディレクターとなった。このプログラムは電子音楽と抽象映像が同時に演奏されるもので、サンフランシスコのモリソン・プラネタリウムに生中継された。ベルソンが70色におよぶプロジェクターを用いる一方で、作曲家のヘンリー・ジェイコブズHenry Jacobsが演奏の音楽面を監督した。

 同時期に映画活動も再開した。1961年の『誘惑』Alluresは彼が形成期から成熟期に入ったことを示している。ベルソンによれば、これは「宇宙創生」cosmogenesisのテーマに基づく「数学的な厳密性を持つ」フィルムである。

 「(「宇宙創生」とは)ティヤール・ド・シャルダンTeilhard de Chardinがコスモロジーという言葉に対して置き換えようと望んだ用語である。それは宇宙が静的な現象ではなく、生成のプロセスであり、その中で存在や組織が新たなレベルに到達すべく運命づけられていることを強調するためであった」

 分子や星々の宇宙創生する姿は表層的レベルにおいて目を捉えるが、この映画の超越的価値はその動的な展開から発生する。そのエレガントなリズムは単なる装飾にとどまらず、音楽による変形のプロセスを示唆している。ベルソンによれば、「この映画は物質から精神への進歩である」

 『誘惑』はそれでもなお線や曲線、点を表示しているという点においては「グラフィック」フィルムであった。続いて、ベルソンの作品は光と虹、曙光、ガス、乳白光、炎などで構成されるようになる。その内容はアートである以上に精神性の探求であり、宇宙探検の驚異といった別のテーマに結びついている。

 『リ・エントリー』Re-Entry(1964)でベルソンはチベットの死者の書『バルド・トドル』Bardo Thodolや宇宙飛行士ジョン・グレンJohn Glennによる初の宇宙旅行からインスピレーションを受けている。「バルド」とは死と再生の間にある一種の煉獄的状態である。それは3段階で構成され、映画では地球から旅立つロケット(死)、宇宙飛行(カルマの幻影)、地上への帰還(再生)という形で現れる。

 次の『現象』Phenomena(1965)は苦行に対するベルソンの高まりゆく関心を示している。2年間の厳格なヨガの修行は1967年の『サマーディ(三昧)』Samadhiに結実した。『サマーディ』(「個人の魂が普遍的魂と融合している意識段階」)は「人間の魂に関するドキュメンタリー」である。これを研究・制作するうちに、ベルソンは魂が「正真正銘の物理的実在である」ことに気づきはじめ、すべての創作過程を終えた後は不死であることに驚嘆した。『モーメンタム』Momentum(1969)はサマーディのヴィジョン(ベルソンはこれが太陽の現象に呼応していることを発見した)から得られた推進力の果実である。1969年と1970年にベルソンは『コスモス』Cosmosを制作し、その中でヴィデオテープを用いた。1970年には『世界』Worldを発表、これは初期ベルソン作品の幾何学性を呼び起こしている。『瞑想』Meditation(1971)や『チャクラ』Chakra(1972)、『ライト』Light(1974)、『天球の音楽』Music of the Spheres(1976)がこれに続いた。

 ここではベルソン作品のディテールを記述することはしない。それはすでによそで見事に行なわれているし、さらに、1961年以後の作品は光と精神に捧げた詩として統一体をなしているからである。ベルソンの技法は多岐に渡り、アニメーションに対する通常のアプローチから、時には抽象アニメーション——その中では純粋な光と純粋な空間が一切の人的関与なしにスクリーン上に現れる——でさえある。彼の映画は幻覚と至福のヴィジョンからできている。

 ベルソンは断言する。

 「私は映画という手段を使って、私の内面に見たものを外的に再現することに成功した。目を閉じれば自己の存在の中にあるイメージを見ることができる。そして、空や海に目を転じれば、そこにも同じことが起こっているのが見えるのだ」

 以上の理由で、彼の作品ではテクニックがなおざりにされる。フィルムは名人芸ではなく、視覚的、聴覚的、内面的体験として生きられなければならないのだ。「テクニックが幻想を圧迫するのではないかというだけの理由で、私は数百フィートものフィルムを放棄した」

 こういった霊的体験の要素は、長い間近づきがたく、また評価しがたい障害となっていた。それは批評家にとっても、また作者自身にとっても——その(数少ない)インタビューにおいて——そうである。彼の映画は美学面より哲学的・宗教的観点の方が重要だとみなされ、ハタ・ヨガやチベット仏教の経典にしたがって解釈されてきた。長年の作家・作品研究の末に、ベルソンを芸術的観点から再評価できるようになったのはつい最近のことである。

 「今、私は自分の映画をただの芸術作品なのだと考えている」と彼は書き、さらに東洋宗教や東洋哲学の全面的な影響を否定した。「長年に渡り、私はさまざまな主題に関心を持ち、影響を受けてきた。仏教やマンダラ、インドの聖人、チベット神秘主義、セラピー、エジプト学、薔薇十字思想、グルジェフ、ロドニー・コリンズ、カバラ、ユング、魔術、タントラ、錬金術、象徴主義、占星術、日本の文様、アラビア文様、非具象絵画、光学現象、科学的イメージ、シュルレアリスム、視覚芸術(古代から現代まであらゆる種類の)、ロマン主義音楽、古典音楽…これでもその一部に過ぎない」

 ジョーダン・ベルソンの作品に一貫する特徴は中心性へのオブセッションである。円形あるいは螺旋形のコンポジションは常にフレームの中心から展開する。そこは運動の不動点であり、色彩の収束点でもある。ベルソンのフィルムにはカメラ移動が存在しない。それは眼と魂の秘密に向けて開かれた窓であり、固有のリズムに従って展開する。サウンドトラックは通常の「伴奏」音楽とはまるで異なり、反響と荘厳な旋律で構成されている。

 中心へのオブセッションはマンダラにルーツがある。マンダラは一種の宇宙図で、空間的広がりと時間的循環を備えた宇宙であり、中心を軸に回転する。この意味で(あるいはマンダラが心理図でもあるという意味で。マンダラは意識を集中させ、心的体験を観照できるようになっている。それは意識を統一し、観念的原理を見いだすためである)、ベルソンの最も重要な作品は『マンダラ』の諸作である。これらは言わば作家自身と事物を一体化することを探求している。だが、ベルソン作品の宗教的読解を過大視すべきではない。真のマンダラは魔術的で複雑な入信儀式であり、その規律は仏教の師たちが細密な議論を戦わせる対象である。これがベルソンの意図や成果を超えたところにあるのは言うまでもない。

 『誘惑』および『ラーガ』Raga(1959)にも中心性は見いだすことができる。これらはベルソンの造形的時代——あるいはむしろ「描写」の時代・「グラフィック」の時代と呼ぶべき——に属する作品である。この2本は万華鏡(視覚的な中心軸が必須で、かつ究極の偶然にまかされている)の動きを想起させる。このように、ベルソンは視覚的探求と精神的探求を、精妙に意味の込められた儀式的構成とコントロールされない偶然の探求——シュルレアリストやジャクソン・ポロックJackson Pollock派の画家たちが唱道した——を結びつける能力を証明した。

 だが、何にもまして明らかなことは、彼が偉大な幻視者だったことである。そのヴィジョンは見るものを魅惑し、その動きとデリケートな色彩(ベルソンが乱暴な色彩をもちいることはほとんどない)の中に誘い込み、さらに現実世界のイメージは夢の形をとって現れる。すなわち人々、風景、ロケット、火山、飛行機、ダイバーなどである。例外的人物であったジョーダン・ベルソンは、戦後アヴァンギャルド映画の中で最も独創的かつ最も世に知られない巨匠の一人であった。

ハリー・スミス:天と地の魔術師 Harry Smith

 ハリー・スミスHarry Smithの最初の映画4作は1947年の第2回アート・イン・シネマ・フェスティバルで公開された。実際の制作年は不詳で、彼の作品全てにおいて事情は同じである。その生活や行動、隣人に対する交流は難解で、時には理解不能な作家であった。

 スミスは1923年5月29日にオレゴン州ポートランドに生まれた。錬金術と神秘主義への関心、工芸家としての技術、音楽と映画への情熱をその家系から受け継いだ。両親の離婚で幼いハリーは理想的とは言えない家庭状況に置かれ、孤独な子供時代を過ごした。大学在学中に人類学に興味を持ち、人類学者の助手として働いた。ついにはインディアンの部族としばらくの間生活するようになり、秘密の儀式に同席を許されて(彼はこのような特権を享受できた一握りの白人の一人だった)、その中で幻覚を体験した。サン・フランシスコに戻ってから、同じ幻影をペインティングによって再提示しようと試み、また、薬物、特にペヨーテによって再体験しようとした。

 スミスの初期作品はフィルムにダイレクトペイントした抽象実験映画である。スミスによれば制作を開始したのは1939年からということだが(彼自身は自作の日付を早めがちなことを正直に認めている)、この日付はおそらく5、6年遅らせるべきだろう。

 アート・フェスティバルで上映されたこれらのフィルムだが、現存する1番から4番までナンバリングされた作品の中には該当作が存在しない。30年以上に渡り、スミスは自作に手を入れ、カットし、廃棄していったからである。そのたびに構成やタイトルは変わり、その結果、多数のパートに分れたただ一つの完全な「作品」が残されることになった(「私のフィルムはすべてまとめて見るべきだ」と1963年のカタログ序文に彼自ら記している)。

 スミスの「作品」は1970年代の半ばに最終形態に到達した。その結果、彼の作品を分析して、偉大な表現力を確認することができるようになった。これはスミスが錬金術に言及していることの多くを見逃したとしても、なお人を圧倒する。例えば、素抜けのフィルムにペイントしたフィルム(『初期抽象』Early Abstractionsという1本のアンソロジーにまとめられており、他の「作品」とはあまり関係がない)はレン・ライやノーマン・マクラレンと同種のものである。とはいえ、複雑に張り巡らされた引用や巧緻さはよりダイナミックなライやマクラレンとは異質である。

 『フィルムNo.5』Film No. 5はスミスの他の作品とは異なり、『オスカー・フィッシンガーへのオマージュ』Homage to Oskar Fischingerという題が付いている。これにはカラーの円が登場し、明らかにフィッシンガーの『サークル』Kreiseでアニメートされた円が引用されている。だが、第1期スミスの代表作といえば、『フィルムNo.7』Film No.7であろう。ここには「様々なショットの中に錯綜したイメージが多重露光され、リアプロジェクションされてあらわれる。こうして綿密に組み立てられた構造は後期カンディンスキーKandinskyの幾何学的絵画を思わせ、力強く、有機的に、まさにシンフォニックに織りなされて動いている。…再撮された映像の柔らかな輝きは“映画の映画”——合わせ鏡の反映のような——を見ているのだという感覚を絶えず呼び起こす。そしてこのイメージは攻撃的な平面スクリーンを観念的無限性に開くのだ」

 『フィルムNo.12』Film No.12(ジョナス・メカスJonas Mekasが『魔術映画』The Magic Featureと命名し、通常『天と地の魔術』Heaven and Earth Magicとして知られている)はスミスの最も魅惑的で示唆的な一章を構成している。

 「これは元々6時間の長さがあり、編集されてまず2時間のバージョンになり、それから1時間になった」とスミスは回想している。

 この白黒作品は1950年から60年の間に撮影された。物語のない物語であり、多くのイメージが入れ替わり立ち替わりして、参照、暗示、象徴、メタファーのごった煮になっている。黒い背景の上には真っ白な切り紙——19世紀のオブジェや円、卵、肖像画、エジプトのミイラ、スイカ、注射器、蝶、ワニ皮のバッグ、鳥、マネキン、水滴、死者の首、骸骨、レスラーなど——が現れる。オリジナルスコアは声や叫び、風、鐘、自動車の往来、水の音などからできている。

 イマジネーションの面では確かにマックス・エルンストMax Ernstのコラージュやジョセフ・コーネルJoseph Cornellの「箱」を参照しているが、(より重要と考えられる)叙述の展開の面では現代詩の象徴的で難解な語法に近い。スミスの制作方法はアナロジーに基づく自由連想である。現代詩人は直喩の句を省略し、一見無関係に見える要素をダイレクトに並べて相互干渉させたり、ありふれた事物(T.S.エリオットEliotの「客観的相関物」)を用いて豊かなディスクールを作り出した。スミスは彼らと同様に、初めは無意味に見えるイメージを結合させたり、見かけはぎこちなく何の変哲もないアクションによって組み立てる。そうすることで濃密で魅力的な詩——精神世界の長い旅であり、催眠体験同然のもの——を創造したのである。

 後期のスミス作品では実写志向がより強くなった。知られている作品として最後のものは1967年頃の15分の作品『フィルムNo.16』Film No. 16または『スズのきこりの夢』The Tin Woodman's Dreamである。彼は魔術師で錬金術師であるだけでなく、様々な科学や超心理学、芸術、カルト、宗教体験の崇拝者でもあった。

 スミス芸術に素材を提供しているこのような騒々しい文化的・知的バックグラウンドは批評家にとって解読しなければならないフィールドである。スミスに対する最も適切な見解は多分キャロル・バーグCarol Bergeによるものである。他の詩人を評する詩人として——スミスが喜びそうな警句をもって——彼女はこう書いている。

 「ベケットBeckettの閃き、そう、彼はベケットに多くを負っている。ジョイスは少々。もちろんカフカKafkaも。ボッシュBoschやハインリヒ・クライHeinrich Kleyもそう。ユングJungを引き合いに出す人もいる。個人的にユングはどうでもいい。だが、私は芸術作品を見てそれと見分ける術は心得ている」

ハイ・ハーシュの謎 Hy Hirsch

 ハイ・ハーシュHy Hirschは1911年シカゴに生まれ、映画カメラマンや広告カメラマンの職に就いた。1937年にアヴァンギャルド映画に転じ、サンフランシスコでいくつかのプロジェクトに役者や撮影として参加した。ベルソンやスミスの友人だった彼は二人の初期実験作品の制作時に相談に乗ったり、彼らから触発されて自分のフィルムを制作した。およそ12年の間にハーシュはまずアメリカ、それからオランダ、最終的にはパリに移り(1960年にその地で心臓発作のため亡くなった)、多数のフィルムを制作した。

 混沌とした生涯を送り、彼自身に自作への関心がなかったため、現在そのフィルモグラフィ(作品の多くが失われた)をまとめるのは非常に困難である。また、現存する作品についても、それが実際にどんな形だったのか推測することは不可能である。事実、切り刻まれたフィルムもいくつかある。だが、それは主としてハーシュが一つ一つの上映をハプニングとみなし、必要に応じてフィルムを再編集したためである。彼はライヴ演奏を優先させてオリジナルのサウンドトラックを放棄し、時にマルチ映像に没頭した。一言で言えば、作品を「完結」させることを拒絶し、映画のコレオグラファーとして活動したのである。

 我々に残されたものが示すのは天才的で落着きがない何でも屋というイメージである。ヴィジュアルとリズムに関する卓越した感受性やセンス、活気に恵まれながら、次の実験の目新しさに心を奪われてしまったがゆえに、彼は一度発見した芸術的テーマの発展に集中することができなかった。

 『チェイス・オブ・タッチ』Chasse de touches(The Chase of Brushstrokes)は美しく、エレガントなグラフィックゲームであり、ただ一つ、エンディングの花火の凡庸さによって台無しにされてしまっている。使用されたテクニックは1940年代後期にジョン・ウィットニーJohn Whitneyが使ったものと同じ濃い油絵である。『近くにおいで』Come Closerはお祭りのような立体実験作品で、3Dメガネで見るのがベストである。『スクラッチ・パッド』Scratch Padはフィルムスクラッチと実写を混合したもので、『ジャイロモルフォシス』Gyromorphosisは金属構造をクローズアップして立体彫刻として構成した作品であり、多重露出でより豊かなものになっている。『オータム・スペクトラム』Autumn Spectrumは「リキッド」フィルムで、水の光景や反射や波の実写ショットと共に編集されている。似ているのが『張り紙禁止』Defense d'afficher (Post No Bills) で、壁から古いポスターを剥ぎとるシークェンスとなっている。

 現存するハーシュ最良の作品は『エネリ』Eneriである(3Dのために制作されたことがほぼ確実)。これはマクラレンの『アラウンド・イズ・アラウンド』Around is Aroundやアレクセイエフの『煙』Fumees(Smoke、1951)を連想させる。この複雑なフィルムでは画面分割が見事に使用され、彼が愛した花火の主題が(ここでは整然とした造形で)再登場している。

その他の実験作家たち

 カリフォルニアムーヴメントの中で映画実験に取り組んだものたちは他にも多数いた。パトリシア・マルクスPatricia Marxはオーストラリアの風景画家だったが、ハリー・スミスの強い影響を受けて非具象絵画に転向した。彼女は『オブマル』Obmaru(1951)や『来るべき世界』Things to Comeを作った。ジョーダン・ベルソンが彼女の絵をアニメートして補助した。『オブマル』はニュージーランドの伝統文化に発想して作られたフィルムで、砂のようなイメージの中に手足や海のシンボルが見られる。

 デンヴァー・サットンDenver Suttonは1948年から1950年にかけて同様の抽象映画を作り、『フィルム・アブストラクションNo.2』Film Abstraction No.2と『フィルム・アブストラクションNo.4』Film Abstraction No.4が現存する。

 エルウッド・デッカーElwood Deckerは針金製立体彫刻のモビールをフィルム化して『カラー・フラグメンツ』Color Fragments(1949)を作った。マーティン・メタルMartin Metalはかつてシカゴデザイン研究所でラズロ・モホイ=ナジLaszlo Moholy-Nagyと共同研究したことのある人物で、『カラー』Color(1947、「構成主義」映画)や『フォーム・エヴォリューション』Form Evolution(1949)を制作した。サンフランシスコの画家ロバート・ハワードRobert Howardは『メタ』Meta(1947)を作り、ここには水に油彩を落として作った流動する形態が登場する。1951年にラ・ホーヤの写真家リン・フェイマンLynn Faymanは『カラー・イン・モーション』Color in Motion(これは1958年に『グリーンスリーヴズ』Greensleevesと『ソフィスティケーテッド・ヴァンプ』Sophisticated Vampの2本に分割された)や『レッド・ドット』Red Dotを作った。

 ドーシー・アリグザンダーDorsey Alexanderはバークレー出身の画家・グラフィックアーティストで、サイレントのモノクロ抽象映画を1947年から作り始めた。彼の初期作品は『ムード』Mood、『インプロヴィゼーション』Improvisation、『雑貨店』Dime Storeである(3番目のものがベストと思われる)。続いて1948年には『天球の生と死』Life and Death of a Sphere——「円形に基づく形態の回転」——を作った。1948年にレナード・トレギラスLeonard Tregillusとラルフ・ルースRalph Luceは『ノー・クレジット』No Creditを作った。これは抽象の目的で粘土が使用された最初のものの一つである。1949年に二人は『発端』Proemで同じ実験を繰り返した。

 音楽家たちもまた抽象映画に魅せられた。

 その一例がハル・マコーミックHal McCormickで、彼の『組曲第2番』Suite No. 2は1947年のアート・イン・シネマ・フェスティバルで発表された。この映画の次に『驚異の一覧』Compendium of Marvelsが続き、これはコミカルな切り紙アニメの第1部と、抽象的な幾何学的ドローイングによる第2部に分れる。

 1957年にジェーン・コンガーJane Congerは2分のフィルム『ロゴス』Logosを制作した。コンガーはカリフォルニア美術学校の学生で、当時はジョーダン・ベルソンの妻だった。『ロゴス』は雪の結晶状の形に基づき、ヘンリー・ジェイコブズ(ヴォルテックス・コンサートの音楽家)の曲がつけられた。1959年に彼女は再び実験作品『がらくた』Odds and Endsを作った。

 以上は全てサンフランシスコで起きたことである。1954年にシネマ・フェスティバルの魂であるフランク・スタウファチャーが亡くなった。彼と共に、若い芸術家たちが新たな世界を発見しようとする粘り強い精神も、自分たちの進歩を互いに分かち合う手段(=フェスティバルそのもの)も消えてしまった。1950年代中期に作家たちは旺盛な独立精神を抱いて制作するようになり、フェスティバル復興の企ても成功しなかった。1960年代までにはニューヨークが実験アニメーションの中心地となった。

 ロサンジェルスにも数人の実験映画作家がいた。チャールズ・イームズCharles Eamesは広告作家として才能を発揮し、1951年に『ブラックトップ』Blacktopを制作した。これは水や泡——舗道に水が落ちた衝撃で生れたもの——に対する光の反射を扱った小品である。『パレード』Parade(1959)にはアニメートされたオモチャが登場し、『コミュニケーション入門』Communications Primer(1953)ではイームズのグラフィックテクニックが初めて証明された。

 アート・クローキーArt Clokeyは映画の他の分野にも関わった人物で、抽象映画『ガンバジア』Gumbasia(1955)を制作し、粘土製の抽象形態をジャズにシンクロさせた。この作品を見た20世紀フォックスのプロデューサー、サム・エンゲルSam Engelは、クローキーに商業映画に適用することを勧めた。その結果生れたのが子供向けTVシリーズ『ガンビー』Gumbeeで、これも粘土アニメーションの技法で作られた。

 ドナルド・ビーヴィスDonald Bevisが『死の舞踏』Danse macabreを作ったのは南カリフォルニア大学に在学中のことだった。後には映画監督・配給者のレイモンド・ロハウアーRaymond Rohauerの資金協力を得て、『パレード』Paradeと『ストリング・タイム』String Timeを制作した。これはジャック・イベールJacques Ibertのスケルツォ2曲を視覚的に解釈したもので、『ホイッスル・ストップ』Whistle Stopもジャズの『ナイト・トレイン』Night Trainに基づいている。これらは立体の抽象アニメーションで作られた。続く『カーニバル』Carnivalはダリウス・ミヨーDarius Milhaudの音楽を元にしている。

 ハンク・ストッカートHank Stockertは『スコープ2』Scopes 2で知られている。これはオシロスコープの技法とヘンリー・ジェイコブズの電子音楽が用いられた抽象映画である。

 ロサンジェルスのアヴァンギャルドアニメーション作家の中で最も重要な人物がソール・バスSaul Bassである。彼の旺盛な好奇心はハリウッドの映画産業の中にその創意の居場所を見いだした。デザイナーとして、またグラフィックアーティストとして高名なバス(1920年5月8日ニューヨーク市生まれ)はオットー・プレミンジャーOtto Premingerに『カルメン』Carmen Jones(1954)のクレジットタイトルを描くように依頼された。1年後、プレミンジャーの『黄金の腕』The Man With the Golden Arm(フランク・シナトラFrank Sinatraとキム・ノヴァクKim Novak主演)でバスはその革命的アプローチで人目を引いた。クレジットタイトルの情報伝達面を脇へ追いやり、タイトル自体の叙述的・造形的重要性によってタイトルを映画の真の序章としたのである。

 その後、バスはおびただしい数の映画タイトルを手がけ、その中にはビリー・ワイルダーBilly Wilderの『七年目の浮気』The Seven Year Itchやマイケル・アンダーソンMichael Andersonの『80日間世界一周』Around the World in Eighty Days(このために素晴らしいアニメシーンをバスは創造した)、オットー・プレミンジャーの『聖女ジャンヌ・ダルク』Saint Joan、『悲しみよこんにちは』Bonjour Tristesse、『或る殺人』Anatomy of a Murderなどがある。バスはアルフレッド・ヒッチコックAlfred Hitchcockのお気に入りで、『めまい』Vertigo(ジョン・ウィットニーJohn Whitneyと協力して、多くの強迫シーンを担当)、『北北西に進路を取れ』North by North-west、『サイコ』Psychoに参加した。後にバスは実写映画(『戦慄! 昆虫パニック』Phase IV、1973)も演出し、短編アニメーション(『人はなぜ創造するか』Why Man Creates、1968)でアカデミー賞を受賞した。

 バスのアヴァンギャルドドローイングはハリウッドのグラフィック・カルチャーに進歩をもたらした。実際のところ、彼が担当したシーンはアヴァンギャルド映画作品というよりアート・ディレクションの産物である。にもかかわらず、それはUPAそれ自体が提示したものより先に進んでいた。1950年代にその影響は全世界に波及し、作家たちはアニメーションをより「シリアス」な世界にしようとやっきになったのである。

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