カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第10章 アニメーションの巨匠達
第10章 アニメーションの巨匠達

ジョージ・パル George Pal

 世界を旅したジョージ・パルGeorge Palに国別の分類は当てはめられない。本名はジェルジー・パール・マルツィンチャークGyorgy Pal Marczincsakで(1908年2月1日ハンガリー、ツェグレード〜1980年5月2日カリフォルニア州ビヴァリーヒルズ)、映画界の最初の仕事はブダペストのスタジオ・フンニアstudio Hunniaの背景デザイナーである。その後ベルリンのUFAに入り、煙草のCMで人形映画第1作を作った。1934年にはオランダのアイントホーフェンでフィリップス社のために制作し、そこで提供されたパペットアニメスタジオにおいて有名な『フィリップス・ブロードキャスト1938』Philips Broadcast 1938を制作した。オランダ時代にはイギリス市場向けのCM映画も何本か撮った。1940年にはアメリカへ渡り、彼のキャリアは頂点に達した。ここから1949年までにパラマウントとの契約で人形アニメシリーズの『パペトゥーン』Puppetoonを制作した。これはユニークなシリーズで、主演の黒人坊やジャスパーJasperはアメリカの黒人ヴォードヴィルのステレオタイプに基づいていた。その後、パルは特撮のエキスパートとなり、5つのオスカーを受賞、最終的にはファンタジーフィルム、例えば『ドク・サベージの大冒険』Doc Savage, The Man of Bronze(1975年。マイケル・アンダーソンMichael Anderson監督)などのプロデューサー・監督になった。

 パルは自分の詩的世界の演出において偉大な作家だったというよりは、動きに関して無類のテクニシャンであり、ショーマン気質の人物だった。手際良く様式化された人形は見事に演技し、その作品には躍動感あるモブシーンやペーソス、実写映画的な構図スタイルが見られる。

アレクサンドル・アレクセイエフ Alexandre Alexeieff

 アレクサンドル・アレクセイエフAlexandre Alexeieffは1901年4月18日[8月5日説あり]ロシア中部のカザンに生まれた。母は校長で父はツァーリの帝国官吏だった。間もなく父親がコンスタンティノープル(現イスタンブール)のロシア大使館付陸軍武官に任命され、一家はボスポラスに出発した。そこで幼いアレクサンドルはロシア語よりも先にフランス語を覚え、魔法のような日々を過ごした。これはドイツで任務遂行中の父親の不可解な死によって終わり、彼はこの時期を神話的な思い出として抱き続けることになる。ロシアに戻ったアレクセイエフは、10才でサンクトペテルブルクの士官学校に入学し、そこで1人のユニークな教師から最初の芸術教育を受けた。この教師はモデルをスケッチするかわりに、記憶でスケッチすることや読書から受けた印象を絵にすることを生徒に命じたのである。1917年10月には青年責族であったアレクセイエフも熱狂的に革命運動に参加した。だが、続いて悲劇と不正義——特に叔父の1人(社会主義者で革命期には労働者と農民の保護者だった)がボルシェヴィキによって捕らえられ処刑されたことがアレクセイエフを革命から遠ざけた。サンクトペテルブルクでのコースを終えた彼は軍艦に乗り込み、日本、中国、インド、エジプトに航海した。1921年、乗組員はユーゴスラヴィアのドゥブロヴニクで解散した。画家を夢見たアレクセイエフは、パリに亡命していた装置家セルゲイ・スデイキンSergei Sudeikin宛の紹介状を手にマルセイユに上陸し、その後、フランスの首都にたどり着いた。

 アレクセイエフ「この時期、パリには30万人のロシア人がいると言われ、その中には劇団のメジャー・アーティストたちがいた。ディアギレフDiagilevの有名な[ロシア]バレエ団、ピトーエフPitoev、スデイキン、アレクサンドル・ベヌアAleksandr Benuaたちだ」
 アレクセイエフは数年間舞台装飾家として働き、芸能界の空気を吸い込み、モンパルナスのグランド・ショミエールのアカデミーで絵画のレッスンを受けた。

 1925年、彼は豪華本のイラストレーションとエッチングに専念した。この活動は経済的安定を保証した。しかし、30才の時にアレクセイエフは不満な時期を経験する。

「私は全てがおこなわれてしまったという印象を受けた——私に可能なことは全部だ。私はイラストを描き、そこから収入が入ってくる。つまり万事好調だった。だが、これは芸術などではない、ただの工芸品だ、そう私は不平をこぼしていた。当時は『カリガリ博士』Das Kabinette des Dr. Caligari〔1919]やチャップリンの『サーカス』Circus[1928]『キッド』Kid[1921]、エイゼンシュテインEizenshtein映画[『戦艦ポチョムキン』Bronenosets Potyomkin(1925)、『十月』Oktyabr'(1928)]の時代だった。映画は興味の対象としては申し分なく、友人の作家も関心を抱いていた。私は自分に言い聞かせた。『映画を作ろう。たった1人で。立派な設備は要らない。エルドラドは要らない。私の創作は製品ではなく芸術作品なのだ』」
 “ピンスクリーン”Pinscreenのアイディアが浮かんだのはこの瞬間だった。版画家アレクセイエフは明暗法[明暗の対比を強調して劇的な効果を生む技法。レンブラントやカラヴァッジオが得意とした]や灰色のグラデーションを駆使して複雑で洗練されたイメージを表現することができた。これはそのスタイルに対応してとりわけダイナミズムを必要とするイメージである。その複雑さは伝統的テクニックを使用するアニメーターならば誰もが意気喪失するほどのものだった。従ってアレクセイエフにとっては“版画をアニメートする”方法を発見することが必要だった。
「自分のアトリエで私1人だけで制作し、望み通りのイメージを自分自身で作り出す方法を見つけなければならなかった」
 そのとき彼は白いスクリーンの上に数千本のピンを格子状に配列し、垂直に通すことを思いついた。スクリーンの両側に2つの光源を置けば、ピンはそれぞれ2本の影を作り、この影の合計がスクリーンを完全に黒にするのである。この影を短くして対応するゾーンを明るくするには、ピンの群を押し込めば良い。ピンを基底まで戻すことで、影は全く消滅し、表面の白だけが残る。この方法でアーティストはどんな形でも得ることができ、あらゆる階調の灰色が思いのままになる。このイメージを少しずつ修正し、新しい画面をそれぞれ撮影することで、版画アニメーションが表現可能になるのである。

 もしクレア・パーカーClaire Parkerがこの芸術家の人生に登場しなかったならば、恐らくこのアイディアは計画段階に止まっていただろう(アレクセイエフはムソルグスキーMusorgskiiの音楽の“映像化”を考えていた)。クレアは1906年8月31日ボストンに生まれ、“ロスト・ジェネレーション”の多くのアメリカ青年と同様に、この時期パリに滞在していた。ほとんど偶然に彼女はアレクセイエフのイラスト入りの本を手にした。彼女はアレクセイエフに賛辞とレッスンの依頼を書き送った。これが最も堅固で持続することになる人間的・芸術的協同関係の始まりであった。クレア・パーカーの助力でアレクセイエフは作品を具体化する決心をした。

 1932年、2人は『禿山の一夜』Une nuit sur le Mont Chauveの制作に18ヶ月問の昼夜を費やした。アレクセイエフは暗がりでムソルグスキーの音楽を何回も聴き返し、頭の中にひとつずつイメージを組み立てていった。通常アニメーションでおこなうように事前にスケッチを描くことは不可能で、撮影に失敗しても訂正手段はなく、最初からやり直さなければならない。1933年、フィルムはついに完成した。友人と専門家の前で上映されたフィルムは高い評価を得ることに成功した。それに対して配給者たちは、少なくとも年12回上映しなけれぱ最低限の利益をあげることができないと反対した。これより2人は創作映画を脇に置いてコマーシャルの活動に転じた。

 当時CFはまだ片言の時代であり、クリエーターに残された自由の範囲は比較的広かった。クレアとアリョーシャAliosha(この芸術家を親しみをこめて呼ぶ愛称)は数人の友人と共同制作し、その中にはアレクセイエフの前妻アレクサンドラ・ド・グリネフスキーAlexandra de Grinevskyもいた。彼らは数本の古典的小品を制作し、これはとりわけ美しい背景や繊細な光の戯れ、毎回異なるテクニック——ただしピンスクリーンは一度も使用していない——などで際立っていた。少なくとも『眠れる森の美女』La Belle au bois dormantは挙げておくべきであろう。これはワイン会社[ヴァン・ニコラ社Vins Nicolas]の製作で、協力者たちがいた中からもアレクセイエフの刻印は疑いなく見てとれる。

 宣戦布告と共にアレクセイエフ一家はパリを離れて、アメリカへ逃れた。アメリカの労働条件は非常に厳しいものだった。大“映画会社”に束縛されたアニメーションは亡命ロシア系フランス人の才能に対して最低の関心しか示さなかった。彼は新たに最初のものより大きく完全なピンスクリーンを組み立て、カナダNFBのために『道すがら』En passantを制作した。フランス語圏ケベックの歌に基づいて構成したこのフィルムは非常に短く、10年の沈黙の後、初めての“フリー”作品だった。アメリカでアレクセイエフは版画活動を続け、カラー版画を得ることのできる方法に専心した。戦後まもなく、彼はパリに戻った。

 1951年、彼はより抽象的な実験、つまリソリッド・イリュゾワール・アニメーション[“ソリッド”=“立体”、“イリュゾワール”=“イリュージョンの”]に没頭する。これは言わぱ、動く光源が長時間露出でフィルムにトレースする立体である。アレクセイエフはこのトレーサー(特に、照明された金属球)を複合振り子に連結し、その振動は数学的に計算・プログラムされる。トレーサーが作り出す様々な形をコントロールすることで、この感覚的現実には存在しない立体をアニメートすることもできるのである。アレクセイエフ「要するに運動の第二段階なのだ」彼は、“トータリザシオン”と名付けたこのテクニックで数本のコマーシャルを撮り、『煙』Fumees(1952年のヴェネツィア・フェスティヴァル特別實)もその1つである。

 1962年にはアレクセイエフのイラストのファンだったオーソン・ウェルズOrson Wellesが、カフカKafkaの小説を翻案した制作中の映画『審判』Le Procesのプロロ−グの撮影を依頼した。アレクセイエフはピンスクリーンで絵を描き、それを1枚1枚撮影したが、アニメー卜はしなかった。上映後、評論家の多くはこのプロローグが本編より優れていると評した。1963年、アレクセイエフはニコライ・ゴーゴリNikolai Gogol'の同名小説を原作とする『鼻』Le Nezを制作した。1972年には多くの点で彼の第1作と関連する作品『展覧会の絵』Tableaux d'une expositionを完成させたが、これはムソルグスキーが「画家にたいしてイメージを喚起する」まさにそのために作曲した音楽に基づいている。このフィルムは3部作——このロシア人作曲家の『展覧会の絵』全てを含む予定だった——の第1作となるはずだったが、素材の困難さから計画の続行を断念した。1975年、アレクセイエフは『フィニスト』Finist(ロシア民話)のためにスケッチと背景を提供したが、これはローマのコロナ・チネマトグラフィカCorona cinematograficaの製作で、イタリア人のジョルジオ・カストロヴィラーリGiorgio Castrovillariがアニメートした。

 1977年、彼は『三つの主題』Trois themes(1年前に製作した新しいピンスクリーンを使用)に取りかかり、これはムソルグスキーの『展覧会の絵』中の別の3曲に基づいている。これに関して彼はこう書いている。

「“アダージョ”“マエストーソ”“レント”[それぞれ「ゆるやかに」「荘厳な」「おそく」]という用語はアニメーションにおいてはいまだに場所を得ていない。アニメーションは“スケルツォ”[諧謔曲。速いテンポの器楽曲]に限定され、エレジー、牧歌などの叙情的テーマを締め出している。これはアニメーションを減速することが、不可能とまではいかないにせよ、困難であるためだ。しかし、これこそ私がやろうとしたことだ」(1978年2月14日付ベンダッツィ宛書簡)
 『三つの主題』は1980年ミラノでプレミア上映され、2人のシネアストに敬意を表する栄光の夜となった。これは白鳥の歌であった。1981年10月3日、クレア・パーカーはパリで亡くなった。アレクサンドル・アレクセイエフも1982年8月9日その後を追った。

 1922年に予言好きのエリー・フォールElie Faure[フランスの美術史家。1873〜1937]はこう書いていた。

「アニメーションのことは御存じだろう。現在上映されているアニメーションはいまだ無味乾燥で貧弱であり、私が思い描く姿に比べれば、ティントレットTintorettoのフレスコ画やレンブラントRembrandtの油絵を、黒板の子供の落書きと比べるようなものである。実際に三・四世代が以下の課題に従事したと仮定したまえ。深みをもって——面や線ではなく、厚みとヴォリュームによって——イメージをアニメートすることや、ヴァルールとハーフトーンで連続運動を造形することに。長期のトレーニングが少しずつこれを習慣化して、ついに反射作用にまで変える。その時こそ、芸術家は光・影・森・都市・砂漠を舞台として、悲劇・牧歌・喜劇・叙事詩のために、これを自由自在に駆使できるのだ。ドラクロワDelacroixの心・ゴヤGoyaの情熱・ミケランジェロMichelangeloの力を備えた芸術家を想像してみたまえ。彼はスクリーン上に自分自身から迸り出た造形映画の悲劇を投げかける。これは豊かで複雑な視覚シンフォニーであり、急速に無限のパースペクティヴを開くのだ。その神秘性は人を興奮させ、その感覚的リアリティは最高の交響曲よりも人を感動させる。これは遠い希望ではあるだろうが、実現可能であるかどうかはわからない…」(「造形映画について」De la cineplastique)
 必要なのは三・四世代ではなく、11年だったのである。『禿山の一夜』は1933年、エリー・フォールの生前に上映された。フォールの美文調や引用された名前の比喩を捨象するならば、このテクストは真に予言的であり、アレクセイエフの作品が運動イメージの芸術にどのような進展をもたらしたのかを示している。

 アレクセイエフはメジャー・アートの作家であり、スーポーSoupault、マルローMalrauxのような文学者の友人であった。また、中心人物ではなかったにせよ(騒動と自己顕示にたいして生来の嫌悪感を抱いていた)シュルレアリストやアヴァンギャルディストの宣言に注意深く参加していた。彼は永きに渡って実験映画作家として分類され、映画史にもたらした言語的新しさが彼の価値を決定付けていた。『禿山の一夜』は音楽と視覚盲楽の一致という古い問題に対する回答として昔も今も考えられてきた。彼の版画アニメーションは映画言語の新しい言語的可能性を提示することであろう。以上のことは恐らく全部その通りである。だが、この実験的側面はアレクセイエフという多面体にとっては二次的・補足的なものである。ピンスクリーンはそれ自体のための発明品ではなく、自分に合った道具を作ろうとした試みなのであり、彼自身の幻想を実体化できる唯一の道具なのである。

 『禿山の一夜』は映像詩であり、多様で曖昧な意味作用に対する尽きせぬ叙情的喚起の源である、音楽は並行するテクストとして、映像の流れが常にこれを参照するが、リズムや音色との機械的関係は存在しない。映像は音楽を豊かにし、その逆もおこなわれている。これは喚起するプロセスであり、2つの創作は相互に尊重しつつ、それ自体のヴァイタリティを保っている。この映画作家は音楽家に呼びかけ、2人は深い精神的絆と共通の民族的出自によって結び付いている(このロシアという祖母をアレクセイエフは多かれ少なかれ常に心に秘め抱いていた)。アレクセイエフのイメージはムソルグスキーの描写的旋律やゴーゴリの小説『イワン・クパーラの前夜』Vecher nakanune Ivana Kupala、そしてプーシキンPushkinの詩にヒントを得ている。アレクセイエフの制作プロセスは次のようなものである。あるテクストや記憶、言葉に遭遇し、まず、この遭遇がファンタジーを溢れ出させるのだ。ヴォリュームは微妙に変化して、時に密接に溶け合うため、『禿山の一夜』には純粋・単純な“デッサン・アニメ”に見られるものはほとんど存在しない。これは“版画アニメーション”である以上に、未だ想像されたことがない幻想宇宙にたいして不意に開かれた窓なのである。イマジネーションは灰色の無限の階調によって実体化する。アレクセイエフは数多くの会話で語っている。

「私の時代の芸術家たちは面と線を用いていた。私は微妙なニュアンスしか望んではいなかった。彼らはトランペットを吹き、私はヴァイオリンを弾こうとしていたのだ」
 周知のように、この映像詩人は友人の作家や画家とは全く違ったポジションにいた。友人たちはもっと知的で文化的な、芸術性では劣る探究に従事していた。実験作家アレクセイエフにたいする誤解は、「変化がない」、晩年の創作に至るまで「いつも同じフィルム」を作っていると非難する類のものである。テクニックに関する限り、この非難は正しい。ピンスクリーンは『道すがら』『鼻』と同じく、『展覧会の絵』『三つの主題』でも使用された。しかし、内的・詩的発展には著しいものがある。1933年のフィルムの荒々しい“ゴシック的”ヴィジョンから、『展覧会の絵』では典雅なメロディや幼年期の記憶とロシアの伝説が織りなすイメージヘと移行した。2つのピンスクリーンの一方が他方の前を回転する複雑なリズムが、もはや存在しない世界や再見不可能な習俗に対する哀悼を歌いあげる。構成は複雑極まりなく、イメージ同士の照応と参照に満ちている。アレクセイエフは書いている。

「『禿山の一夜』を作りながら、私は善と悪、昼と夜の戦いを表現していると考えていた。ずっと後になって、父の死と陰鬱になってしまった母の変貌のドラマを語っていることに私は気づいた。これは無意識に、それと知らずにやったことだ。このことを私は20年後に理解した。あの頃、私はまだ30才だった。人間が絵画を動かすことは可能なのだと証明する必要があった。70才のとき私は『展覧会の絵』を始めた。これは私にとって、アニメーションが詩でありうることを示し、映画が“写真”を放棄できることを証明し、また、対話におけるある種の文法的形態——交代する2つのピンスクリーンによる、2つの主題をもつソナタのようなもの——を探究する機会だった。その上、『展覧会の絵』はあらゆる芸術作品と同じく、作者ムソルグスキーの自画像だ。もちろん、このフィルムは私自身の自画像であるかも知れない。結局のところ、私にはそれを知ることはできないし、これから知ることもないだろう」(1971年10月25日付ベンダッツィ宛書簡)
 それからすこし後のこと、

「12月17日、『展覧会の絵』の初号を試写した。このフィルムは『禿山の一夜』に匹敵するとはいえ、全く違うものであるとも思う。これを理解するまでには20回は見なけれぱならないだろう(良き詩においてもこれは真実だ)」(1971年12月19日付ベンダッツィ宛書簡)
 物語と詩の問に分水嶺があるとすれば、それは恐らく、日常的な感覚的経験に基づく論理法則に対する、言語の適用方法によって表されるだろう。物語叙述のコミュニケーションは前後関係や真偽、因果関係を常に考慮する。詩のコミュニケーションはそのようなものではない。これは本質的に無時問的で、それ自体の内的時空間を持ち、心の中で自由に発生するイメージとその相互作用によって自己表現する。これは論理法則ではなく読者の感情的緊張によって構造化されるのである。物語的ジャンルと日常的・感覚的世界の間にある緊密な関係は、映画にたいして重大な結果をもたらした。具体的な世界を撮影し、現実のシーンに基づくことで、映画芸術は現実的な論理カテゴリーの適用を受けて、物語の支配する場となってしまったのである。エイゼンシュテインの“知的モンタージュ”の試み(『十月』におけるような)が失敗してからというもの、現実ではなく、作者の知的創造物を対象とする映画のみが物語の呪縛から逃れられることは明らかだった。

 これがエッゲリングEggelingやルットマンRuttmannの作品のケースであった。しかし、抽象イメージのリズミカルな流れが表現していたのは、抽象音のリズミカルな流れ、つまり音楽に相当するものであった。詩に到達するためには、意味を備えた具体的イメージを配置し、それにリズム構造を与える必要がある。そのイマジネーションとスタイルのおかげでアレクセイエフはこの要求を満たすことに成功した。彼の明暗法は、幼年時代の記憶、異教的ロシアの伝説に結び付いた悪夢と幻視、そして彼の祖国のイメージから生まれている。これはこの芸術家自身が強調したように、高度に自伝的な要素であり、その作品を叙情詩のアンソロジーとした要素である。

 ある意味では、彼のデカダンティズムについて語ることもできる。ただし、現在通用している「デカダン」という卑俗な意味ではなく、歴史上のデカダンティズムの話である。「デカダンティズムやロマン主義が今世紀初頭のアヴァンギャルド運動に吸収されたという点において言えぱ、アレクセイエフの芸術はアヴァンキャルドとみなすことができる」とジャンニ・ロンドリーノGianni Rondolinoは書いている。ロンドリーノはさらに、アレクセイエフが当時熱狂していた知識人たちに加わったことについても語っている。「彼は多くを観察し、そして学んだ。だが、探究や実験に熱中しすぎるあまり我を忘れることや、自分自身の芸術的表現を見失うことは避けた」(「アレクセイエフ展カタログ」Catalogo della mostra in onore di Alexeieff 監修:ジァンナルベルト・べンダッツィ、Milano,1973)アレクセイエフの芸術は彼の孤独——流行を追いかけることなく、その結果大衆から拍手喝采を受けることはきっぱりとあきらめるという自覚——からその力を引き出している。これは洗練され、時に責族的ではあっても、決して“カルトな”芸術ではない。ホフマンHoffmann、ポーPoe、ドストエフスキーDostoyevskii、パステルナークPasternakは人間としてのお手本よりもむしろ旅の伴侶である。彼らは自分以外の主人を持たす、その芸術は本からではなく人生から生まれたのである。

 この2つのきらめく詩的作品(『禿山の一夜』『展覧会の絵』)に比較すると、『道すがら』『鼻』はより平穏でなめらかである。ゴーゴリのテクスト(床屋がパンの中に鼻を発見し、青年が鼻なしで目覚め、鼻自身は自分の人生を送ろうとする…)から着想した『鼻』は、イラストレーターとしての側面を表している。イラストレーター・アレクセイエフはイメージを翻訳するために、文字を追わずにその神髄を捉える。『鼻』はテクストの筋を反復しないで、“ゴーゴリヘのオマージュ”である自律した散文詩を創造する。その中には、物語のあらすじとはほとんど関係なく、19世紀ロシアの織密なイメージ、時間と空間の印象的な総合、オブジェ・建物・生き物のメタモルフォーゼ、地面から現れ、ただそこにいるだけで何者ともコミュニケートしないままに消え去る黒い神秘的な姿などが挿入される。現代のシュルレアリスム物語の見事な実例であり、シュルレアリスムが「自然な習慣になった」人間が構想した作品である。

 『審判』のために制作したプロローグも同様に本のイラストレーションを想起させる。スチールのイメージがスクリーン上に次々と続いて行き、手でめくったページのようである。これに施した唯一の変形は、最大の明るさから最大の暗さへの移行であり、フィルムに感光する際に得られたものである。この経験の価値は、カザンの芸術家が版画家として達成した仕事の長い検討を要求することだろう。彼の版画は明らかにその映画作品と結び付いた魅力的な仕事である。彼は文字ページとイラストページの間に真のモンタージュを理論付け、適用した。そして、ドラマツルギーから生まれ、従って不規則であるリズムで、イラストページと文字ぺージが続くのである。しかし、これは現在の研究の主題からは外れており、別個に取り扱われる価値があるだろう。

 『三つの主題』は最晩年の作品であり、いわば別れの挨拶であると同時に遺言でもある。第1部は非常にゆっくりとしたイメージが重なり合うロシアの田園風景の最後の思い出である。第2部は『展覧会の絵』のいくつかのシークェンスを自己引用として反復し、自分自身のインスピレーションを再確認する。第3部はゴルデンベルクGoldenbergとシュムイレSchmuyleを舞台に乗せる。前者は鈍重な金持ちであり、ハンマーの一振りでいつでも金を生み出すことができる。後者は弱々しい小鳥に似ており、貧乏な芸術家である。後者はムソルグスヰーの容貌を備え、アレクセイエフ自身の説明によれば「金持ちと対決する芸術家のシンボル」を表現している。ここにアレクセイエフ自身の自画像を見ないことは不可能である。彼はその厳格な生涯を通じて、常に商業主義的妥協を拒否していたのである。この文章はアレクサンドル・アレクセイエフの創追に力点を置いているが、作品制作の中でクレア・パーカーに帰属する部分は過少評価されるべきではない。鋭い運動感覚を備えた鼓舞者・激励者であり(彼らは好んで自らを“芸術家とアニメーター”として定義した)、伴侶の大胆極まりない夢想を論理的に触媒することのできたクレアは全てのフィルムにおいて当然の権利として連名になっている。うちとけた会話の途中で、ほとんど冗談から、2人は次の質問を互いに交わした。「私達には何ができただろうね、もし別々に働いていたとしたら?」 1人で質問を受けたとき、クレア・パーカーはためらわなかった。「本当のクリエーターは彼です」と彼女は言ったのである。

ノーマン・マクラレン Norman McLaren

 ノーマン・マクラレンNorman McLarenは1914年4月11日、スコットランドのスターリングに生まれ、早くから芸術に対する志向を見せた。インテリアデザイナーだった父は当然絵画にも関心があり、1933年に息子がグラスゴーの美術学校で勉強したいと要求したとき拒まなかった。この場所で若きマクラレンは映画を発見した。彼は学校でフィルム・クラブを作り、同時代の巨匠達----ソ連の作家、ドイツ表現主義----のフィルムを倦むことなく見続けた。彼は壊れた35mm映写機が学校の地下室に廃棄されていたのをたまたま発見し、自作の映画を上映するためにこれを修理した。キャメラがなかったので、マクラレンはフィルムにダイレクトペイントした。古いポジフィルムを水の入ったボールに浸し、乳剤を取り去って、2週間後にはカラーの円や点を透明フィルムの上に描き始めた。出来上がりは上映するほどの結果ではなかったものの、これは将来を約束された実験だった。

 1934年から36年にマクラレンは16mmのフィルムを何本か作った。作品は教授から賞賛を受け、地方のフェスティヴァルでも突出していた。これらは実写映画で、スローモーションや特殊効果や色彩によってその価値が高められていた。中でも、反戦映画『ヘル・アンリミテッド』Hell Unltd. (1936)は戦争や軍国主義に対し、マクラレンには珍しいどぎつさでナショナリストを攻撃したフィルムである。これは戦争と軍国主義に対して直接的なスタンスをアピールしたものだった。

 1937年にマクラレンはロンドンのGPOに就職した。GPOはグリアソンGriersonとカヴァルカンティCavalcantiがバックアップしており、マクラレンはフィルムのダイレクトペインティングで彼に先行していたレン・ライとともに働いた。ここでマクラレンは2本の実写ドキュメンタリーと2本のアニメーションスケルツォ『モニー・ア・ピックル』Mony a Pickleと『ラヴ・オン・ザ・ウィング』Love on the Wing(共に1938年)を作った。後者はフィルムに描き込んだ部分を含んでおり、これはマクラレンがこのテクニックを公式に使用した最初のものである。

 GPOを去った彼は、少しの間ロンドンのフィルムセンターに加わり、それからアメリカに渡った。1939年、彼は300ドルと仕事への決意だけを抱いてニューヨークに上陸した。数ヶ月間職を探した後、『点』Dotsや『ループ』Loopsなどの非常に短い短編映画のためにグッゲンハイム財団the Guggenheim Foundationから資金援助を受けることになった。これらの短編は2分強しかなく、フィルムにダイレクトペイントしたものだった。登場するのはカラー図形で、これが互いに引きあい、反発しあい、また融合・分離する。サウンドも抽象音で、サウンドトラックを機械的に操作して得られたものである。マクラレンの合成音に対する関心は映像のない『ルンバ』Rumbaで頂点に達し、これは人工的に作られた音楽だけで構成されている。『スターズ・アンド・ストライプス』Stars & Stripesはより伝統的で、アメリカ国旗から引用されたイメージがフィルムにダイレクトペイントされ、同名のポピュラーソングがフィーチャーされている。

 ニューヨーク時代の最後の作品『スプーク・スポーツ』Spook Sportは抽象アニメ作家メアリー・エレン・ビュートMary Ellen Buteとの合作である。ただ、この作品はマクラレンにとって、またビュートにとってはなおさら満足の行くものではなかった。その一方で、ビュートとジョン・グリアソンはカナダ政府の依頼を受けて国立映画製作庁を設立する任にあたっていたが、彼らはマクラレンを招き、オタワで新たな協力関係が始まった。27歳のマクラレンはカナダに自分の探求に最適な地を見出した。彼は2年間短編映画を作った。その目的は市民に国防債を買わせてカナダの戦争遂行を助けることであり、インフレの危険性と貯蓄の推進を解説するものだった。これらのフィルム『とりの踊り』Hen Hop (1942)、『ドルのダンス』Dollar Dance (1943)、『勝利のV』V for Victory (1941)は同時にフィルムメイキングにおける比類なき実験でもあった。

 1943年、マクラレンはカナダNFBにアニメーション専門の独立部門を組織するように依頼された。若い前途有望なアニメーターや美術学校の学生、アマチュアがスカウトされた。その結果、ジョージ・ダニングGeorge Dunning(未来の『イエロー・サブマリン』Yellow Submarineの作者)、ジャン=ポール・ラドゥスールJean-Paul Ladouceur、ルネ・ジョドワンRene Jodoin、ジム・マッケイJim Mckay、グラント・マンローGrant MunroらがNFBに加わった。1944年にマクラレンはジョドワンとの合作で切り紙アニメを製作した。『ヒバリ』Alouetteはマクラレンの実験の第2段階の始まりである。

 マクラレンはフレンチカナダのポピュラーソングを3つ映像化した。それが『これが櫂だ』C'est l'aviron (1943)、『灰色のめんどり』La Poulette Grise (1947)、『山の彼方』La-haut sur ces montagnes (1945)で、マクラレンはここで二つのテクニックを完成させ、二つのスタイルを示した。一つが限りなく前進するトラヴェリングであり(『これが櫂だ』)、もう一つがパステル画の連続メタモルフォーゼである(『灰色のめんどり』)。マクラレンは同じようなプロセスを絵画にも応用した(自動的に描かれていく絵画)。その第1作が『19世紀の一絵画に基づく小さな幻想』A Little Phantasy on a 19th Century Paintingで、アルノルト・ベックリーンArnold Boecklinの『死の島』The Isle of the Deadから組み立てられている。しかし、この作品はマクラレンの作品中もっとも成功しなかった部類に入る。第2作の『幻想』A Phantasy(タンギーTanguyに漠然とインスパイアされた絵画が描かれていく)にも同じ欠点が認められる。

 1947年、マクラレンは再びフィルムのダイレクトペイントに戻った。今回彼が望んだのはフレームの束縛を逃れ、フィルムに縦長に描くことだった。この新技法を最初に試みたのが4分の『フィドル・デ・デー』Fiddle-De-Deeで、2回目はより複雑な10分の『過去のつまらぬ気がかり(色彩幻想)』Begone Dull Care(1949年。オスカー・ピーターソン・トリオOscar Peterson's trioのジャズミュージックがついている)である。『過去のつまらぬ気がかり』はいくつかの賞を受賞し、ピカソは「ついに新しきもの来れり!」と賞賛した。

 1949年、マクラレンはユネスコ後援の仕事で中国に渡った。目的は予防教育に携わる現地の芸術家にヴィジュアル・コミュニケーションを教えることであった。彼は満たされた心とより豊かな精神を胸に帰国し、その身を案じていた友人を安心させた(当時マクラレンが働いていた四川は国民軍が撤退し革命軍が進出していた時期だった)。

 1951年には『アラウンド・イズ・アラウンド』Around is Aroundで立体視の問題にアプローチした。1年後にマクラレンはコマ撮りを人物に応用した。

 『隣人』Neighborsでは互いに尊敬していた隣人同士が(演じるは同僚のグラント・マンローとジャン=ポール・ラドゥスール)境界線問題をめぐって(二人の家の境目に1輪の花が咲く)憎しみと暴力へ、そして殺し合うに至る。人間の動きのコマ撮りが驚くべき効果を挙げている。このオリジナル版はオスカーにノミネートされた。マクラレンはソーシャルプロジェクトに従事していたインドで祝電を受け取り、こう答えた。「ありがとう、でも、オスカーって誰?」

 1954年には『ブリンキティ・ブランク(線と色の即興詩)』Blinkity Blankを制作。これは黒味のフィルムを針とカッターで削ったものである。

 コミカルな『算数遊び』Rythmetic (1956)や『いたずら椅子』A Chairy Tale (1957)、『ツグミ』Le merle (1958)の後、マクラレンは再び抽象に回帰した。『直線(垂直線)』Lines Vertical (1960)では踊る線が登場し、2つ、4つと分かれて最後に再び1本の線に戻る。この純粋に幾何学的な抽象は薄暗い色をバックに繰り広げられる。これに続く『直線(水平線)』Lines Horizontalも同様のフィルムで、プリズムによりXY軸を変換したものである。

 『開会の辞』Opening Speech (1960)、『カノン』Canon (1964)、『モザイク』Mosaic (1965)に続いて、マクラレンは『パ・ド・ドゥ』Pas de deux (1967)を制作した。おそらくこれは彼の最高傑作であり、また古今東西のアニメーションの中でもベストの一つだろう。

 1969年には20年間お蔵入りしていた『球』Spheresにバッハの曲をつけてサウンドトラックを完成した。その後、視覚音楽と聴覚音楽が同時に登場する『シンクロミー』Synchromy (1971)やスローモーションを用いた『バレー・アダージョ』Ballet adagio (1972)を公開した。後者ではバロック音楽(アルビノーニAlbinoniの『アダージョ』Adagio)が抑制された情熱と張り詰めた筋肉の「バロック」なイメージにマッチしている。

 マクラレン最後の作品『ナルシス』Narcissus (1983)はダンス3部作のラストである。制作面・健康面、そしておそらくはインスピレーションの欠如のため、完成したフィルムは当初の計画から大きく離れている。不満な点もいくつかあり、ヴィジュアルの創造性や精密な造型に欠けている(これらは彼の最良の作品の特質であったのだが)。マクラレンは1987年1月26日にモントリオールで没した。

 マクラレンの人生に起きた出来事はその作品と探求に分かち難く結びついている。彼はNFBの提供する経済的社会的庇護の下にあった。「民主国家の中の宮廷芸術家」という類を見ないポジションにあって、マクラレンは文化の送り手であり、自己表現するためのサポートと資金を得ていた。彼の作品が決して大衆のためには作られなかったこと、その反対に時代から隔絶した頑固で隠者のような人物から生み出されたことを考えると、この特権はなおさらユニークである。

 一瞥するとマクラレンの作品は見るものを当惑させる。作品に満ちている見慣れぬ技法、「意味」の不在、外見のとっつきにくさは他のヴィジュアル・コミュニケーション手段に親しんでいるものにとっては難解な要素である。ピカソの『アヴィニョンの娘たち』Demoiselles d'Avignonから歳月を経てなお、多くの観衆は非具象美術(そして非具象映画)を受け入れる感覚を獲得していない。確かにマクラレンの作品の全てが抽象作品ではないし、「内容」も備えている。たとえば『隣人』や『いたずら椅子』は楽しめる哲学的寓話であり、彼の抽象作品にも豊かな造型性やストーリーの流れを持つ作品は存在する。だが、その内容の意味するところにマクラレンはほとんど関心がなかった。彼の言葉を借りれば、「アニメーションは動く絵の芸術ではなく、絵の動きの芸術」なのである。肝心なのは1枚の絵ではなく、一連の絵と絵の間に生み出されるものにある。「私にとって、全ての映画は一種のダンスである。なぜなら、映画の中で最も重要なことは運動、動きなのだから。何を動かすかは関係がない(俳優であれ、オブジェであれ、絵であれ)。どんな方法で動くにせよ、それは一つのダンスなのだ」

 もう一度、抽象映画と音楽の違い、光のリズムと音のリズムの違いを見ておこう。抽象映画は交響曲のようなものである。楽曲は「意味」をまったく必要としないし、ストーリーや造形的な内容を欠く事が多い(ムソルグスキーはこの法則の唯一の例外である)。マクラレンのスタイルはとりわけリズムによるところが大きく、ヴィジュアルとサウンドのリズムが協調(あるいは融合)するのが特徴である。作曲家が異なる楽器のパートを作曲するように、マクラレンは人体、オブジェ、絵画、フィルムのスクラッチにリズムを与えるのである。

 マクラレンの作品を一人の音楽家の作品として取り扱うというアプローチをとるなら、『ブリンキティ・ブランク』がただ単に黒味のスクラッチングというテクニックを発見しただけの作品ではないことがわかるだろう。この作品は先人が空想してみたことさえない視覚ジャズのパッセージである。黒の空間、暗黒の時間には現代音楽における休止と同じ意味・効果がある。ここで作り出された認知状況の中では、フラッシュするイメージ(持続時間が1コマだけのこともある)さえもが生命と力を獲得する。バックの暗がりからほとばしる光の筋は空間を縫ってダンスし、そのテンポはかつて存在したことがない。

 「私は『実験的作家』であるだけではなく、むしろそれ以上に『実験する作家』なのだ」とマクラレンは語った。彼の複雑なパーソナリティは単純に規定することを許さない。レオナルド・ダ・ヴィンチの精神的直系だった彼は、科学、芸術、技術、スタイルを、同じ価値体系を構成する総体としてとらえていた。彼にとってはテクニック面に挑戦することが重要であった。技法の探求が先で、その後にフィルムの主題が決まる。技術的原理さえわかれば、創作上の挑戦に立ち向かうのである(「シュルレアル」な方法で)。「作品を制作しているとき、そのアニメの大部分はあらかじめ計画されたものではない。単にこれは毎日進展していくものであり、その具体的・創造的特性は無意識の流れから生まれてくるのだ。私はこの無意識をコントロールしないように気をつけている」

 マクラレンの作品には実用的論理と創造的感性の切れ目ない対話がはっきりと認められる。グラフィックやヘレニズム的ともいえる構造のバランスを使うと同時に、サウンドとイメージの創意にも溢れている。

 『シンクロミー』は彼の成熟を示し、その長年の探求の総括とも言うべき作品である。サウンドトラック上の音楽イメージがヴィジュアルとしても表現され、ヴィジュアルイメージの運動がサウンドの運動でもある。ここではイメージとサウンドの一致する作品を構成するという野心的な目標が他のどれよりも達成されている。ギャヴィン・ミラーはシェイクスピアをもじって「目で聴き、耳で観る」と指摘したことがある。綿密な研究・厳密な論理的構造と同時に、マクラレンは色彩の奔放な使用への好みを示している。

 「この作品を白黒で作らなかったのは、見る人が苦痛に感じないようにするためでもあり、色彩を可能な限り機能的に使用したかったからでもある。確かに装飾的要素も考慮はしたが、同時にサウンドと関連させて色彩を使ったのだ。
 「音の強弱はしばしば色の彩度や明暗(明度)に関連している。たとえばピアニシモのパッセージに彩度の低い色と弱いコントラストを使った。フォルティシモにはどんな色相に関しても最大に鮮やかで明るい色を使った。…これが私の基本原則だ。理論化したわけではなく、ただ直感的に感じたもので、『過去のつまらぬ気がかり』や『モザイク』『直線』など、多くの抽象映画では厳密には適用されていない」

 映画界の一匹狼だったマクラレンは芸術家としての自己の社会的を決して忘れなかった。
 「私は常に人間の問題に関心を抱いているが、それが特に顕著だったのは十代の後半から二十代前半にかけてだった…アマチュアだった頃、私は反戦映画を作っていた…抽象映画のほうへ移行すると人間的問題からどんどん遠ざかっていったのだが…中国に行って2ヶ月後にコミュニストが政権を取った。滞在している村で色々なことを見聞きしたが、そこでは様々なすばらしい出来事がおきていた…そのため私は新政権に共感を覚えるようになった…カナダに帰国したとき、朝鮮戦争がちょうど勃発した。私は何か裏切られたような、二つの文化・二つの陣営の間に引きずり出された思いがした。これが原因で私の中に生まれた緊張が『隣人』を作らせたのだ。搾取されている人々、敗北者にふりかかったことに共感を抱いている」
 『隣人』のテーマを再び取り上げることが少なかった理由について、マクラレンは自分の関心が抽象にあったためだと説明した。

 「抽象映画は…これまた抽象である音楽に似ている。自分の外部の事象には言及しない…私がずっと関心を持ちつづけてきたのは抽象の分野を探求することだ。言い方を変えれば、自らの外部の何者にも言及しない視覚的思考に」
 マクラレンがその作品中に表現したコンセプトは受容しやすさの点でさまざまである。『隣人』の戦争に対する義憤は誠実だが、戦争の原因が人間の強欲とエゴイズムであるとの寓話は単純過ぎる。結局、マクラレンは論争家ではない。『隣人』がよくできた作品であるとしても、それは映画的な「フォルム」のゆえである。

 マクラレンには喜劇的な側面もあったが、それを過大評価すべきではない。フィルムのダイレクトペインティング(足を無くしためんどりが登場する『とりの踊り』)やシネカリグラフィ(『ブリンキティ・ブランク』のいくつかのシークェンスにおけるように)、切り紙アニメ(『算数遊び』は傑作小品である)、そしてとりわけ人間のコマ撮りにいたるまで、彼の作品からは非常にイギリス的な繊細多様なユーモアがにじみ出ている。『いたずら椅子』(パントマイム役者で後に監督になったクロード・ジュトラClaude Jutraと共同して制作された)は楽しい映画で、キートン的スタイルやキーストン・コメディアンによく見られる「物体との格闘」に近い。『開会の辞』には別種の格闘が登場し、ここで反抗する物体はマイクロフォンである。マクラレンはマイクを手なずけようとするが、マイクは意地悪く伸び縮みして、マクラレンは「紳士淑女のみなさん」から先に進めない。言葉よりもイメージで自己表現するのを好む芸術家にとって、もっとも単純な解決法は、マイクをほったらかしにしてスクリーンに飛び込み、アニメで歓迎の挨拶をすることだった(このフィルムは1960年モントリオールフェスティバルのオープニング上映作品だった)。

 マクラレンの作品は複雑で広範、かつ豊かな多面性を持っている。そのためまだ研究されていない部分や様々な解釈の可能性が残されている。アンドレ・マルタンAnder Martinはこう書いている。

「主題・モチーフの偏りは無意識の王国への単なる関心以上の何かを示している。そこからは個人的なリアリティを尊重し、精密かつ執拗に表現しようとする作者の誠実さがうかがえる。彼にしばしば向けられる内容の空虚さという批判は精神分裂症あるいは昂進した自己中心主義という診断に換えるべきである。彼の作品に価値があるからといって、その芸術が空想への逃避と別物であることの証明にはならない。マクラレンのイメージはその実人生に出発点を持っており、個人的リアリティ(意識的・無意識的な)に根差している」
 思索的な詩人であり、幾何学図形を熱烈に夢見た人、映画芸術の未知の分野の探求者、技法の研究・発明の達人だったマクラレンはルネサンスの芸術家のように万能の人間だった。今世紀のテクノロジーアートのプロトタイプとして、彼の作品は日々の問題からも模倣からも距離を置いている。彼の目的は創造する人間にとって未来の救済になるだろう。レオナルド・ダヴィンチに似た形で、彼はニューエイジの応用科学とテクノロジーを解釈するという使命を主張し、いまだか弱き人類と勢いを増す機械の調停者となった。マクラレンは映画の分野で美学的体験を刷新することができた希有の作家であった。

参照:マクラレンフィルモグラフィ
オスカー・フィッシンガー Oskar Fischinger

 オスカー・フィッシンガーOskar Fischingerは1900年6月22日ヘッセ州ゲルンハウゼンに生まれた。中学卒業後にはフランクフルトに移り、テクニカルアーティストとして雇われた。フランクフルトの文学サークルで彼は新しもの好きの評論家ベルンハルト・ディーボルトBernhard Dieboldに出会った。ディーボルトの示唆でフィッシンガーはロールペーパーにペイントして、フリッツ・フォン・ウンルーFritz von Unruhの劇『スクウェア』Der Platzとシェイクスピアの『お気に召すまま』As You Like Itの力関係を表現した。サークルの会員がこの実験をほとんど理解できなくても、フィッシンガーは気落ちすることなく、自分のペインティングを万人に理解してもらえるような素材を追い求めた。その答えを運動に見出した彼は映画を通じて動く絵画の可能性を研究した。1921年には抽象映画の実験を可能にするマシンを設計した。彼は着色したロウの管を平行に束ねて、回転刃のスライサー上に置いた。そして装置の前にキャメラをセットして、シャッターと刃の動きをシンクロさせた。1枚1枚スライスする毎にロウの断面に現れた変化の様子はキャメラによって撮影される。

 1921年、ディーボルトはヴァルター・ルットマンWalther Ruttmannをフィッシンガーに紹介した。当時のルットマンは絵画から映画への移行期にあった。1922年にフィッシンガーはミュンヘンに移り、2つの会社を設立した。1つはルイス・ゼールLouis Seelとの共同経営で、アニメや一般の短編映画の制作プロダクションだった。もう1つはグトラーGuttlerという人物との共同で、フィッシンガーの発明品(無公害の内燃ガソリンエンジン)を扱うためのものだった。同じくミュンヘンに住んでいたヴァルター・ルットマンはフィッシンガーのもとを数度訪れ、1922年11月にワックス・カッティングマシン1個とその商業利用権を購入した。

 創業から4年後、フィッシンガーの2つの会社は負債・怨恨・訴訟のために倒産した。さらに、ルットマンとロッテ・ライニガーLotte Reinigerが自分のマシンを『アクメッド王子』の背景効果に使用したという事件が落胆したフィッシンガーに追い討ちをかけた。

 「おいしいところを他人に奪われてしまった」とフィッシンガーはディーボルトに書き送っている。ルットマンとライニガーが合法的に購入したマシンを使用した点から考えて、この怒りの表現は強烈である。このような苦難もあったが、フィッシンガーがミュンヘンで過ごした4年間は無駄ではなかった。そのスタートから著しく多作だった彼は、『ワックス・エクスペリメント』Wachsexperimentenを完成させてワックス・マシンの可能性を開拓し、異なるテクニックで手彩色の試作数本を制作した。5台のプロジェクターで同時映写する二つの試作品(『真空』Vakuum、『繊維』Fieber)や、別々のリズムで動く平行線で構成された抽象映画数巻からなる『オルガン・スタッフ』Orgelstabeなども制作した。フィッシンガーは通常のアニメ映画も6本制作し(ゼールのために制作した『ミュンヘンからの絵巻』Munchener Rilderbogen)、劇映画(未詳)のための特殊効果、切り紙によるチャーミングで独創的な実験作品『スピリチュアル・コンストラクション』Seelische Konstruktionenも手がけた。

 1927年にフィッシンガーはミュンヘンを引き払い、ベルリンに移った。旅(徒歩で!)の途中、彼は出会った人や場所を撮影した。この写真を使って後に『ミュンヘン−ベルリン徒歩旅行』Munchen-Berlin Wanderungを作った。1928年にはUFAの仕事を受け、フリッツ・ラングFritz Langの『月世界の女』Frau im Mondのために特殊効果を作り出したが、事故で足首を骨折して契約を破棄した(1929年)。入院中、彼は木炭画に集中し、サウンドトラックつきの抽象映画を作ることを決心した。1929〜30年に8本の『スタディ』Studienを制作、それぞれにはファンダンゴからジャズ、ブラームスのハンガリアン舞曲第5番にいたる別ジャンルの曲が付けられた。

 1930年、彼は『スタディNo.6』Studie n.6のプリントをポール・ヒンデミットPaul Hindemithに与えた。ヒンデミットは音楽学院で生徒の課題のためにこれを使おうと考えたのである。ヴィジュアルリズムの印象からスタートして、学生たちはこの映画につける曲を作曲した(もともとはジャシント・グェッロJacinto Guerrieroのジャズミュージックがついており、レコードとシンクロするようになっていた)。

 ドイツの観客はアヴァンギャルド作品に対して好意を示し、フィッシンガーはスタッフを拡大することができた。1931年には従姉妹のエルフリーデElfriedeを雇った。彼女は10才年下の画家で、後に彼の妻となった。その後間もなくして、弟のハンスHansも短期間加わった。『スタディNo.8』Studie n.8はデュカDukasの『魔法使いの弟子』Apprenti Sorcierの権利を買い取る資金がなく、未完成に終わった。フィッシンガーは残りの『スタディ』に弟の助力を仰いだ。二人は協力して『スタディNo.9』Studie n.9、『スタディNo.10』Studie n.10を作った。オスカーは11、13(後者は未完成)、ハンスは12を作り、14番のためのドローイングを準備したが映画化することはできなかった。間もなく、1933年にハンスはパートナーを解消した。

 『スタディ』を作る傍ら、オスカーは音楽がサポートしない視覚リズムの研究も行っていた。その結果が『ラブプレイ』Liebesspiel (1931)である。彼は別の実験も行った。ベラ・ガスパーBela Gasparと協力して、カラー映画の問題にも取り組んだ。合成音(後にマクラレンが扱うことになる)を作り出そうとした。フィッシンガーは一連の映像をフィルムの光学サウンドトラック上に転写して、特殊な音を鳴らすようにデザインした。ガスパーと共に作ったプロセス(ガスパーカラー)を用いて、『サークル』Kreiseを制作した。これは彼のカラー作品中、最初の重要な作品であり、空間中で円が動き回る。1年後には『スタディNo.11』のカラー版を制作、これにはモーツァルトの曲がつき、『スタディNo.11A』Studie n.11Aと題された。それからムラッティMuratti煙草のCFを作った。皮肉にも、彼の映画作品の中で、彼を有名にしたのはこのフィルムだった。配給システムに支えられ、この短編は劇場でロングランした。1934年から35年にフィッシンガーは最も野心的なプロジェクトに取り組んだ。すなわち、立体とカラーにリンクした「リズミカルな」アニメーションである。このフィルムのタイトルは『コンポジション・イン・ブルー』Komposition in Blau。音楽はオットー・ニコライOtto Nicolaiの「ウィンザーの陽気な女房」Merry Wives of Windsor序曲から取られ、立体を用いてガスパーカラーで撮影された。

 一方、抽象芸術はヒトラーとゲッベルスの辞書で「退廃的」を意味したので、禁止されていた。しばらくの間、フィッシンガーは自分の作品を抽象ではなく「装飾芸術」と言い逃れることで活動を続けようとした。その後彼はパラマウントの招待を受け(パラマウントは彼のヨーロッパでの成功に注目していた)、大西洋を渡ることを決意した。1936年2月11日、フィッシンガーはドイツを去った。

 ハリウッドでは『百万弗大放送』The Big Broadcast of 1937のために長い抽象シーンを作るように依頼された。この映画は典型的なハリウッドミュージカルで、オールスターが短時間ずつ登場するものだった。フィッシンガーが使用したのはパラマウント所属のミュージシャン、ラルフ・レインジャーRalph Raingerによるジャズミュージック『ラジオ・ダイナミクス』Radio Dynamicsだった。やがて、プロデューサーは『百万弗大放送』を白黒で制作することに決め、抽象シーンを短くするように要求した。フィッシンガーはすでにカラーでの制作を始めていたので、これを拒否した。契約は9月に破棄された。友人たちの助言に従い(その中には画家のライオネル・ファイニンガーもいた)、フィッシンガーは絵画を副業として生業を立てることにした。これは「キャンバスの油絵」は過去の存在であり、芸術メディアとしては映画に劣ると信じていた彼にはつらい選択だった。

 フィッシンガーはハリウッドで制作を続けた。1938年にはリストの『ハンガリアン・ラプソディ第2番』Second Hungarian Rhapsodyに基づき、MGMのために『オプチカル・ポエム』Optical Poemを制作した。1942年にはオーソン・ウェルズから打診されたが(ルイ・アームストロングの伝記映画を計画していた)、この計画は実を結ばなかった。それからフィッシンガーはニューヨークへ旅し、プロジェクトのための資金援助を求めた。この計画にはドヴォルザークの『新世界交響曲』Symphony from the New Worldにインスパイアされた長編抽象映画も含まれる。このアイディアは失敗するが、ニューヨークでは2つのギャラリーでフィッシンガーの個展が開かれた。

 フィッシンガーがディズニーDisneyと短期間協力したのは、彼がバッハの『トッカータとフーガ』Toccata and Fugueを映画化できるかどうか指揮者のレオポルド・ストコフスキーLeopold Stokowskyに打診した時である。ストコフスキーはこの計画をディズニーに示した。おりしもディズニーは『ファンタジア』の制作を開始したばかりで、フィッシンガーは彼に雇われた。ディズニーはフィッシンガーが『ファンタジア』のために描いたドローイングをスタッフに見せた。それからフィッシンガーのデザインはディズニーのスタッフによりシステマティックに取り扱われ、より具象的な、より大衆に受け入れやすい形に変えられた。結局フィッシンガーは制作を離れ、映画のクレジットには協力の痕跡は残っていない。フィッシンガーの家は年中知識人の溜まり場となった。ウィットニー兄弟Whitney brothersは合成音の問題を議論し、マヤ・デーレンMaya Derenやケネス・アンガーKenneth Anger、ジョン・ケージJohn Cage(偶然性の音楽)やエドガー・ヴァレーズEdgar Vareseのような音楽家もここに集った。話の多くは東洋哲学に集中し、フィッシンガーは光の振動と音の振動の照応理論について解説してやむことがなかった。ケージの作曲理論を用いてフィッシンガーは新作に取りかかるが、観客に理解される可能性がないことを確信してすぐに止めてしまった。

 しかし、フィッシンガーの個展は増え続け、その結果グッゲンハイム財団がコンタクトしてきた。1940年にはソロモン・グッゲンハイム財団の学芸員ヒラ・リベー・フォン・エーレンヴィーゼンHilla Rebay Von Ehrenwiesenがフィッシンガーの新作短編フィルム『アメリカン・マーチ』An American March(『星条旗よ永遠なれ』Stars and Stripes Foreverの曲がついた)に資金援助をした。『ラジオ・ダイナミクス』はこうして蘇り、旧作の題名がサウンドトラックを持たない複雑な実験映画に与えられた。1946年、画家のジョーダン・ベルソンJordan Belsonはフィッシンガーの映画に強い印象を受け、フィッシンガーに会いたいと願い、彼の足跡を追うことになった。フィッンガー自ら、この画家が援助を得られるようにグッゲンハイム財団に紹介した。

 同じ1946年、フィッシンガーは最後の作品『モーション・ペインティングNo.1』Motion Painting No.1にとりかかった。音楽はバッハの『ブランデンブルク協奏曲第3番』Third Brandenburg Concertoである。この作品はサウンドと映像の緊密かつ機械的な一致関係を追及してきた姿勢を捨てた、彼にとって新しい試みだった。『モーション・ペインティングNo.1』はプレクシガラス上のペインティングを連続的に変形させたもので、ある意味でエッゲリングの制作法への20年越しの回帰ともいえる。だが、この作品の超絶的パワーをグッゲンハイム財団は理解できず、失敗作と見なした。そしてフィルムのプリントを焼き増しするのに必要な資金を拒絶したのである。このエピソードによって長きにわたりヒラ・リベーが助言者としてフィッシンガーを力づけた時期は終わり、リベーはフィッシンガーを打ちのめした。

 その後フィッシンガーはもはやフィルムを制作する機会に出会うことはなかった。1950年には発明活動に戻り、自分で発明したルミグラフ(巨大なピアノ大の室内楽器で、「光のショー」を作り出す)の特許を取った。1953年には財政的問題のために立体映画の研究を断念した。心臓病は次第に彼の爆発的な行動力を損ない、絵画と2,3本のCM映画を監督しただけにかぎられた。1961年には『モーション・ペインティングNo.2』Motion Painting No.2を始めようとするが、すぐに計画を放棄した。フィッシンガーは1967年1月31日、66歳で没した。

 フィッシンガーの映画活動はおそらくディーボルトの奨励とヴァルター・ルットマンとの出会いにより生まれたものである(後年、フィッシンガーはこの出会いの重要性を低めようとして、それ以前から実験を始めていたと書いている)。13才年長で画家としても映画作家としても有名だったルットマンはおそらく若きフィッシンガーに影響を与えたに違いない。フィッンガーの負けず嫌いで嫉妬深い性格から考えて、ルットマンの影響は直接の教示というより作品が例になったのであろう(フィッシンガーは人格的にはルットマンを非難したものの、作家としては賞賛しつづけた)。フィッシンガーとエッゲリングは友人であった可能性があるし、少なくとも、仮に個人的に会ったことがないとしてもフィッシンガーはエッゲリングの作品を高く評価していた。反対に、フィッシンガーはハンス・リヒターは好まず、モホイ=ナジMoholy-Nagyやカンディンスキー、バウハウスグループ全体と親密な関係を保った。彼はバウハウスへの参加の誘いを受けたが、個人主義のためにこれを断った。

 フィッシンガーが自分の作品の意味を自問するようになるのは1930年以降のことである。彼は友人・知人、さらに自分自身にまで自作について多くを書き綴った。『コンポジション・イン・ブルー』は彼の告白によると喜びを表現しようとしたものである。『オプチカル・ポエム』は身体と運動、部分と全体の関係に関するおしゃべりである。『ラジオ・ダイナミクス』の基本コンセプトは、色と色の間には関連があり、知覚方法次第でその明るさも変わるということである。

 多方面に関心を持った彼は天文学や原子物理、分子化学を勉強し、アインシュタインを読んで物理の知識を深めた。ノーベル賞科学者の平和主義者ライナス・ポーリングLinus Paulingとも交友があり、哲学・神秘学思想にも取り組んだ。この思想に従えばミクロコスモスとマクロコスモスには共通の法則性や関係性があることになる。フィッシンガーには別の面もあり、ゲーテを愛し、その哲学を自分に近しいものと感じた(特に『ファウスト』第1部)。フィッシンガーの世界観・人生観は仏教哲学やヨガの実践へ導いた。彼はよく人間の眼を描いたが、それには3番目の知識の眼も付け加え、色も変えていた。仏教に対する関心は晩年に増大し、その生き方に没入するようになった(当時すでに仏教の実践はアメリカ知識人の間で一般的になっていた)。

 音楽に関しては、フィッシンガーの態度は大きく変動した。当初の持論では、音楽は観衆を引き付けるための手段でしかなかった。観客は音楽を知っているし、それを楽しく感じる。一言で言えば、音楽は「アクセサリー的な機能」しか持たない。映画は可能な限りサイレントであるべきなのである。後になると、音楽は興味を煽るためのものであり(言語的な観点からすると受容しやすい)、抽象映画に観客を集中させる手助けをしてくれると考えた。前衛作曲家ジョン・ケージが協力した映画の計画を、頭の固い大衆の耳にその曲が「不快である」という理由だけで中止したことさえある。一方で、フィッシンガーはサウンドのリズムと精密にリンクしたヴィジュアルリズムの探求を他のどの作家にも増して続けた。彼は音楽を愛し、それを模倣したいと考えた。音楽のハーモニー・メロディ・対位法の秘密を盗み出し、映像面に転用しようとした。自分の夢は新しい芸術形式を生み出すこと、というのが彼の口癖で、これを「カラー・リズム」と名づけた。19世紀の作曲家を賞賛したが、その理由は彼らが「音の抽象イメージ」という新世界を生み出したからなのである。

 フィッシンガーの作品は少なくとも5つに大別される。1番目は『スタディ』のグループで、スタイル・技法面で共通しており、1つの小説の各章だと考えられる。抽象的要素(点や幾何学図形)で構成され、サウンドに呼応しながら、絡みあい、動いていく。各要素は楽器の各パートを演じて視覚的シンフォニーを作り出す。

 『コンポジション・イン・ブルー』の重要性は美学面より歴史面にある。ばらつきはあるが、見る人を驚かせようとしており、立体だけを(まるで動く舞台装置のように)用いた最初の抽象映画である。ここでフィッシンガーは形態と色彩(旧式ではあるが魅惑的なガスパーカラーを使用している)だけではなく、空間----リズムによって具現化された抽象彫刻----も用いている。

 フィッシンガーがMGMのために作った『オプチカル・ポエム』は猫とネズミのおっかけを「抽象化」したものだと呼ぶ人もいる(この会社は後にそのキャラクター版を送り出すことになる)。『オプチカル・ポエム』は水平方向の長いパンショットで抽象空間をさまよい、その中で色とりどりの幾何学図形が絡みあい、リストの曲のリズムに乗せて互いに「追っかけ」あう。初期の実験作品同様、フィッシンガーはここでも形態的な照応関係を構築している。例えば低い音は丸い形に、高い音は三角形に対応する。色彩の使い方の奔放さはアメリカのアニメ作家には例を見ない。このフィルムの基本カラーは鋭い黄色で、原色の茶色のような通常使われない色も登場する。

 『ラジオ・ダイナミクス』はおそらくフィッシンガーの最高傑作である。洗練と趣向の複雑さがバランスして、視覚的要素の新しさは初期の作品より進歩している。フィッシンガー研究家ウィリアム・モリッツWiliiam Moritzの解釈によるとこの作品はヨガの精神に基づいているということである。

 最後に、最晩年の作品『モーション・ペインティングNo.1』では音楽との機械的なリンクはもはやなく、音楽自体の解釈となっている。2つの異なる動きとリズムが登場し、この作品はアニメであると同時に動く絵画でもある。史上初めて、映画とファインアート両方の批評が要求されている。この作品はヴィジュアル・アートには厳密な境界線が存在しないことを今なお雄弁に物語っているのである。

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