カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第6章 ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ Walt Disney
 ウォルター・イライアス・ディズニーWalter Elias Disneyは1901年12月5日シカゴに生まれた。彼は4男で、下から2番目だった。父イライアス・ディズニーElias Disneyは職を転々としたアイルランド系カナダ人で、オハイオ出身の母フローラ・コールFlora Callは教師をしていた。

 このミシガン湖畔の町はウォルトの記憶にほとんど残らなかった。なぜなら1906年に父親は何回も転居した末に、一家を連れてミズーリ州マースラインの農場に引っ越したからである。この地方で過ごした4年間はこの未来の映画作家の心の中に幸福な少年時代のシンボルとして残ることになった(1910年に再びディズニー家はカンザスシティに引っ越した)。ディズニーはその作品の中で絶えず牧歌的なテーマに立ち戻り、インタビューを受けた彼はマースラインの道やリンゴの巨木についてノスタルジックで詳細な描写を語ってみせることがしばしばだった。

 1918年、冒険への欲求と父との不和が原因で、ウォルトは赤十字に志願することにした。第一次大戦は終わったばかりだったが、彼は占領軍と共にフランスに送り込まれた。そこで自分の絵やカリカチュアが仲間の兵たちの人気を集めたため、帰国したときに彼は画家、またはもっと控えめに漫画家になろうと決意した。シカゴに引っ越していた家庭にしばしとどまった後、ディズニーはカンザスシティに移った。彼が最初に出会った才能あるグラフィックアーティストの一人がアブ・アイワークスUb Iwerksであり、彼とともにディズニーは偉業を成し遂げることになった。二人は当時19歳で、カンザスシティ・フィルム・アド・カンパニーKansas City Film Ad Company(アニメ広告の製作会社)でアニメーターを始めた。二人とも仕事熱心だった。ウォルトは創意工夫と起業心に富み、アブは生まれながらのアニメーターだった。

 1922年、ディズニーは会社を辞めてラフ=オ=グラム・フィルムLaugh-O-Gram Filmsを設立した。アイワークスの他、数人の才能ある若いアーティスト(その中にはヒュー・ハーマンHugh Harman、ルドルフ・アイジングRudolf Isingもいた)を引き抜き、『シンデレラ』Cinderellaや『長靴をはいた猫』Puss in Bootsのようなおとぎばなしをコミカルにアレンジした作品を製作し始めた。当初こそ前途有望かと思われたが、ディズニー作品の配給元が破綻し、破産状態になったために中座してしまった。生き延びるために彼は新シリーズのパイロットフィルムを作った。これが『漫画の国のアリス』Alice in Cartoonlandである。だが、すぐに資金も尽き、彼もまた結局は破産宣告を余儀なくされることになった。1923年、ディズニーはアニメを捨てて映画界に転身しようと考え、ハリウッド行きの列車に乗った。驚いたことに『漫画の国のアリス』は結果的には成功であった。ニューヨークの配給主マーガレット・J・ウィンクラーMargaret J. Winklerはこのシリーズの続きをディズニーに注文した。ウィンクラーは過去に自分の会社でフライシャーやサリヴァン作品を扱ったことのある人物である。ウォルトは生涯のビジネスアドヴァイザーとなる兄のロイRoyと組んで仕事を再開したが、今回は一人の作業だった。このシリーズは実写の子供がアニメの絵の中に入るというのが基本アイディアであり、4年間続いた。

 カンザスシティからラフ=オ=グラム社のベテラン達が一人また一人とディズニー社に入社してきた。まずアイワークス、それからハーマン、アイジング、ハーマンの友人であるイザドア・フリッツ・フリーレングIsadore Friz Frelengである。1927年、ディズニーは別のキャラクター、オズワルド・ザ・ラッキー・ラビットOswald the Lucky Rabbitを生み出した。今回は実写はなく全編アニメだった。配給はチャールズ・ミンツCharles Mintz(マーガレット・ウィンクラーの夫で彼女を受け継いだ)に委任され、カール・レムリCarl Laemmleのユニバーサル社がバックアップした。オズワルドが大成功を収めたため、ミンツはスタジオのトップアニメーターを引き抜き、このキャラの商標を独占した(ミンツの勝利は1年で終わり、ユニバーサルはオズワルドを彼から取り上げて、ウォルター・ランツに与えた)。ディズニーは再び一から出直さなければならなかった。伝説ではこうなる。ミンツの件で落胆し、ハリウッドに戻る列車の中で、ディズニーは小さなネズミをスケッチした。彼は「モーティマー」Mortimerという堅い名前を考えたが、妻がより親しみやすい「ミッキー」と命名したのだ、という具合である。実際には、ミッキー・マウスMickey Mouseに対する功績はそのキャラクターのパーソナリティを作ったディズニーと、それを絵にしたアブ・アイワークス(ミンツのオファーを断ったただ一人のアニメーター)双方に等しく帰せられるべきである。

 この新シリーズの最初の作品が『プレーン・クレージー』Plane Crazyで、配給会社も未決定のまま製作されていたものである。リンドバーグLindberghの大西洋横断飛行に興奮したミッキーはパイロットになることを決心する。彼は農場の動物たちをそのプロセスに巻き込み、挙げ句の果てにはフィアンセのミニーMinnieを飛行に連れて行ってしまう。二人は事故を起こすが、ラストは五体満足で終わる。演出も上手く、楽しめるこの作品にはいくつかの印象的なクローズアップショットが登場するが、クオリティ的にはそれ以前の作品のレベルを超えるものではない。実際、ミッキーはオズワルドと同じくカリスマ的魅力に欠けるし、純粋にグラフィック的な観点からしても、あるいはキャラクターとしても大したものではない。だが、このネズミが巨人になるには長い年月を要しなかった。

 この数ヶ月前にアル・ジョルソンAl Jolsonが『ジャズ・シンガー』The Jazz Singerで歌ったり話したりし始めたとき、ディズニーはつかの間の流行ではなく、一つの産業革命が起こりつつあることを予感した。映画がトーキーへ向かう流れはもはや後戻りすることはなかった。ウィルフレッド・ジャクソンWilfred Jacksonの助けを借りて(彼には音楽の知識が多少あった)、ディズニーは間に合わせのシンクロシステムを作り、『蒸気船ウィリー』Steamboat Willieにこれを使用した。『蒸気船ウィリー』はミッキー・マウスシリーズの第3作で、『蒸気船ビル』Steamboat Billという曲のタイトルから取られている。技術・輸送(レコーディングはニューヨークで行われた)・資金・配給などのいくつもの困難の後、このフィルムは1928年12月18日にニューヨークのコロニー・シアターでプレミア上映された。観客は我を忘れた。2週間後には世界最大の劇場であり、ニューヨーク映画の殿堂でもあったロキシーでも同じ成功が繰り返された。ディズニーはミッキー・マウスの名前のパテントを取り、がっちりと保持した。数十年後のウォルトは自分の帝国について「全ては一匹のネズミから始まった」と語っている。

 『蒸気船ウィリー』の筋は取るに足らないもので、川船の操舵手ミッキーが悪漢ペッグ・レッグ・ピートPeg-Leg Peteやミニーに邪魔されるという内容である。このストーリーは音楽のシンクロの効果を利用する口実に過ぎない。キャラクターや船までが音楽に完璧にあわせて踊り、ギャグさえもがサウンド指向である。例えばミッキーは雌牛の口をこじ開けて、その歯で木琴を演奏する。この映画は見事なフィルム=バレエであり、コミカルであると同時に斬新であり、アメリカ大衆のミュージックホール的な趣味に照準を合わせている。興味深いのは、同じ時、もう一つの川を主題としたミュージカルショーがブロードウェイでも勝利を収めていたことである。それはジェローム・カーンJerome Kernとオスカー・ハマースタインOscar Hammersteinの『ショウ・ボート』Show Bootである。

 2,3年もすると、ミッキーマウスは世界中で愛され、おびただしい集団的熱狂を集めるようになった。1930年にはフロイド・ゴットフレッドソンFloyd Gottfredsonによって描かれたミッキーのコミックが出版され、ハンカチ、Tシャツ、櫛、時計、人形など、ミッキーの絵が付いたマーチャンダイジングがこれに続いた。だが、これほど成功したアニメキャラとしては、ミッキーは驚くほど短命であった。彼は1928年に誕生し、121本の短編に出演した後(最後の登場である『ミッキーの魚釣り』The Simple Thingsではプルートと一緒に魚釣りに行く)、1953年にはそのキャリアを終えた(1983年の『ミッキーのクリスマスキャロル』Mickey's Christmas Carolを除く)。注目すべきことに、ミッキーが主役として行動しない現象は1930年代初頭から始まっている。「ミッキーは道化ではない」とシナリオ部長テッド・シアーズTed Searsはスタッフ向けのメモで書いている。「彼は間抜けでものろまでもない。そのおかしさは全て彼のいるシチュエーションによるものである。ミッキーが一番面白いのは困難な状況とか限られた時間の中で何かの目標を達成しようとして窮地に立たされているときである」「ミッキーは典型的な少年であり、清潔かつ幸福で、礼儀正しく、十分に賢い」とスーパーヴァイジングアニメーターのフレッド・ムーアFred Mooreが付け加えている。

 このような「善人」には滑稽さが似合わない。したがって彼の周囲にはもっとお上品ではなく、笑いを誘うことの出来る共演者が必要であった。結局は彼らが自分達の勢力を獲得することになった。中でも重要なのがドナルド・ダックDonald Duck(かんしゃく持ち)とグーフィGoofy(愚鈍な友人)、そしてプルートPluto(トラブル好きの犬)である

 1938年にミッキー・マウス・カートゥーンにはすでにスターのランク入りをしていた登場キャラの名前がつくようになった。これ以後、ミッキーはほとんど登場しない。

 かつてフランク・キャプラFrank Capra監督は指摘したことがある。「沢山の人間がスターを作り上げたり押し付けようとするが、それは誰にもできない。スターは自分の力で誕生するものなのだ。問題は人を惹きつける個性があるかないかだ」 ミッキーマウスはまさにその現象であり、これを確認することはできても説明することは不可能である。

 ミッキーの成功はディズニーの人生における初めての成功だった。これにより富を得た彼は、それを自分のプロジェクトと会社を拡大するために使った。1928年には6人だった従業員が、1934年には187人の企業に成長し、1940年には1600人以上になった。1925年に創立されたハリウッド・ハイぺリオン通りのスタジオは著しい成長を遂げ、1930年代中には拡大して新築・増築を行なった。

 当初ディズニーが考えていたのは、今契約できるトップ・アニメーター(特にニューヨークの)を雇い入れたいということだった。だが、彼ら熟練アニメーターに技術はあったが、仕事振りに欠点があることがすぐに明らかになった。ディズニーが少しずつ導入した製作方法やスタイルの革新を受け入れるつもりがほとんどなかったのである。そこでディズニーは新人を雇って彼の目論見に合うような形に養成することにした。

 7年間にディズニーが審査した志望者は35000人にのぼった。1941年までディズニー社内のアートスクールではアニメーターを教育し、新しいスタイル・技術的な原則を教え込んだ。ディズニーがアメリカアニメに対して与えた衝撃はトーキーの発見がアメリカ映画界全体の興盛に与えたものと同じである。全ては突然に起こった。彼は旧来のやり方で作られた作品をみな時代遅れのものに変え、流通から駆逐してしまった。これは技術革新というよりむしろ一種の生産革命であった。

 ディズニーはもはやキャラが動くというレベルではなく、絵による俳優として考えることにした。彼は顔の表情、仕草、キャラクターの演技法を注意深く研究した。各キャラにはそれ自身の個性や、容貌や心理に調和した身振り、骨と筋肉と関節に基づいた体格が必要であった。もはや純然たるグラフィックではなく、アニメーションは論理法則に支えられたカリカチュア版リアルワールドになったのである。ウォルトはこれを「本物らしい非現実」と名付け、このようなコンセプトが後にディズニー的「リアリズム」と呼ばれることになるものの始まりであった。

 ディズニーは製作方法も一新させた。テイラー式の分業化にしたがい、アニメーション、シーンデザイン、特殊効果、レイアウト、脚本など専門のチームが作業し、トレス、彩色、撮影もまた分担されていた。ストーリーボード(絵によるシナリオ)がフィルムの主題をコントロールする助けになった。事実、この会社の構造はその創始者のパーソナリティの拡張のようなものだった。今や彼には自分の方法を受け入れ、自分よりも創造的技術においては優れたアニメーターがいた。ディズニーの役割は彼らアニメーターを統率し、刺激し、熱中させ、拒絶し、是正し、叱り、時には賞賛することだった。ディズニーのスタッフはディズニーが気難しく、しばしば辛辣なキャラクターだったことを認めている。彼はまた並外れた魅力を持ち、そのおかげであれほどの人々を(中には40年以上に渡り)とり扱うことができたのである。

 『蒸気船ウィリー』の成績が出る前からすでにディズニーはミュージシャンのカール・ストーリングCarl Stallingとの協力を確保していた。ストーリング(1888〜1974)もカンザスシティ出身で、初期のミッキー・カートゥーンの曲を書いた。ストーリングも自己主張の強いミュージシャンで、ディズニーが出したリズムや効果音、シンクロに対する注文に対してただちに議論になった。これらは普通の作曲理論とは著しく異なることがしばしばだったからである。両者は妥協し、コミカルなミッキー作品では音楽が背景に退くかわりに、別のシリーズ『シリー・シンフォニー』Silly Symphonyでは音楽が映像より優位にあって、映像が音楽を解説するにとどまった。

 このシリーズの第1作が『骸骨の踊り』Skeleton Dance (1929)で、これはストーリングの音楽に合わせてアブ・アイワークスが創造した一種の「死の舞踏」であった。シリー・シンフォニーという小品群の中で、もっとも有名なのが『三匹の子豚』Three Little Pigsである。テーマソングはフランク・チャーチルFrank Churchillの「狼なんかこわくない」Who's Afraid of the Big Bad Wolf?で、これは1933年以降のアメリカポピュラーソングではもっとも有名な1曲となった。この作品はオスカーを受賞し、ディズニーにとってはシリーシンフォニー初のカラー作品『花と木』Flowers and Treesに続いて2回目となった。ディズニーは1943年までにオスカーを11回受賞し、それぞれのカテゴリーをあわせると、生涯に13回受賞したことになる。

 1937年12月21日、特別上演パーティーの夜にディズニーはその数度目の「ショー」を披露した。これはただ長編アニメというのみに止まらず、なんとカラーであった! タイトルは『白雪姫』Snow White and the Seven Dwarfsである。

 当初、アニメはコミカルなものでなければならないと信じる人間はこれを笑った。だが、プリンセスが義母に迫害され、小人たちがこれを保護し、毒リンゴに倒れるが、王子の素敵なキスによって蘇るというこの冒険譚はあらゆる観客を征服した。このフィルムのプレミアに関しては無数の逸話がある。クラーク・ゲーブルは目に涙を浮かべていたと言われたし、感情の昂ぶりを押さえ切れずに会場の外に出ていたディズニーは、観客の大爆笑が起きたとき「作品がおかしいのか、それとも私のことがおかしいのか?」と叫んだ。また、公開の2,3日前にウォルトがあるシーンに少しフリッカーがあるので作り直すべきだと主張したとき、ロイ・ディズニーは生涯ただ一度だけウォルトに譲歩しなかったとの話も伝わっている。完成までの3年間の研究で『白雪姫』は148万8427ドルを要した(当初の予算は25万ドルだった)。

 若きプロデューサー、ウォルトの創作衝動の原動力は完全主義と冒険心の奇妙な混合だった。ディズニーは『白雪姫』の製作中に破産ぎりぎりの状況になったが、それは『蒸気船ウィリー』の時と同様だった(戦後、彼は自分のアミューズメントパークであるディズニーランドを建設するために、自分の生命保険証券を抵当に借金したほどである)。だが、『白雪姫』はほんの短期間で8億ドル以上を稼ぎ出した。批評家達は全会一致で賞賛し、ディズニーと観客との蜜月は頂点に達した。

 『白雪姫』は堅固な物語構造を持ち、そこには古典的な時とアクションの一致が見られる。単純な絵でできた1時間半の映画に観客が飽きてしまう危険を避けるため、ディズニーは細心の注意を払ってストーリー中の出来事をその雰囲気(ロマンティック、コミカル、暗い、情熱的な)と一致させた。各音楽には物語面あるいは心理面での機能が与えられ、色彩は映画全体を通じて調和するように配置された。キャラクターに関して言えば、小人達がベストである。彼らは見事にアニメートされ、それぞれが名前と個性を備えている(グリム兄弟のオリジナルテクストでは区別のつかない集団にすぎない)。時代が経ってもなお、『白雪姫』はハリウッドの歴史の中で最上のミュージカルの一つと言われている。

 それから拡大と組織改変(ディズニーの言葉を借りれば「混乱」)の時代が訪れる。1940年に『ピノキオ』Pinocchioと『ファンタジア』Fantasiaを製作したとき、スタジオはバーバンクのより大きい、だが寒々とした土地に移った。しばらくの間、第二次大戦によって重要なヨーロッパ市場は閉ざされた。『ファンタジア』は興行的には失敗した。1941年、常に興奮と協調の精神に満たされていたこのスタジオはアニメーターのストライキによって深刻な影響を受け、契約と雇用の不一致がそれに拍車をかけた。これは5月28日から7月29日まで続いた。ディズニーはこれを個人的な攻撃だと思い込んだ。彼とスト参加者との間には実力行使の兆しすらあった。事態が妥結したのはディズニーが南アメリカに旅行中で不在の時だった。会社内部の雰囲気が変わり、アメリカが軍事干渉するようになったため、優れたアーティストが何人か去っていった。その中にはアート・バビットArt Babbitt、ウラジミール・タイトラVladimir William Tytla、ジョン・ハブリーJohn Hubley、スティーヴン・ボサストウStephen Bosustow、デイヴ・ヒルバーマンDave Hilberman、ウォルト・ケリーWalt Kellyらがいた。

 ディズニーの南米旅行をプロモートしたのはネルソン・ロックフェラーNelson Rockefellerで、彼は当時ワシントンのアメリカ諸国問題の使節だった。第二次大戦に支配された国際情勢の中で(合衆国はまだ参戦を控えていた)、アメリカ政府は隣国との結びつきを補強するためにミッキーの父の絶大な人気を利用しようとしたのである。1941年12月8日に日本が真珠湾攻撃を行なってから、ディズニースタジオは政府や軍と緊密な関係を持つようになった。教練映画や技術映画が絶え間なくリリースされ、年間製作数の5倍以上になった。この多大な労力(1943年にはスタジオの製作能力の94%)をディズニーは愛国的責務と考え、その報酬は製作費だけであった。ただ、これには大きな利点もあった。この公共的奉仕により、ディズニーは会社を閉鎖することなく、スタジオの有能なアニメーターを働かせ続けることができたのである。

 戦争中、娯楽セクションは長編の製作を続けた。『ダンボ』Dumbo (1941)、『バンビ』Bambi (1942)、『ラテン・アメリカの旅』Saludos Amigos (1943)、『三人の騎士』The Three Caballeros (1943)である。最後の2本はディズニーの南米訪問がきっかけで生まれた。短編作品の中には『総統の顔』Der Fuehrer's Faceや『死への教育』Education for Death、『理性と感情』Reason and Emotion(いずれも1943年)などの反ナチプロパガンダ映画がある。『空軍力の勝利』Victory Through Air Powerはディズニーの戦争参加のもう一つの結果である。空軍の決定的役割を確信していたディズニーが自腹を切って製作したこの長編は、アリグザンダー・ド・セヴェルスキーAlexander de Seversky少佐の爆撃機増産運動を支援するためのものであった。

 戦争が終結するとアメリカはかつてない豊かな時代を迎えたが、ディズニーのアニメーターに1930年代の活気は二度と訪れなかった。長編一本プラス短編・ニュース映画という興行形態に代わって2本立て興行が主流になったことで、短編映画はダメージを受けた。さらに、高騰するコストが原因で長編アニメの発展も止まってしまった。だが、最大の理由はウォルトが別のプロジェクトに目を向けるようになったためである。彼は自然のドキュメンタリーや子供向けの実写映画、TVショー(ここでディズニーはハリウッドのプロデューサーの先駆けとなった)のことを考えていた。とりわけ彼が集中したのがかつてない規模のアミューズメントパークであるディズニーランドであった。長編アニメの製作は黄金時代のベテラン達(特にアニメーションの親衛隊である「ナイン・オールド・メン」Nine Old Men)にまかせるようになっていった。1966年12月15日にバーバンクでディズニーが没し、その一年後に彼が直接製作に関わった最後の作品『ジャングル・ブック』The Jungle Bookが公開された。ウォルト・ディズニープロダクションは巨大な収益を挙げ続けたが、それは特にアミューズメントパーク(ディズニーランドとフロリダに新設されたディズニーワールド)によるものであり、映画作品はウォルフガング・ライザーマンWolfgang Reitherman(1910〜1985)の手により初期ディズニースタイルで作られた。1980年代末に全く新しいアニメーターグループにより、長編アニメにもたらされた新たな勢いについては、この本の後の方で触れることにする。

 ウォルト・ディズニーはパブロ・ピカソでもイングマール・ベルイマンでもない。彼はむしろアーヴィング・サルバーグIrving Thalberg、デヴィッド・O・セルズニックDavid 0. Selznickに比すべき人物である。その作品に対する批評は彼が1930年代から40年代のハリウッドにおいて最も重要な製作者であったという面をいずれにせよ無視することができない。歴史的観点から見れば、彼がそれ以上の存在だったことに気付くはずである。彼は映画界最大の「帝国の開祖」、つまりJ・P・モーガンJ. P. Morgan、ヘンリー・フォードHenry Ford、トーマス・A・エディソンThomas A.Edison、ウィリアム・R・ハーストWilliam R. Hearst、フローレンス・ジーグフェルドFlorenz Ziegfeld、P・T・バーナムP. T. Barnumらの同類なのである。

 彼の映画は100%ハリウッドであった。その基本はスターシステムであり、大量生産による豪華な商品を目指し、ありふれたステレオタイプに基づいている。このような娯楽映画が「アートを用いて」作られることはあっても、「アートシネマ」の思想とは相容れるものではない。ディズニー自身は常に自分の選択を弁護し、自分の映画は子供向けのもので、文化的知的野心はなく、アートシアターとは全く無関係なものだと主張した(「私はトウモロコシを売るのだし、私はトウモロコシが好きなのだ」)。

 ディズニーのもっとも洗練された作品は『ファンタジア』である。このシリーシンフォニーの長編版はクラシック音楽8曲を映像化して製作され、アニメーターの驚異的な名人芸の一大絵巻となっている。だが、この作品はその画面・グラフィックの選択ゆえに美学的には失敗している。カリカチュア化された絵柄とアニメーションは陳腐であり、ポピュラーソングにはぴったりだったかもしれないが、ベートーヴェンやバッハ、ストラヴィンスキーの音楽にはそぐわない(ストラヴィンスキーの『春の祭典』The Rites of Springはおもちゃの恐竜とねばねばした溶岩の物語になってしまった)。このような音楽と動くアートを関連させるにはもっと強力な芸術家気質が必要だったのである(ここで映画化された『禿山の一夜』Night on Bald Mountainと、その7年前にアレクサンドル・アレクセイエフAlexandre Alexeieffが生み出した作品を比較すれば一目瞭然である)。

 ディズニーとして知られる人物を理解するのが困難な理由は、彼について限りない先入観が存在するせいである。「最高の」アニメ作家とか、「バーバンクの魔術師」、「20世紀のイソップ」などと呼ぶ人もいる。その一方で、彼は「悪趣味なラファエロ」、実写的リアリズムを好みアニメーションのグラフィック的自由を破壊した人物、アメリカンイデオロギーを世界中に喧伝した悪質なプロパガンディストなどと非難された。結局彼は作家ではなく堅実な実業家であり、絵が描けない「経営者」だったのである。その人となりについては恐らく一言では言い表せない。共に働いた人々は彼が「複雑な人物」だったと口をそろえて証言している。単なる商売人でなかったことは確かである。ハリウッドの基準からすれば決して豊かな人間ではなかった。彼は金もうけのためにスタッフを急き立てて作品数を増やそうとはしなかったし、ひたすら質の高いものを求めた。彼の野心的な企ては会社を負債による危機的状況に置き、それは彼が亡くなるまで続いた。経営がより保守的になり、収益を挙げるようになったのはその後である。従業員にとっては、しばしば頑固で冷徹、無愛想であった。彼は自分の意志に反対したり、去っていった人間を裏切り者だとみなした。誠実な夫で、親愛溢れる父親であり、子供時代へのノスタルジーが嵩じて裏庭に巨大なおもちゃの列車を作らせた人物であった。

 彼は旧友や辛いときに彼のために働いた人間にも気前が良かった。F・スコット・フィッツジェラルドの小説によれば、この「ラスト・タイクーン」はスタジオ内では鉄の意志を持っていたが、そこで一人の女性に見つめられて心が溶かされ、彼女と遠回しに縁を結んだという。

 ミッキー・マウスはネズミに生まれながらも、短編7,8作目の『ミッキーの畑仕事』The Plow Boyでは人間化している。「大衆はミッキーというネズミを少年として、グーフィという犬を一人の男として受け入れることを望んだからである」(ドン・グレアム)
 彼らは日常と魔法がない交ぜになった世界、つまり「鏡の向こう側」に住んでいる。このカリカチュアの世界において、ネズミ=少年、犬=男、アヒル=若者はその演技によって信ずべき存在となる。「演技を構成するためには本来のアクションを簡略化しなければならない。アクションそれ自体には観客に対してほとんど関心を呼び起こす力はない。絵で描かれたアクションがいわば『カリカチュア』として組織されたとき、それは一つの新たな物語形式となる」

 ディズニー映画の弱点は人間キャラ(白雪姫、シンデレラ、王子)にあると言われ続けてきた。むしろ、カリカチュア化された演技や形態ゆえに信じられるキャラクターと、インクで描かれた像にしてはその外見や仕草が明らかにそれらしく感じられないキャラクターとに区別した方が良い。ジョン・ケインメーカーJohn Canemakerはその優れたエッセイ「ディズニー・デザイン:1928-1979」Disney Design, 1928-1979の中で1935年にディズニーが書いた一節を引用している。「カートゥーンの第一の務めは現実のアクションや物事をありのままに描写したり複製することではなく、生命とアクションのカリカチュアを与えることである…現実とはどんなものかをまず知らなければ、現実に基づくファンタジーも不可能であることを私は痛感している」 この考察は「現実のコピー」という見方からも、純粋にグラフィックを追求する立場からも距離を置いている。実際、彼が批評家から受けた称賛の多く、特に30年代のものはその視覚的独創性と同じくらい、映像とサウンドの関係を映画文法にもたらした能力に対するものだった(当時サウンドを巡る論争があり、サイレント映画の視覚言語を破壊してしまうというのが多数意見だった)。

 後になると、ディズニーのリアリズムはより優勢になり、それはとりわけマルチプレーンキャメラの使用や長編映画に要求される語り口においてそうであった。多くのシーンは現実を細心に飾り立てたコピーとなり、アニメーションは実写映画のテリトリーに侵入しないという不文律を打ち破った。他方では、この「リアリズム」が目に見えないところでディズニーの想像的宇宙を侵食していった。ディズニーのレシピに従えば、本物のような雰囲気の中で信じられるキャラクターがそれ相応の行動をとるのを目にすると、観客は完全に安心し、どんな突飛なことでさえも普通のこととして受け入れるのである。観客がディズニーキャラに惹かれた原因がアニメーションで描かれた夢のような想像的性質より、むしろ古典的な作劇パターン(サスペンス、振り付け、ロマンティックな瞬間)にあったことは数多くの実例を挙げることが可能である。

 『白雪姫』を除けば、ディズニーの長編映画でもっとも記憶されているのは『ピノキオ』であり(アニメーションはこちらがまちがいなく上である)、コンパクトにまとまった『ダンボ』である。

 短編では多くのハイレベルな作品、特にトーキー開始後7,8年のものがより優れている。これはミッキーのキャラが一種の不遜さや軽いサディズム、無粋さを持ってよりパワフルに表現されていたころである。ドナルドやグーフィなど他のスターでは、ジャック・キングJack King、ジャック・キニーJack Kinney、そして強烈なジャック・ハナJack Hannahが手がけた次の十年間がベストである。それでもやはり最高の俳優はミッキーである。前述した作品以外に取り上げるに値するものとしては、初期の『ミッキーのヴァイオリニスト』Just Mickey(1930、ヴァイオリンのソリストとして登場)や『ミッキーの巨人征服』The Brave Little Tailor(1938、巧妙なストーリー)、『ミッキーのりょう犬』The Pointer(1939)などが挙げられる。ミッキーの魅力はその声に負うところも多く、第二次大戦の終わりまでウォルト・ディズニー自身が当てていた。

 『シリー・シンフォニー』に関しては、当時は大変に成功を収めたものの、時の試練に耐えられるとは思えない。程度こそ異なれ、1930年代中盤のディズニー作品に共通する「可愛らしさ」の問題によって損なわれている。『三匹の子豚』、『兎と亀』The Tortoise and the Hare (1935)、『赤毛布の忠さん』The Country Cousin (1939)は例外である。

 器材・技術・ノウハウへの多大な投資や完璧主義、そしてより優れた新作への絶え間ない競争の中でも、自分が作っているのは製品であり、その消費者は大衆であることをウォルトは忘れなかった。いかなる工業・商業活動においても、マーケットに依存することは革新にブレーキをかけることになる。そのようなブレーキの一つが作品の独創性を排除することである。このような独創性には熱狂するものもいるが、嫌うものもいる。この結果、なるべく多くの消費者に心地良い最大公約数を追求することになる。一言で言えば、これは商業主義という問題であり、すなわち質の低下である。この原則に加えて、観客にみずからを似せるという必要性もあった。中流階級で、スモールタウンの中西部アメリカ人として(彼は常に自分をカンザスっ子だと自負していた)、ディズニーはその社会的ルーツと美的願望を観客と共有していた。『虹の国の兎さん』Funny Little Bunniesはシリー・シンフォニー中、最も類型的な作品で、エデンの園についての単純なヴィジョン(清流、緑の丘、微笑む小動物などが豪華なイースターエッグのように描かれている)が見られる。ディズニーのキャラは次第により丸い形態になり、大きな頭、誇張された目、短い手足、突き出た尻といった赤ん坊のような特徴を持つようになった。大人達はこの赤ん坊のような特徴に心を動かされ、子供たちは自分の人形やテディ・ベアを思い出した。整った描線はソフトな陰影とあいまって、さながら豪華な家具をしつらえたきれいな家のように磨き上げられている(スタジオを訪問したフランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wrightが光沢のあるセルより鉛筆のスケッチ画の方が生き生きとして良いのではと提案したとき、ディズニーは怒って反論した)。長い目で見れば、このようなキッチュ趣味がディズニーとそのスタッフに対して密かなかつ最悪の敵になったのである。

 この文章が繰り返しディズニー作品の限界や欠落を取り上げているとすれば、それは映画批評家や映画史家にとってそれらが大衆ならびにアニメ作家自身に与えた「イデオロギー」的影響力の大きさを無視できないからである。

 長い間、ディズニーは唯一のスタンダードだった。彼は競争相手を打ち負かしただけでなく、消し去ってしまった。観客の意識にはディズニーアニメだけが存在可能なものだと植え付けられた。アニメーションとディズニーアニメは一つのものだ、と。おそらく自分の映像の正統性を理由付けるために、自分がモデル化した以外のアニメはかつて存在もせずまたありえないかのごとく公言し、また理論化することで、彼自らがこの思想を強化した。この枠内でその理論に従う限り、バーバンクのプロデューサーの作品は美学的に堂々として非の打ち所がないのは確かだろう。だが、一方で歴史的観点からは彼を別の次元、より広い見取り図の中に置くことができる。そうすると、ディズニー作品はかくも多数の「ディズニーアニメ」や「ポストディズニーアニメ」(フォロワーやライヴァルたちが数十年にわたり山積みした)を生み出した責任を負うことになる。つまるところ、ディズニーは大人向けのアニメーションや、より文化的なアニメーション、あるいは刺激的なアニメーション、または単に別種のアニメーションという試みや提案から大衆を遠ざけることに寄与したのである。

第7章へ→