カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第15章 アジアのアニメーション
第15章 アジアのアニメーション

中国

 内戦と侵略、そして国内の混乱に苦しみながら、中国は映画産業を発展させた。中国映画はこのような出来事から制作面、そしてそれ以上に内容面で重大な影響を被った。中国映画の始まりは1923年にさかのぼり、上海で外国人と亡命中国人が映画館設立に資金を提供し、香港・北京・南京・鄭州がこれに続いた。

 アニメーション分野では万四兄弟だけが中国を代表する時代が長く続いた。双子の万籟鳴(ワン・ライミン)Wan Laimingと万古蟾(ワン・グチャン)Wan Guchan(1900年1月18日南京〜、本人によれば1899年)、万超塵(ワン・チャオチェン)Wan Chaochen(1906〜1992)、万滌寰(ワン・ティーホアン)Wan Dihuan(1907〜)である。子供の頃から動く画に魅せられていた彼らは、1926年に最初のアニメーション作品『アトリエは大さわぎ』大閙画室 Uproar in the Art Studio を制作し、続いて1930年には『紙の子どもがさわぎを起こす』紙人搗乱記 The Revolt of the Paper Figures を制作した。これらの作品はアマチュア的な流儀で制作され(万兄弟は実写映画の舞台美術家だった)、絵が勝手気ままに動いて人間に反抗するというフライシャー兄弟のパターンを踏襲した。1932年に彼らの制作本数は計6本に達し、その中には2本の物語作品(『ウサギとカメの競争』亀兎賽蚫 The Race of the Hare and the Tortoise と『アリとキリギリス』蝗虫与螞蟻 The Grasshopper and the Ant)、1932年1月の日本による上海事変に刺激された愛国映画(『目覚めよ同胞』同朋速醒 Compatriot, Wake Up、『血の価格』血銭 The Price of Blood)がある。1933年に万兄弟(末弟の滌寰が写真に専念するためにグループを去り、今や三兄弟となっていた)はアニメーション部門の開設を要請してきた明星影片公司に落ち着いた。4年にわたり、スクリーンには黒い小猿(ミッキー・マウスに似ていた)や呂娘 Miss Lu の父(角張ったアゴの小男で西洋風の身なりをしていた)といったキャラクターが登場した。別のシリーズでは実写のショット(子役の張敏玉(チャン・ミンユー) Zhang Minyu)が混在した。愛国的主題がしばしば現れた。『民族の痛ましい歴史』民族痛史 The Painfui History of the Nation と『新しい波』新潮 The New Wave では帝国主義的侵略を告発し、『国貨の年』国貨年 The Year of Chinese Goods では国産品の購買を観客に奨励した。1935年に万兄弟は中国初のトーキーアニメーション『ラクダの踊り』駱駝献舞 The Camel's Danceを制作した。

 兄弟は芸術に対する自分たちの考えを公表することを怠らなかった。1936年に出版された会社報に彼らが執筆した記事では、アメリカやソヴィエト、ドイツのアニメーションを賞賛するだけでなく、中国固有のスタイルやユーモアを発見する必要を主張している。彼らはまた単なる娯楽ではなく、自分たちの目的が教育にあることをも表明している。これらのテーマ全てが後の中華人民共和国の創作で再び現れた。

 上海事変(1937年8月13日)が起きたとき、彼らはまだ自由都市だった武漢に逃れた。この事件は彼らの新たな制作活動のきっかけとなった。それが『抗戦標語』抗戦標語 Manifestos of the War of Resistance シリーズ五作や『抗戦歌集』抗戦歌集 Songs of the War of Resistance シリーズ七作(フライシャーのバウンシングボールのテーマを使用)などである。それから武漢もまた日本軍の手に落ちた。当時万兄弟の制作会社が拠点としていた重慶での制作が不可能となったため、兄弟は上海に逃れた。そこで万籟鳴と万古蟾は合併した新華社 Shinhwaの中に新たなアニメーターチームを組織し、彼らの最も大胆な事業である中国初の長編へと乗り出した。

 彼らのアトリエはフランス租界にあったため(ここは他の外国租界と同様、1941年までは占領軍も自重していた)、制作は危うい外交的保護の下で始まった。この映画(1941年公開)は『西遊記・鉄扇姫の巻』鉄扇公主 The Princess with the lron Fan と題され、中国の古い『西遊記』Journey to the West の一章をもとにしている。僧侶三蔵法師はブタの猪八戒、坊主の沙悟浄、猿王の孫悟空をお供に、聖なる仏典を求めて火炎山を越える。幾多の冒険の後、この映画の真の主人公である孫悟空は牛魔王夫人から魔法の扇を奪いとり、炎を消し去る。マリ=クレール・キクメル Marie-Claire Quiquemelle はこう書いている。

「この作品は戦争の最中にフランス租界の「孤島」で制作され、芸術的水準だけでなく、技術的水準においても偉業と呼ぶにふさわしい。70人のスタッフが二つのチームを編成し、一つ部屋の狭い空間で、冬の寒さや夏の暑さの中、1年と4ヶ月の間休み無しに働いた。動きの正確さを期するため、シーンによっては俳優を撮影してスタッフのガイドとした」
 この映画は中国と同じくらいシンガポールやインドネシアでも好評を博した。この成功はおそらくひそかな愛国心にも助けられている。とりわけ牛魔王に対する孫悟空の勝利は人々の連帯によって勝ち取られたからである。美学的観点からすれば、この映画は興味深い貢献をしている。「この映画は創意、きらめくユーモア、ファンタジーと詩情に満ちている。観客の喜ぶフィルムである」(キクメル、同上) この発言は言い過ぎだろうが(ストーリーテリングはしばしば鈍重で、キャラクターの作画には欠点があり、アメリカから学んだ部分と中国の美術的伝統の合体は調和していない)、この映画のオリジナリティと独特のパワーはそれらの欠点を補って余りある。

 戦争と政治状況が悪化したため、次回作である長編『虫の世界』昆虫世界 The World of Insects の制作は中断した。その一方で、別の中国人作家がアニメーションに没頭した。1941年に若い香港作家のグループが中国アニメーション協会を設立し、『愚かな老犬の飢え』The Hunger of the Old Stupid Dog を発表した。長清で銭家駿(チェン・チァチュン) Qian Jajun(1912年12月2日〜)は数本の短編を制作した。1946年には満州で共産党が『皇帝の夢』皇帝夢 The Emperor's Dream(陳波児 チェン・ポーアル Chen Bo'er作による人形アニメーションで、公開は1947年)と『甕のなかに捕われた亀』甕中捉鼈 The Turtle Caught in the Jar(1948、方明 ファンミン Fang Ming によるドローイングアニメーション。方明は日本人アニメーター持永只仁の中国名)のスポンサーとなった。二本とも風刺的なプロパガンダ映画で、蒋介石とその軍が革命軍によって中国東北部に追い込まれたことを愚弄した作品である。1949年、風刺画家の特偉(トーウェイ)Te Wei(本名は盛特偉 シェン・トーウェイ Sheng Tewei。1915〜)や若き知識人の靳夕(チン・シー) Jin Shi(1919〜)ら22名が長春で結集し、後の上海スタジオの核となった。その後、彼らアニメーターたちは上海に移動し、画家・人形使い・児童文学作家、そして万超塵その人を加えて規模を拡大した。万超塵は1946〜1948年にハリウッドへ渡り、アメリカアニメーションの設備と方法を学んでいた。1954年には戦時中香港に移っていた万籟鳴と万古蟾が上海スタジオに加わった。1956年にスタジオは200人のスタッフを抱え、1960年代までにその数は380人に達した。作品は専ら子供向けのものであった。所長の靳夕によれば、映画は人を楽しませ、かつ教育的でなければならない。それと同時に国民的性格を維持しなければならない(以上の点は20年前すでに万兄弟によって実行されていた)。その実例として靳夕は彼自身の人形アニメーション『魔法の筆』神筆 The Magic Paintbrush(1955)と特偉の『傲慢な将軍』驕傲的将軍 The Braggart General(1957)を挙げた。毛沢東時代の絶え間なき思想的混迷の中で、中国のあらゆる思想・文化勢力と同じく、アニメーションも不断の流動化と論争を経験した。他の思想的変動と同様に「百花斉放」と「大躍進」政策は作品内容に影響を及ぼした(時には引喩や寓意による暗示、時にはあからさまに押しつけられたプロパガンダとして)。

 上海スタジオは1965年に閉鎖された。作家たちは教育収容所に送り込まれ、スタジオが再開するのは1972年を待たねばならなかった。だが、1965年以前にスタジオは多くの作品を送り出した。1962年までにおよそ百本の作品が制作され、その中には優秀なものも含まれていた。切り紙アニメーションの分野ではベテラン万古蟾が『西遊記』のオリジナルエピソードとして『猪八戒がスイカを食う』猪八戒喫西瓜 Zhu Baizhe Eats the Watermelon(1958)を制作した。ユーモラスで皮肉も効いており、アニメートも見事なこの作品は同様の技法を用いた多くの作品の先駆けとなった。万古蟾の作品としては、『魚童』魚童 The Little Fisherman(1956。義和団の乱に基づく民話が原作)や、子供が地主に奴隷として売られるが、人参の精の助けで暴君に打ち勝つ『人参ちゃん』人参娃娃 The Spirit of the Ginseng(1961)がある。胡雄華(フー・シュンホア) Hu Shionghua(1931年12月29日〜1983年11月14日)は『あしたを待つ』等明天 Let's Wait for Tomorrow(1962)や『変わりなし』差不多 More or Less(1964)の作者であり、銭運達(チェン・ユンター) Qian Yunda(1929年1月21日〜)は『紅軍橋』紅軍橋 The Red Army's Bridge(1964)を制作した。この映画は農民一揆時代の湖南地方を舞台として、地主に破壊された橋が人民軍の兵士によって再建され、最終的にその橋が国民党軍に対する罠となった話を力強く物語っている。国民党の司令官には辛辣なキャラクター付けがなされた。

 ドローイングアニメーションで最も優れた短編が特偉と銭家駿による『おたまじゃくしがお母さんをさがす』小蝌蚪找媽媽 The Tadpoles in Search of Their Mummy(1960)である。スタイル的には伝統的な水彩画と水墨画の組み合わせを映画に適用した点で特筆すべきである。アニメーションは素晴らしく、ほとんど巨匠の域にまで達している。だが、観客を楽しませるのは、このおたまじゃくしのアニメーションが備えた巧妙な展開である(母親の姿を知らないおたまじゃくが池にいる様々な動物に当てはめるが、最後に母親本人と出会う)。1963年に同じ二人の監督は『牧笛』牧笛 The Cowherd's Flute を制作した。より伝統的なドローイングアニメーションが見られるのが何玉門(ホー・ユーメン) He Yumen(1928年5月8日〜)による『鯉の子たち龍門を越える』小鯉魚跳龍門 The Little Carp's Adventures(1958)、銭家駿による中編『一幅の錦織』一幅僮錦 [The Chwang Tapestry](1959。南宋の古い伝説より)などである。王樹沈(ワン・シューチェン)Wang Shuchen(1931年9月4日〜1991年11月23日)による『黄金の夢』黄金夢 A Golden Dream(1963)は5人の王が国民の血を飲み、黄金やダイヤモンドを食らうことで苦しめ、将軍や税吏、知識人といった悪人が王を補助する。『草原の英雄姉妹』草原英雄小姐妹 The Two Heroic Sisters of the Steppe(1965)は二人の少女が農場の番人に預けられた時に暴風雪から農場を守る物語である。この作品はスタイルこそ伝統的だが、思想的には図式的で、来るべき文化大革命の予兆を示している。

 人形アニメーションもまた活発な分野であった。特徴的なタイプは中国の伝統技法を用いた折り紙の使用である。虞哲光(ユー・チォークァン) Yu Zheguang(1906〜1991)の『かしこいアヒル』聡明的鴨子 The Intelligent Little Ducksはこの種の最初の作品である。この技法を使った多くのフィルムの中には以下のようなものがある。靳夕の『小さな英雄』小小英雄 Small Heroes(この技法初のカラー映画)。万超塵、岳路(ユエ・ルー) Yue Lu(1926年4月11日〜)、章超群(チャン・チャオチュン) Zhang Chaoqun の『龍を彫る』彫龍記 The Carved Dragon(1958。土地で暴れる怪物を退治するため、大工が竜を掘るという古い物語より)。そして靳夕の『孔雀姫』孔雀公主 The Peacock Princess(1963)である。これは中国南西部のタイ族に伝わる古い伝説に基づいており、一人の皇子が超人的な力でしか曲げられない強弓を与えられるという物語である。騒乱の1964年に靳夕は『夜中にニワトリが鳴く』半夜鶏叫 The Rooster Sings at Midnight を制作した。これは紅軍の戦士高玉宝(カオ・ユーパオ) Kao Yupaoの自伝を元にしている。この作品では労働者を搾取する「詐欺師」陳 Chenが仕組んだ陰謀を主人公が未然に防ぐ顛末を語っている。

 戦後の中国アニメーションでもっとも意欲的かつ有名な作品が万籟鳴による長編『大あばれ孫悟空』大閙天宮 Confusion in the Sky である。第一部の公開は1961年で、1964年には第二部がこれに続いた。およそ二年の歳月を費やしたこの映画は『西遊記』を原作としている。ここでは猿王・孫悟空は竜宮で天を支える柱を手に入れ、それを持って天帝に挑戦する。いったんは天上界の官吏となった孫悟空だが、十万の天帝軍から攻撃を受ける。孫悟空は人間性の象徴であり、その勇気と智恵はあらゆる力を上回る。この映画は豊かな背景美術とアニメーション、そして活力の点で記憶すべきものだが、リズムの遅さが欠点となっている。発想の源となったのは仏教壁画や京劇の大衆的イメージなど様々である。『大あばれ孫悟空』は1965年のロカルノ映画祭で上映され、西洋においても好意的に受け止められた。

日本

 復興期の日本でアニメーションは個人・職人レベルから産業レベルへの飛躍を目指した。1945年に約100名のプロが新日本動画社に結集した。その中には山本「早苗」、村田安司、政岡憲三らがいた。だが、この団結の精神は二年で解消した。政岡と山本は共同で日本動画を設立し、政岡の『すて猫トラちゃん』Torachan the Kitten(1947)を制作した。これ以外で言及に値するのが熊川正雄の『ぽっぽやさん のんき駅長』Poppoya-san, the Good-natured Station Master(1948)と古沢秀雄の『小人と青虫』The Dwarf and the Green Caterpillar(1950)である。政岡が引退すると、山本は新たに東映動画の名称でスタジオを再編した。

 この会社は伝統的な制作ラインを続けた。東映動画の最良の作家としては、かわいらしい『こねこのらくがき』The Kitten Artist(1957)を制作した森やすじ(1925年1月28日台湾〜)、後にアートフィルムと大衆作品の双方で有名となる月岡貞夫らがいた。月岡貞夫は1961年に『ねずみのよめいり』The Mouse Marriage でデビューした。この時期の東映で最も大きな成功が長編アニメーション第一作『白蛇伝』The White Snake(1958)である。監督は藪下泰司(1903年2月1日大阪〜1986年)で、以来30年に及ぶ日本アニメーションの巨大な産業的発展の先駆けとなった。

 1953年に持永只仁が中国から日本へ帰国した。持永は瀬尾光世の元アシスタントで、プロパガンダ中編『フクチャンの潜水艦』Fukuchan and the Submarine のスタッフであった。彼は戦争と健康上の理由から満州の実家に移住していた。戦後、中国共産党が上海スタジオの開設に際して持永に協力を要請した。持永はそこで人形アニメーションを専門とした。日本に帰国すると、人形による広告映画や教育映画、娯楽映画を制作した。そのスタッフの中には脚本家の飯沢匡や舞台美術の川本喜八郎(その創造性と名声はまもなく師を凌駕することになる)らがいた。横山隆一も忘れてならない作家である。彼は『フクチャンの潜水艦』の監督であり、後にメジャーの制作会社となるおとぎプロ(1951)を設立した。横山は「個人」映画も手がけ、『ふくすけ』Fukusuke(1957)は一匹のカエルが空に上り、雷様と出会う愉快な物語である。

 大藤信郎はこの時期における唯一のアートフィルム作家であった。1952年に大藤はカラー映画で透かしの効果を得るため、色セロファンを使用することにした(千代紙はすでに時代遅れだと彼は判断した)。彼はそれまでやっていたやり方でセロファンを切り抜き、自分の成功作『くじら』The Whaleの新版を制作した。この作品は1953年のカンヌ映画祭で好評を博した。大藤は1955年にドラマティックな『幽霊船』The Ghost Shipを制作した。これは王子と彼の平和な乗組員たちが海賊に殺され、犠牲者の亡霊が加害者に復讐する物語である。この作品はヴェネツィア映画祭で受賞した。

市川崑

 市川崑は1915年11月20日に三重県宇治山田で生まれ、ウォルト・ディズニーの映画を見ているとき、自分の進むべき道を見出した。後年の回想によると、彼はその中に興味のすべて——映画、絵画、スケッチ——を発見したという。1936年から1937年にかけて、京都近郊の蚕ノ社で小規模なアニメーション部門を備えたJOスタジオが開設され、市川はそこに雇われた。だが、採算性の悪いアニメーションは次第にスタジオの除け者扱いとなり、ついにはスタッフも解散させられた。「私は残されたただ一人でした。そして私はあらゆる作業をやりました。作画、アニメート、撮影、シナリオにいたるまで」と彼は回想している。1939年に市川は第一作『新説カチカチ山』The Hare Gets Revenge Over the Raccoon(1939)を制作した。この作品は作画および構成面で『シリー・シンフォニー』Silly Symphoniesに多くを負っており、音楽の使い方が見事である。

 アニメーション部門が閉鎖されると、市川は実写映画の助監督グループに配属された。1944年にスタジオ(その間に別会社との合同に伴い、東宝映画と改称して東京へ移設していた)は人形映画の制作を決定し、唯一アニメーションの経験があった若い市川を監督に昇進させた。この映画は『娘道成寺』A Girl at Dojo's Temple(1947)という題で、歌舞伎劇の翻案である〔訳注 この映画は操りによるもので、人形アニメーションではない〕。この作品を観ることのできた人間によると素晴らしい作品だったということだが、敗戦国日本における占領アメリカ軍はこの映画の公開を禁止した。今日なお、市川は『娘道成寺』こそが自分のベスト作品だと断言している。1950年代には実写映画の監督に転身した。喜劇作品を数本作った後、1953年に最初の傑作となるドラマティックな『プーサン』Mr. Pu を監督した。1956年には『ビルマの竪琴』The Burmese Harp で国際的な名声を博し、1959年には三本目の傑作『野火』Fires on the Plainsを発表した。市川は黒澤・小津・溝口と並ぶ日本映画の巨匠の一人に数えられる。少数の散発的作品を除いてアニメーションから離れたとはいえ、そのイメージの精密な構成とショットの絵画的バランスは彼の造形力とアニメーション分野における技を証明している。

第16章へ→