カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第13章 西ヨーロッパ
 鉄のカーテンによるヨーロッパの東西分割がアニメーションに与えた影響は、実写映画や他の芸術活動に対するものより大きかった。西欧自由主義経済の中で、アニメーションはその芸術的・経済的な脆弱性のため、映画内の従属的なポジションに追いやられる結果となった。ウォルト・ディズニーの成功の図式を再現すべく、アニメーション作家たちは子供向けの長編映画に狙いを定めたが、これらはイミテーションでしかなかったがゆえに自らの芸術的弱さを露呈させた。

 同時期のアメリカがそうであったように、短編に対する関心が乏しかったため、短編娯楽映画でキャリアを築いたのはほんの一握りの作家にとどまった。アニメーション界に加わった新しい才能はほとんどなく、長年にわたって制作は散発的で、しばしばアマチュアによるものであった。唯一のプラス面が広告映画の発展で、50年代後半にTV放送の開始で急速に台頭した。センスが磨かれ、リニューアルされたのはこの場所であった。広告会社の中には創作活動に出資するものや、(恐る恐るではあったが)エンターテイメントの世界に進出するものもいた。

 反対に東欧では全てが国民映画の再構築へと向けて行なわれ、アニメーションはその一部をなしていた。いくつかのケースでこれはゼロからのスタートを意味した。アニメーションの地勢図にほとんど存在していなかった国々がいきなり表舞台に躍り出た。第一がチェコスロヴァキアで、ユーゴスラヴィアとポーランドがこれに続いた。唯一の製作者・プロモーター・配給者たる国家はある種のアニメーションのみをサポートし、商業主義に対抗して映画を教育目的で使用した。第二次大戦後の15年間、東欧は30年代のソヴィエトアニメーションと似たような特質を共通して持っていた。すなわち、子供向けの作品、教訓的で市民の義務を教える映画である。スタイル面に関しては、少なくとも初期の段階ではいっさいの異端が忌避されていた。

 その後、鉄のカーテンをはさんだ両陣営で少しずつ状況が変化した。だが、文化やイデオロギーの違いより、むしろ作品の内容面の相違点が西欧と東欧の差異を際だたせた。両者の数少ない共通点は実写とアニメーションの分裂であり、これは世界のどこよりもヨーロッパにおいて顕著であった。イタリアなど実写映画の豊かな伝統があった国で少数のアニメーション映画しか作られなかった一方、ベルギーではその正反対だった。ポーランドではワイダ Wajdaやムンク Munkやハース Hasのような実写映画監督に匹敵するアニメーション作家は(ずっと後になるまで)登場しなかった。フランスのヌーヴェル・ヴァーグやイタリアのネオ・レアリズモといった重要な実写映画の潮流はヨーロッパ・アニメーションを触発することもなく、少数の例外を除いてアニメーターが文学・音楽・美術など他の芸術活動から大きな影響を受けることもなかった。

イギリス

 イギリスアニメーションが戦時中に生きながらえたのはプロパガンダと戦時教育映画のおかげである。その一方、それまで制作を支えてきた広告映画はほとんど姿を消した。1940年最大の出来事はハラス&バチェラー Halas & Batchelorとラーキンズ Larkinsという二つのスタジオが創設されたことである。両者とも当初の活動は委託映画が主であった。ハラス&バチェラーは陸軍省や国防省、中央情報局、海軍省のために70本以上の短編を制作した。ビル・ラーキンズ Bill Larkinsはベテランのアンソン・ダイヤー Anson Dyerと短期間共同制作した後、自分の会社をスタートさせた。彼のスタジオは数多くの教育映画を制作し、創始者ラーキンズが去った後も生き残った。ラーキンズはピーター・サックス Peter Sachsやデニス・ギルピン Denis Gilpinと共に先進的なグラフィックによるフィルムを生み出した。これはスタイル革命という点でUPAを先取りしていたとも言われている。ダイヤーの方は数本の反ナチスプロパガンダ映画や三部作の連続もの『リスの戦争』Squirrel War(1947)といった娯楽映画を製作・監督した。ダイヤーは1951年に引退し、スタジオのアニメーターはそれぞれ独立して自分の会社を設立した。

 1944年にJ. アーサー・ランク J. Arthur Rankの会社ゆかりのアニメーターグループがGBアニメーション G.B. Animationを設立した。このグループは当初ささやかな野望でスタートしたが、たちまち拡大して、イギリスにおけるディズニーへの挑戦者と目されるようになった。『白雪姫』Snow Whiteや『バンビ』Bambiを演出したデイヴィッド・ハンド David Hand(1900〜1986)がこのスタジオのトップに指名された。兵役から戻ったばかりの若者たちが30年代のディズニーで行なわれていたような入社試験に続々と合格し、スタジオは二千人のスペシャリストを雇うプランを発表した。立派な訓練計画によってハンドはドン・グレアム Don Grahamのアニメーションの秘密(デザインやキャラクター演技のような)をスタッフに教える職務に就いた。だが、リスのジンジャー・ナット Ginger Nuttとガールフレンドのヘイゼル Hazelをフィーチャーしたシリーズ『アニマランド』Animalandは技術面における高度な達成にもかかわらず失敗した。ハンド自身も告白しているように、これは作り手達の期待ほど面白くなかったのである。アニメーターの中には外国のスタイルを消化しようとするより、それまでのイギリスの伝統を踏襲すべきだと主張するものもいた。このグループは1949年に解散した。

 もう一人のアメリカ人、ジョージ・モレノ George Morenoはフライシャー出身で、ロンドンのタクシードライバーとその車を主人公とした短編をいくつか作った。これは『バブル&スクウィーク』Bubble & Squeakというタイトルで、5話を制作したのみで終わった。

 ジェラード・ホールズワース Gerard Holdsworthは人形アニメーションの分野で活躍した。彼はJ.ウォルター・トンプソン J. Walter Thompsonの広告代理店の元役員で、1930年代にはジョージ・パル George Palのスタッフだった。オランダから連れてきたアニメーター達の協力を得て、ホールズワースは委託フィルムの制作を始めた。ロレックス Rolexのために作られた『ストーリー・オブ・タイム』Story of Time(1951)は現在でも有名である。だが、サン・テグジュペリ『星の王子さま』The Little Princeの映画化に失敗したことが彼の会社に致命的な結果をもたらした。

 非職業作家の中でグラスホッパー・グループ Grasshopper Groupは取り上げるに値する。このグループの創始者であり、リーダーであるジョン・ダボーン John Dabornは、実写俳優をアニメートする手法で1953年から1956年の間に2本の映画を制作した。これが『二人の交際』Two's Companyと『新郎新婦』Bride and Groomである。三本目の『ワンガポールの戦い』The Battle of Wangaporeはキプリング Kiplingの有名なテキストのパロディである。

 ハンガリー出身のペーテル(ピーター)・フォルデス Peter Foldesがデビューしたのもイギリスだった。フォルデス(1924〜)は1946年にイギリスに移住し、1952年に英国映画協会 BFI (British Film Institute) の資金援助を受けて最初のフィルムを制作した。『アニメーテッド・ジェネシス』Animated Genesisと題されたこの映画は、地球上に生きる人命をテーマに、独創的なスタイルを持った刺激的フィルムである。『ショート・ヴィジョン(閃光)』Short Vision(1955)では同じテーマを掘り下げ、核爆発の崖っぷちに立たされている人類を一瞥している。フォルデスは1956年にフランスに移住し、しばらくの間絵画に専念した。彼の最大の武器は華麗なグラフィックスタイルであり、それは最初期の作品でも存分に発揮されている。

プロデューサーとバウハウス:ジョン・ハラス John Halas

 ジョン・ハラス John Halas(ヤーノス・ハラース Janos Halasz)は1912年4月16日ブダペストに生まれた。ブダペストでアニメーションの実験をおこなった後、パリに移り、1936年にはロンドンに移住した。好奇心と冒険心を備えていたハラスは様々なプロジェクトを追求し、そのプロジェクトのため、母国に一時帰国した。そして、第二次世界大戦直前にイギリスに居を構えた。

 1940年にハラスはハラス&バチェラー Halas & Batchelorを設立した。パートナーのジョイ・バチェラー Joy Batchelor(1914年5月22日ワットフォード〜1991年5月14日ロンドン)はイギリス人のアニメーター・脚本家で、後に二人は結婚した。この会社は西欧諸国でもっとも長命で、世界的にも有数の名声ある制作会社となった。

 戦時中の作品の中で高い注目を集めたのが、中東部ヨーロッパ向けに作られた反ファシズム・反ナチのシリーズ作品『アブ』Abuである。1944年から45年には海軍省のための長編映画『操船法』Handling Shipsを制作、1946年から47年には中央情報局のために『チャーリー』Charleyというシリーズを制作した。チャーリーのキャラクターは平均的イギリス市民の人格化で、戦後の立法措置をイギリス国民に解説するための作品である。戦後は社会的広報や教育分野の制作がこの会社の推進力だったため、アートフィルムの分野では1948年の『魔法のキャンヴァス』Magic Canvas一本のみを作るにとどまった。

 『動物農場』Animal Farmはイギリス初の長編アニメーションであり、会社にとってはクオリティ面でも飛躍となる作品だった。ジョージ・オーウェル George Orwellの死から2年後の1951年に、アメリカ人プロデューサーのルイ・ド・ロシュモント Louis de Rochemontがハラス&バチェラーにオーウェルの反スターリニズム小説の映画化を持ちかけた。当初の意図としてはイデオロギー色の強いプロパガンダ映画となるはずだったが、ハラスとバチェラーは一般大衆向けに映画を作ることを主張した。その結果できあがったのは、ある種のディズニーアニメーションにつきまとうマンネリズムとは無縁な大人向けの映画であった。だが、それは政治プロパガンダ映画ではなかった。ジョイ・バチェラーが後年回想したところによると、二人の意図は自由についての映画を作ることであり、それはすでに一つの政治的立場を意味する仕事だった。

 70人以上のスタッフと2年の歳月をかけて『動物農場』は1954年4月に完成した。イギリスの批評家たちはその年のベスト1に推し、「ニューヨーク・タイムズ」New York Times紙は傑作と呼んだ。事実、この映画は一般に受け入れられた演出ルールから逸脱することなく、生き生きとした劇的雰囲気や暗色系の巧みな使用を示しており、自主性や自らのキャラクターを保ちつつディズニーの教訓を学ぶことが可能であることを示した。批評家はオーウェル版の陰惨で冷笑的なエンディングとはかけ離れたハッピーエンドに対して批判的であった。ハラスはこの批判にたいして一つのエピソードを持ち出して反論した。ニューヨークで上映されたときに一人の夫人が泣きじゃくりながら劇場を出て、ハラスの腕に抱きついた。彼女を鎮めるため、ハラスはこれがアニメーションに過ぎないことを思い出させた。「もしこの映画がドラマティックなエンディングだったなら、どんなことが起こったかを想像してごらんなさい」とハラスはコメントしている。

 このときからハラス&バチェラーは確実な信頼を獲得し、このスタジオは長年に渡ってイギリスアニメーションの代名詞となった。1960年にはイギリス初のTVシリーズ『フー・フー』Foo Foo(全33話)や『スニップとスナップ』Snip & Snap(全26話)、『ハバテールズ』Habatales(全6話)を制作した。アートフィルムの作品ではエレガントな形式と新鮮さを備えた『珍説・世界映画史の巻』History of Cinema(1956)やモータリゼーションを面白おかしく皮肉った『オートマニア2000』Automania 2000(1963)がある。『ホフナング物語』The Tales of Hoffnung(1964)の第7部ではハラス自身がホフナングのドローイングを巧みにアニメートした。『ラディゴア』Ruddigoreは55分の中編で、演出はジョイ・バチェラー、原作はギルバート&サリヴァン Gilbert & Sullivanの同名戯曲である。この映画は20世紀初頭のロンドンの雰囲気をユーモラスに表現している。

 1960年代末にこの会社は思い切った方向転換をおこない、コンピュータアニメーションの分野に取り組んだ。これはヨーロッパおよび全世界でもっとも早いスタジオの一つであった。『コンピュータとは何か』What Is a Computer(1969)や『コンタクト』Contact(1974)がその初期の例で、『アウトバーン』Autobahn [Highway](1979)と『ジレンマ』Dilemma(1981)がベストである。1980年代にハラスは絵画の巨匠達(レオナルドからボッティチェッリまで)をテーマにしたセミ・ドキュメンタリーのシリーズを制作した。

 ハラスは自分がバウハウス、特にハンガリーのラースロー・モホイ=ナジ Laszlo Moholy-Nagyの直系の弟子であることを自負していた。バウハウスの目的は産業革命後に社会から疎外されてしまった芸術家を社会の中に再び復帰させることであった。従って、椅子をデザインすることはキャンヴァスに絵画を描くことと芸術的には同等である。作者という概念は共同作業の必要性——時にはチャンス——の中で消滅する。何にもましてバウハウスは機械を信頼し、社会を建設するために心血を注ぎ、その中で機械は人類に奉仕すべきものとして肯定的に捉えられる。これこそハラスがアニメーターとしての技術を社会奉仕のために供した理由であった。後になると彼はアニメーター教育にその身を捧げ、また、アニメーターを共同制作に招くこともおこなった。彼は数え切れないほどの討論会やフェスティバルに参加し、アニメーション文化の普及に尽くした。とりわけコンピュータの利点を啓蒙する責務、あるいは使命を彼は引き受けた。コンピュータがアニメーターを煩わしい手作業から解放し、高度な創造性をもたらしてくれるというのがハラスの意見だった。

 ジョン・ハラスという人物は単なる賢明なプロデューサー・監督という像を超えていた。彼はアニメーション文化の多様な側面を統合し、幅広い分野で活動した。例えばそれは理論・批評・技術に関する著作、アニメーション作品集の編集、ASIFA(国際アニメーション映画協会)の運営などである。漫画映画から教育映画、実験からドキュメンタリーに至る多種多彩な活動、彼の教育を受けた協力者の数(ハロルド・ウィテーカー Harold Whitaker、トニー・ガイ Tony Guy、トニー・ホワイト Tony White、ボブ・プリヴェット Bob Privett、デレク・ラム Derek Lamb、ピーター・フォルデス Peter Foldes、アリソン・デ・ヴェア Alison De Vere、ポール・ヴェスター Paul Vester、ジェフ・ダンバー Geoff Dunbarら)、アニメーションに関して発見した多岐にわたる応用。これらは彼だけに許された領域であり、ハラスはそれを理路整然と実行したのである。

フランス

 アレクセイエフ Alexeieffがソリッド・イリュゾワールの研究をおこなっていた間、バルトーシュ Bartoschは宇宙創生の夢を作品化しようとしていたし、スタレヴィッチ Starewichはインディペンデントの人形アニメーション作家として活動していた。新たな才能が何人が登場し、別の作家たちは戦争中に開発した技法を成熟させた。アルカディ Arcadyは伝統的なアニメーションから特撮に移行し、変わった映像を生み出す機械の発明で有名になった(一例を挙げると、オシロスコープで生成したエクトプラズムをトレースする機械)。1960年には大げさであるがしかし印象的な抽象映画『オーケストラのためのプレリュード、声とカメラ』Prelude pour orchestre voix et camera [Prelude for Orchestra, Voice and Camera]を制作した。一年後には『オンドマーヌ(電波狂)』L'ondomane [Wave Spirit]を完成させた。

 アンリ・グリュエル Henri Gruel(1923年2月5日〜)はアルカディに師事し、1953年に第一作『マルタンとガストン』Martin et Gaston [Martin and Gaston]でデビューした。『ジプシーと蝶』Gitanos et papillons [Gypsies and Butterflies](1954)では子どもの絵を切り紙技法でアニメートした。三年後には最後の作品『モナリザ』La Joconde [Mona Lisa](ボリス・ヴィアン Boris Vian原作)を発表した。『モナリザ』はグリュエルの最高傑作であり、デュシャン Duchampに匹敵する茶目っ気ある偶像破壊の一例である。

 ジャン・ジャベリ Jean Jabely(1921年4月3日〜)もアルカディの弟子で、コラージュアニメーションのパイオニアであり、広告の分野で活躍した。ジャベリは『ちょうちょ』Teuf Teuf(1956)や『色のバラード』Ballade chromo [Colour Ballad](1957)、『彼と彼女』Lui et elle [He and She](1958)などのコメディ作品で注目された。

 アンリ・ラカン Henri Lacam(1911〜1979)は伝統的アニメーションの達人であり、ポール・グリモーの長年にわたる協力者であった。彼は才気溢れる『二枚の羽根』Les deux plumes [The Two Feathers](1957)や『トランプゲーム』Jeu de cartes [Cardgame](1960)を制作した。アルベール・シャンポー Albert Champeaux(1922年11月29日〜)とピエール・ヴァトラン Pierre Watrin(1918〜1990)は『パリ・フラッシュ』Paris-Flash(1958)や『夢の我が家』Villa mon reve [The Villa of My Dreams](1960)といった優れたコメディ映画を共同制作した。オメル・ブケイ Omer Boucquey(1921年8月17日〜)はディズニー調の『シュピネ』Choupinet(1946)で記憶されている。アルベール・ピエール Albert Pierru(1920年8月7日〜)はノーマン・マクラレンからフィルムペインティング技法を学び、その模倣を行なった。ピエールの『サプライズ・ブギ』Surprise boogie(1957)は言及に値する。

 ジャン・イマージュ Jean Imageは質より量の面で驚くべき作品群を残した。ハンガリー出身のイマージュは短編と共にフランス初の長編アニメーション映画である『勇敢なジャンノオ』Jeannot l'intrepide [Fearless Jeannot / Johnny the Giant Killer](1950)を監督した。親指小僧が人食い鬼のジャンノオから仲間の子どもを救うため、虫の国を旅し、一匹のミツバチの助けで邪悪な巨人を倒す物語である。この物語は地味で、キャラクターにもほとんど魅力がないが、全体的には面白く、特に虫の描写は楽しめる。1953年にイマージュは『パリよこんにちは』Bonjour Parisを発表した。これは二羽の愛し合う鳩とエッフェル塔泥棒に関する長編である。イマージュは突出しているとは言えないが、よくできた長編や短編、TVシリーズの制作を続けた。

グリモーと前線からの物語 Paul Grimault

 フランスアニメーションを最も良く代表するのがポール・グリモー Paul Grimaultで、その登場については既に述べた通りである。アフリカ戦線からパリに戻った彼は、エール・フランスから注文された映画のために描いたスケッチやドローイングを再び手にした。これに手が加えられ、『大熊座号の乗客』Les passagers de la Grande Ourseとして生まれ変わった。

 この初めての成功に引き続き、グリモーは『音符商人』Le marchand de notes、『かかし』L'epouvantail、『避雷針泥棒』Le voleur de paratonnerres、『魔法の笛』La flute magiqueといった魅力的な作品群を制作・監督した。

 グリモーを支えたのがジャック・プレヴェール Jacques Prevertで、長年の友人でもあり、1947年の『小さな兵士』Le petit soldatでは脚本家としてレ・ジェモースタジオに参加した。時を置かず、グリモーとプレヴェールは共同で長編『やぶにらみの暴君』La Bergere et le ramoneur〔訳注 原題は「羊飼いの娘と煙突掃除人」の意〕のために作業した。作業に従事したスタッフは百名を超え、制作期間は三年以上に及んだ。この映画はアメリカ製アニメーション映画に対するヨーロッパからの回答となることが期待されていた。だが、制作は1950年に中座し、グリモーの抗議も空しく、パートナーのアンドレ・サリュ Andre Sarrutは完成前に映画を公開することを決定した(五分の一が未完成だった)。訴訟、マスコミと憤慨した知識人による批判もこの映画が未完成版で上映されるのを止めることは出来なかった。失意のグリモーは創作活動を中断してしまった。後にグリモーは作家としてより、むしろプロデューサーとしてひっそりと復活した。

 1967年、グリモーは未完成フィルムのネガを取り戻し、その完成に取り組んだ。その一方で『ダイアモンド』Le diamant [The Diamond](1970。植民地主義に対する巧妙な寓話)や『音楽好きの犬』Le chien melomane [The Music-loving Dog]といった短編制作に従事した。後者は強欲と権力を痛烈かつ効果的に攻撃した作品である。新たに『王と鳥』Le roi et l'oiseau [The King and Mister Bird]と改題された長編映画は1980年に再公開され、名誉あるデリュック賞を受賞した。映画の半分近くは昔の素材から構成されていたが、プレヴェールの了解を得て再構築されたスクリプトをもとに、オリジナルの計画よりドライで成熟した作品に姿を変えて、アニメーション史の中で最も優れた長編の一つとなった。1988年には短編を一本の長編にまとめて『ターニング・テーブル』La table tournante [The Revolving Table]と題した。この実写部分にはジャック・デミ Jacques Demyが協力している。グリモーは1994年3月29日に死去した。

 グリモーのオリジナリティと芸術的個性は確かに彼のグラフィックスタイルや個人的スタイルに由来するが、同時にカリカチュアの伝統の精神を受け継いでいる。その線は曲線的で、アニメーションは「フルアニメーション」であり、背景美術は「実物」さながらである。グリモーはグラフィカルな統合や難解な構成とは無縁である。グリモーの映画は伝統の中にあり、一般大衆の嗜好に応えている。何よりもそれは物語である。グリモーの映画スタイルは動くグラフィックの探求より実写映画の影響(シーン転換やカメラワークの多用)が大きい。

 グリモーの創作の真髄が見出されるのはまさにその物語構造においてである。しばしば登場するテーマが権力や抑圧、不正に直面したときの人間の基本的な善性である。『避雷針泥棒』に登場するニグロ Nigloはちっぽけなキャラクターで(『大熊座号の乗客』や『魔法の笛』も同様)、それがただ美しいからというだけの理由で避雷針を盗みだす。ニグロは二人の間抜けな警官の手から逃れようとするが、彼らにはニグロの行動が理解できない。『かかし』では猫がかかしをだまして、かかしの帽子の下に隠れている鳥を襲おうとする。この猫は平和や美に対するテロリストである。『小さな兵士』では木製の兵士に対する人形の愛が、最終的にびっくり箱の悪魔の邪悪に勝利する。

 このようなテーマ群はフランス人民戦線の誇りとなってきた映画の流れに位置している。カルネ Carne、ルノワール Renoir、デュヴィヴィエ Duvivierといった、いわゆる「詩的リアリズム」である。グリモーはこの運動に遅れて参加し、彼らにシナリオを提供していた人物、すなわちジャック・プレヴェールのサポートと必然的に出会うことになった。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『羊飼いの娘と煙突掃除人』を翻案する際に、プレヴェールとグリモーはオリジナルへの忠実度に重きを置かなかった。彼らはテキストのほぼ全てを再創造した。二人の主人公は愛の使者として彼らの住む王国と戦い、この王国は柔弱で残忍な専制君主がその頂点で支配する垂直な世界(ラング Langの『メトロポリス』Metropolisを見よ)であり、地下に住む普通の人民は決して日の光を見ることができないのである。

スペイン:カタルーニャの活況

 内戦後、アニメーション作家たちは活動を再開し、物資と組織力の不足は避けようもなかったとはいえ、小さな黄金時代を築いた。制作の中心はバルセロナであり、ここでは当時コミックと児童書の出版業が勃興しつつあった。かくしてアニメーションとコミックという二つのグラフィック・アートは共同し、一方から他方へとその活動を移行したり、編集者が制作スタジオを開設したり、印刷物とスクリーン双方に同じキャラクターが登場したりした。以上のような極めて例外的な協調関係は、この時代のアニメーションではスペイン(より正確にはカタルーニャ)に独特のものである。

 1930年代にバグーニャ兄弟 Baguna brothersは制作会社イスパノ・グラフィック・フィルム Hispano Grafic Filmsを設立した。サルバドル・メストレス Salvador Mestres(1910年12月3日ビラノバ・イ・ラ・ヘルトル〜1975年3月バルセロナ)がこのスタジオのアーティスティック・ディレクターだった。彼はアマチュア映画作家として出発し、フアニト・ミロンブレス Juanito Milhombresの冒険短編映画シリーズを発表した。これはカタルーニャではもともとホアン・ミロメス Joan Milhomesという名前で呼ばれたマンガのキャラクターであった。

 1940年に出版業者アレハンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・レゲーラ Alejandro Fernandez de la Regueraはディブソノ・フィルム Dibsono Films〔訳注 "dibsono" = "drawing-sound"〕を設立し、『SOSドクター・マラブ』SOS Doctor Marabu(1940)を公開した。監督はエンリク・「ディバン」・フェラン Enric 'Diban' Ferranで、内戦後初のアニメーションであった。カルロス・フェルナンデス・クエンサ Carlos Fernandez Cuencaは「この時代における最も素晴らしく優美な映画」と賞賛した。

 その後間もなくしてイスパノ・グラフィック・フィルムとディブソノ・フィルムは合併してチャマルティン・アニメーション Dibujos Animados Chamartinになった。この新会社はカタルーニャのベストスタッフを雇い入れ、バルセロナのパセオ・デ・グラシアの中心に位置する、建築家ガウディが設計した有名なカーサ・バトリョに居を構えた。その後三つのシリーズが始まり、数年間続いた。第一のシリーズはドン・クレケ Don Clequeの冒険がもとになっている。これはディブソノ・フィルムが始めたプロジェクトで、フランセスク・トゥール Francesc Tur(1885年バルセロナ〜1960)とギエム・フレスケ Guillem Fresquet(1914年バルセロナ〜)に委託制作された。おっとりしてじっと動かないドン・クレケは平均的人間の典型であるが、強い意志の力を示している。第二シリーズは恐らくより人気があり、擬人化された牡牛のシビロン Civilonが主人公である。演出したのはスタッフの中でももっとも才能があるジョセプ・エスコバル Josep Escobar(1908年バルセロナ〜)である。第三シリーズは『いたずら書き』Garabatos [Scribbles]で、世界的スター——国外(グレタ・ガルボやミッキー・ルーニー)や国内の——をカリカチュア化したアニメーションヴァラエティである。フェランによってスタートしたこのシリーズはその後エスコバルが後を継いだ。カーサ・バトリョの繁栄は1945年に配給の問題と融資者がスタジオをマドリッドに移したいという要求からこの会社が解散して終了した。バグーニャ兄弟は科学映画編集社 Editorial Cientifico-Cinematograficaを創立し、引き続き数年の間教育映画を制作した。

 より小規模な作品としては、二つのシリーズが言及に値する。『托鉢僧ゴンザレス』Faquir Gonzalez(主人公は自分自身の魔法と戦う托鉢僧)は1940年代初頭にホアキン・ムンタニョーラ Joaquim Muntanola(1914年バルセロナ〜)のデザインである。それからJ・ペレス・アロヨ J. Perez Arroyoの『キニート』Quinito(1943〜1947)である。

 最も忘れがたい計画を指揮したのがアルトゥーロ・モレノ Arturo Moreno(1909年バレンシア〜1993年6月25日バルセロナ)で、1920年代には広告分野で働いていた。1942年に自分自身の小さな制作会社ディアルモ・フィルム Diarmo Filmsで短編『荒くれ船長』El capitan Tormentoso [The Boisterous Captain]を制作した。配給元を探していたモレノは 制作・配給会社のバレー・イ・ブライ Balet y Blay社に招かれて長編を一本制作した。それが『ガルバンシート・デ・ラ・マンチャ』Garbancito de la Mancha(1945)で、スペインでは初の、ヨーロッパでも最初期の一本に数えられる長編アニメーションである。ガルバンシート(カスティリャ語で「ヒヨコ豆」の意)はドン・キホーテ的な子供で、弱者の味方として子供喰いの巨人カラマンカ Caramancaと戦う。ガルバンシートを助けるのが山羊のペレグリーナ Peregrinaと妖精で、ガルバンシートは妖精からヒヨコ豆になる力を授かる。詩人のフリアン・ペマルティン Julian Pemartinによる映画の翻案が映画公開と同時に出版された。

 『ガルバンシート』の成功の後、モレノは新たな企画を任された。これが『楽しい休暇』Alegres Vacaciones [Happy Vacations](1948)で、前作で登場したキャラクターはバルセロナのスタジオを離れ、パルマ・デ・マヨルカやバレンシア、アンダルシア、マドリッド、モロッコに行く。三作目にして最後の映画となったのが『タイ・ピの夢』 Los suenos de Tay-Pi [The Visions of Tay-Pi](1951)で、制作はバレ・イ・ブライ、モレノがベネズエラに去ったのを引き継いでオーストリアのフランツ・ヴィンターシュタイン Franz Wintersteinが監督した。物語の舞台はジャングルで、主人公はタキシードを着た猿たちと涙を流すワニたちである。この作品が観客に不評だったため、スタジオは破産することになった。

 その一方、チャマルティンスタジオの元スタッフが集まってエステラ・フィルム Estela Filmsという会社を設立し、ペローのシンデレラ物語を原作とした『昔々』Erase una vez [Once Upon a Time]を公開した。美術監督はアレクサンドレ・シリシ=ペリセ Alexandre Cirici-Pellicer(1914〜1983年バルセロナ)、アニメーション監督はジョセプ・エスコバルである。この映画はそれまで作られたスペイン作品では最高の作品で、批評家にも好評であり、映画専門家から「国益」と言われ、ヴェネツィア映画祭でも賞賛された。ジュゼッペ・フローレス・ダルカイス Giuseppe Flores D'Arcaisは「A.C.ペリセの映画はディズニーの『シンデレラ』よりずっと説得力があった」と回想している。とりわけ背景デザインはカタルーニャの建築や装飾の伝統を受け継いでいると賞賛された。だが、この映画は興行的にはふるわなかった。

 バルセロナ以外で唯一アニメーション面で言及に値するのはマドリッドである。フェルナンド・モラーレス Fernando Moralesは1940年代に数本の作品、『市日』Un dia de feria [Market Day](1941)や『ヘロミンの奇妙な冒険』Una extrana aventura de Jeromin [The Strange Adventure of Jeromin](1942)などを制作した。

 マドリッドではいくつかの人形アニメーションも創作された。サルバドル・ヒホン Salvador Gijonは1936年にアドルフォ・アスナール Adolfo Aznarの『ピポとピパ、ココリンを探す』Pipo y Pipa en busca de Cocolin [Pipo and Pipa in Search of Cocolin]に協力した後、1943年に『人に悪をなさず、悪を恐るるなかれ』No la hagas y no la temas [Do No One Wrong and Fear No Wrong]を製作・監督し、寡作だが長続きした作品歴の最初の作品となった(ヒホンは1970年まで活動した)。もう一人の人形アニメーターがアンヘル・エチェニケ Angel Echeniqueで、ホセ・マリア・エロリエータ Jose Maria Elorrietaとの共作『人形の都』La ciudad de los munecos [Puppet City]が恐らく一番知られている。これは実写とアニメーションを組み合わせた映画である。このように前途を期待されたスタートの後、スペインのアニメーションは活気を失い、再び活性化するのはようやく1960年代になってからだった。

イタリア:長編と実験

 戦時中、二本の長編映画計画が進行した。一番目は『ダイナマイト兄弟』I fratelli Dinamite [The Dynamite Brothers](1949)というタイトルで、ニーノ・パゴー Nino Pagotと何人かのアニメーター——オズヴァルド・カヴァンドーリ Osvaldo Cavandoli、オズヴァルド・ピッカルド Oswald Piccardo、ドイツの捕虜収容所から戻ったばかりのトーニ Toni(ニーノの弟)ら——の努力の結晶である。『ダイナマイト兄弟』の各エピソードは兄弟のいたずらな行動に基づき、それらをつなぐのがお茶会のシークエンスで、その中でいたずら兄弟の叔母が友達に兄弟の冒険を物語るという形でまとめられている。エピソードのいくつかを紹介すると、無人島や地獄、あるいはヴェネツィアのカーニヴァルなどが舞台となる。最も面白いパートはカーニヴァルのところだが、地獄のエピソードはその奇妙なオリジナリティと怪奇な雰囲気で特筆に値する。この感覚はニーノ・パゴーのマンガと同じ特質を備えている。

 この映画は興行成績は悪く、制作会社はすぐに広告の分野に転じた。パゴーが成功を収めたのは1960年代にカリメロ Calimeroという黒いヒヨコを生み出したときである。このキャラクターはTVの連作CMで有名となり、その後カリメロはTVシリーズ化された。ニーノ・パゴーは1972年5月22日にミラノで亡くなった。

 戦後に作られたもう一本の長編が『バグダッドの薔薇』La rosa di Bagdad [The Rose of Baghdad]である。七年間の困難な制作期間を経て、1949年に初公開された。制作・監督のアントン・ジーノ・ドメネギーニ Anton Gino Domeneghini(1897年ダルフォ〜1966年ミラノ)は戦前イタリアにおける有名な広告アーティストだった。ドメネギーニは戦争中に自分のスタッフを保持する手段として映画を利用したのである。爆撃のためにスタッフはミラノを離れ、ブレシア地方のボルナートに疎開した。

 その後、この作品は完成し、編集・音楽作業が行われた。キャラクターデザインのアンジェロ・ビオレット Angelo Biolettoは1930年代にペルジーナ社〔訳注 有名なチョコレートメーカー〕の人物像(ある有名コンクールが忘れられないものとした)をデザインして栄光の頂点にあった人物である。背景美術はリビコ・マラヤ Libico Maraja、音楽はリッカルド・ピック・マンジャガーリ Riccardo Pick Mangiagalliである。映画の主題はドメネギーニ自身によるものである。このお伽噺は『白雪姫』にそのいくらかを負っている。ストーリー展開のぎこちなさはあるものの、いくつかの美しいシークエンスを誇っている。ゼイラ姫 Princess Zeilaが夜明けに唄うシーン、蛇の踊り、ラストの花火の祝宴シーンなどである。この作品の興行成績は良好だったが、ドメネギーニは映画制作を続行せず、広告分野に戻った。

 以上二本の映画によって、アニメーションはイタリア映画に色彩をプレゼントした。実写のカラー映画第一号『カラーのトト』Toto a colori [Toto in colours]がやって来たのは1952年になってからである。

 戦争直後で唯一彼ら以外に重要なアニメーション作家としては「ジッバ」Gibbaとして知られたフランチェスコ・マウリツィオ・グイード Francesco Maurizio Guidoがいる。若き自主映画作家であり、ローマでジョッベ Giobbeと働いたときにアニメーションの技術を学んだ。その後、故郷のリグリアに戻り、自主制作を始めた。ナチの占領が終わると、『最後の靴磨き』 L'ultimo sciuscia [The Last Shoeshine]に取りかかった。完成は1947年で、独特の視点を示している。天国に行ってしまった小さな靴磨きの物語を語るに際し、ジッバは喜劇の伝統を捨てようと考えた。センチメンタリズムが好きな彼はアニメーションに高度な感情性とネオレアリズモ的姿勢をもたらそうとした。しかし、彼の努力は結局実現しなかった。ローマに戻った彼はそこで困難な状況に妨げられ、そのアニメーターとしての手腕を十二分に発揮することはかなわなかった。

 二人のマンガ家も注目に値する。アントーニオ・ルビーノ Antonio Rubinoによる『七色』I sette colori [The Seven Colours](1955)とロマーノ・スカルパ Romano Scarpaによる『マッチ売りの少女』La piccola fiammiferaia [The Little Match Girl](1953)である。スカルパはドナルド・ダックのマンガも何作かデザインした。

 1950年代後半にイタリア放送 Italian Broadcasting Corporation(RAI-TV)がCM放送を許可した結果、一気に活動が活発になった。1957年2月3日に広告シリーズの『カロゼッロ(メリーゴーラウンド)』Caroselloが放送を開始した。アニメーターは今やこの分野でずっと仕事ができるようになったのである。簡単に言えば、イタリアアニメーションは『カロゼッロ』から始まったのである。

ルイージ・ヴェロネージ Luigi Veronesi

 この時期に登場した最も重要な作家がルイージ・ヴェロネージ Luigi Veronesi(1908年ミラノ〜)である。イタリアの非具象絵画を代表する作家であるヴェロネージは様々な体験を網羅した。いかなる国際的潮流とも無関係に現代芸術を研究し、色々な国(特にパリ)を旅した彼は、当時最も影響力の強い芸術家に出会った。1930年代にはラースロー・モホイ=ナジ Laszlo Moholy-Nagyの友人となり、バウハウスの徹底的な研究に取り組んだ。彫刻、写真、舞台デザイン、絵画に関わった多芸多才なヴェロネージはついに映画の魅力にとりつかれた。

 ヴェロネージはこう語っている。

「とにかく私は映画の手段を使ってペイントしようと試みた。1936年に『絵画の主題に基づく14のヴァリエーション』Quattordici variazioni su un tema pittorico [Fourteen Variations on a Pictorial Theme]を描き、リッカルド・マリピエーロ Riccardo Malipieroも同じ数の変奏曲を作曲した。1938年には別の連作を制作したが、私は現実の動きが必要だと感じた。しかるにこの連作絵画は虚構の動きしかもたらさないのだ」
 ヴェロネージの最初の映画は非具象によるものであった。

「これは木の人形工場で撮影したドキュメンタリーで、人形でオブジェクトアニメーションをした部分もある。開始したときには抽象映画を試みた。これは色彩と素材に関する単なる実験に過ぎない。このフィルムは20メートルしかない。これに『フィルム No.1』Film N.1と題を付けた。1939年には『フィルム No.2』Film N.2、1939年から40年には『フィルム No.3』Film N.3を制作した。これらの実験は非常に色が豊かだった。『フィルム No.4』Film N.4はより抑制されてはいるが、なおカラフルだ。『フィルム No.5』Film N.5は二色よりなり、補色の緑と赤を基調にしている。黄色は二、三回、赤と緑を素早く交替させる視覚効果のためだけに現れる。『フィルム No.6』Film N.6は黒と赤がベースになっている。1941年末までにもう二本の映画『No.7』N.7と『No.8』N.8を制作して、初期作品の主題に戻った。10年後にようやく『フィルム No.9』Film N.9を制作した。これはシネマテーク・フランセーズのディレクターである友人のアンリ・ラングロワ Henri Langloisのリクエストで作ったものだ。この作品は他ほど幾何学的ではなく、より自由で厳密でない形態を使用している」
 ヴェロネージの作品全体に関しては、寡作な作家の全体像としては限定されているもののなお非凡なものである。現存するフィルムは魅力的な『フィルムNo.4』と『フィルムNo.6』だけで、これらは戦争中アンリ・ラングロワによってシネマテークに保存されていたものである。これ以外は1943年のミラノ空襲によって破壊された。ヴェロネージの見解では、『フィルムNo.5』が最上の作品ということになる。1940年にヴェロネージはアンダーグランドの実験を先取りし、女性の顔を撮影して、その表情がライティングとともに変化する様を作品化した。戦後、ヴェロネージは映画制作をやめ、ペインティングに移行したが、1989年には『フィルムNo.13』Film N. 13を制作した(『No.10』N.10、『No.11』N.11、『No.12』No.12は制作されなかった)。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)

 急速な経済復興に伴い、西ドイツでは娯楽分野や広告・教育作品における臨時的供給が増大した。

 ハンス・フィッシャケーゼン Hans Fischerkoesenは1948年にソヴィエト占領下のドイツを脱出して、メーレム・アム・ラインにスタジオを設立して成功し、このスタジオは彼が1973年に死去した後も存続した。ゲルハルト・フィーバー Gerhard Fieber(1916年ベルリン〜)はウファの美術監督で、1948年、ヴィースバーデンにEOSスタジオを設立した。2年後にはヴィルヘルム・ブッシュ Wilhelm Buschが世紀の転回点に書いた挿絵入り物語の映画化『トビアス・クノップ、若者の冒険』 Tobias Knopp, Abenteur eines Junggesellen [Adventure of a Young Fellow]を発表した。これは意図的に白黒で制作され、ブッシュのグラフィックスタイルを良く保っていた。

 前述の記録映画作家のヘルベルト・ゼッゲルケ Herbert Seggelkeは『線と点のバレエ』Strich-Punkt Ballet [Line-Dot Ballet](1943)でフィルムへのダイレクトペイントを試みた。この種の作品はナチスのイデオロギーでは退廃とみなされたため、このフィルムが公開されたのは1949年になってからだった。1955年にゼッケルケはジャン・コクトー Jean Cocteauやジーノ・セヴェリーニ Gino Severini、エルンスト・ヴィルヘルム・マイ Ernst Wilhelm May、ハンス・エルニ Hans Erniといった画家にポーランド音楽に合わせて同じ技法を使わせた。こうしてできたのがドキュメンタリー『一つのメロディ、四人の画家』Eine Melodie - Vier Mahler [One Melody, Four Painters]である。これはコクトーの解説がついており、制作中の画家の実写映像と彼らの短い実験映像が組み合わされている。面白いことに、一番優れたシークエンスはもっとも無名な画家マイとエルニの部分である。セヴェリーニはヴェロネージ的スタイルの揺れ動く棒を描き、コクトーはアステリスクや点、フィルムに開けた穴を動かした。

 ディール兄弟 The Diehl brothersは戦争で被った破壊から復活し、変わらぬ人気を持ったハリネズミのメッキ Meckiが登場する人形アニメーションを制作した。1950年には長編『いつも幸せ』Immer wieder Gluckを発表、主人公のカスパール・ラリファリ(滑稽なカスパール) Kasperl Larifari [Casper Absurdity]は魔法の花を探して遠い島へ旅に出る。兄弟の三番目にして最後の長編が『瓶の中の悪魔』Der Flaschenteufel [The Devil in the Bottle](1952)で、ロバート・ルイス・スティーヴンソン Robert Louis Stevensonの小説を原作とし、再び主人公として登場するカスパール・ラリファリが実写の俳優と共演する。

 クルト・シュトルデル Kurt Stordelも占領軍のために画家として働くなど、幾多の困難をくぐり抜けて戦争を生き延びた。1948年にハンブルグに居を構え、教育映画とドキュメンタリーに専念した。1950年代には台湾に滞在し、1960年にはドイツのTVのために子供向け作品をいくつか制作した。

デンマーク

 デンマークにおいてストーム=ペテアセン Storm-Petersen以後、実質的にほとんど何も特筆すべきことはなかった。アラン・ヨンセン Allan Johnsenはハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersenの物語をもとに長編『魔法の火口箱』Fyrtojet [The Tinderbox](1943〜46)を制作した。ヨンセンは衣類業者であったが、戦争でビジネスが止まってしまった他の生産業者と同じように、映画に投資しようと決めた。舞台演出家・実写映画監督のスウェン・メトリング Svend Methlingが内容面で指揮を執った。アグファカラーで撮影され、ベルリンで現像されたこの映画は冒険的な企画だった。1945年春、物語の進行と共にヨンセンはソ連占領下のベルリン発の最終列車に間に合い、コペンハーゲンに映画を持参するために列車に乗って旅をした。映画はちょうど1年後に公開されたが、批評は冷たかった。とりわけディズニースタイルに慣れ親しんだ批評家はそうだった。ほぼ40年後に再公開されたときには「驚くべき映画、人を夢中にさせ、アニメートも見事である」と賞賛された。

 1950年代に最も活動的なスタジオは舞台デザイナー・イラストレーター・コミックアーティストのベント・バーフォド Bent Barfod(1920年フレゼリスクベア〜)のものである。1949年に『彼らはあなたを向こう側まで案内する』They Guide You Acrossでデビューした後、自分のスタジオを設立して実験映画や記録映画を注文に応じて制作しながら、さまざまな技法を創造し、挑戦していった。1956年にはカール・テオドア・ドライヤー Carl Theodor Dreyerを主題として『北部に関するいくつかの事』Noget om Nordet [Some Things About the North]を制作した。彼の最良のアニメーション作品は恐らく『法にかく定める』So Be it Enacted(1964)である。これは欧州理事会とデンマーク文化省で受賞した。

フィンランド

 フィンランドで戦争の傷跡は映画にも残り、アニメーションの先駆者によって打ち立てられた短い伝統も失われた。1950年代にアニメーションは特に広告分野で甦った。1950年から1958年にかけて、1938年以来実写映画で活躍していたホルガー・ハリヴィルタ Holgar Harrivirta(1915年10月25日ナストラ〜)はヴィルホ・ピトカマキ Vilho Pitkamaki(1925年9月13日ヘルシンキ〜)の協力を受けて人形アニメーションを制作した。二人のメインキャラクターはネロケイノ教授 Professor Nerokeinoである。トイヴォ・「トピ」・リントクヴィスト Toivo 'Topi' Lindqvist(1920〜)は広告映画を作った。フィンランドで最も影響力のあったアニメーション作家は画家・彫刻家・キネティックアーティストのエイノ・ルーツァロ Eino Ruutsalo(1921年9月19日チューティネン〜)である。1950年代にフィルムのダイレクトペインティングやスクラッチングで作品を制作し、続く十年間も『二羽のめんどり』Two Hens(1963)、『ジャンプ』The Jump(1965)、『プラス・マイナス』Plus Minus(1967)、『ABC 123』ABC 123(1967)などの実験活動を続けた。アニメーションを離れてからはアヴァンギャルド映画やアートシネマで活動を続けた。

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