カートゥーン100年史を完全解説する試みwiki - 第12章 カナダ現象
 ニューヨークで活動したラウル・バレRaoul Barreや、トロントのウォルター・スワッフィールドWalter Swaffieldとハロルド・ピバディHarold Peberdy、ウィニペグのルークスLoucksとノーリングNorlingらの試み(彼らについては不十分な情報しか残っていない)を除けば、カナダの初期アニメーション史を代表するのがブライアント・フライヤーBryant Fryerである。トロント生まれのフライヤーはパリやロンドン、ニューヨークで修行し、ジョン・ランドルフ・ブレイのもとで働いた。1927年にはトロントに戻り、『シャドー・ラフ』The Shadow-laughsというタイトルのシリーズを作ろうと試みた。これは影絵映画だったが、完成できたのは『フォロー・ザ・スワロー』Follow the Swallowと『ワン・バッド・ナイト』One Bad Knightの2本だけだった。1933年には『見張りの水兵』Sailors of the Guardと『さよならベビー布団』Bye Baby Bunting、『ジャックと豆の木』Jack the Giant Killerで再挑戦した。だが、今回の努力は彼の力量を超えていた。フライヤーはロッテ・ライニガーLotte Reinigerの完成度に到達することは適わなかったが、「動きの丁寧な分析と遠近法の効果に関しては見事であった」(ルイーズ・ボーデLouise Beaudet「アニメーション」 『カナダ映画』)

 カナダアニメーションが実質的に誕生した日付はノーマン・マクラレンNorman McLarenの到来にまで遡る。1941年にジョン・グリアソンJohn GriersonからNFBC(カナダ国立映画庁National Film Board of Canada)へ招聘されたマクラレンはまず彼一人だけで、続いてマクラレン自身がスカウト・育成した若手アーティストたちとチームを組んで制作した。その中にはジョージ・ダニング、ジム・マッケイ、ルネ・ジョドワンRene Jodoin、ジャン=ポール・ラドゥスール、イヴリン・ランバートEvelyn Lambart、グラント・マンローらがいた。初期のNFB作品はマクラレンの影響(限られた手段で最大の効果を得ようとする志向)と使える手段自体が欠乏していたことを強く反映している。若者達は地味で安上がりな「実験」アニメーションに集中した。後進に自分の強力な影響を及ぼさないように意識していたマクラレンは彼ら自身のスタイルを探求するように奨励した。

 戦争のせいで制作活動のメインはプロパガンダ映画に向けられた。彼ら小グループもNFBの他のプロジェクトにグラフィックやアニメーションを提供する仕事に取り組んだ。再び平和時の活動に戻る時が来たとき、法律でNFBの新たな方針が決まった。カナダ国民及び海外にカナダのことを紹介し、技術開発をプロモートし、映画界にたいして国家が顧問となるというのがその役目である。アニメーション部門はこの組織の数ある部門の中で財政および製作本数の点では組織の最重要部門ではなかった。しかしながら、間もなくハイクオリティの作品群をいくつも生み出したことで最も海外に知られる部門になった。1966〜67年にはフランス系カナダのマイノリティの需要に応えるために英語部門とフランス語部門に分離した。

 当初のメンバーの中で一番才能に恵まれていたのがジョージ・ダニングGeorge Dunningである。1920年にトロントに生れ、オンタリオ・カレッジ・オブ・アートOntario College of Artを卒業するとそのままNFBに入社した。教育映画を数本演出した後、『荒涼とした放牧地』Grim Pastures(1944)や『三匹の盲目のネズミ』Three Blind Mice(1945)、そして彼の最初の重要な作品『見習い士官ルーセル』Cadet Rousselle(1946)をコリン・ローColin Lowと共同で制作した。『見習い士官ルーセル』はポピュラーソングが原作で、磁石のベースと金属の切り紙で作られた切り紙アニメーションの最初のものの一つである。ダニングはパリに行き、そこでグリモーGrimaultやアレクセイエフAlexeieff、バルトーシュBartoschと出会った。カナダに帰国してもNFBには戻らず、かつての同僚であるジム・マッケイと共同でトロントに制作会社を設立した。1956年にニューヨークにあるボサストウBosustowのUPAに短期間在籍した後、ロンドンに行ってUPAの支社を開設した。その後にロンドンで制作会社を設立した。

 ジム・マッケイJim McKay(1917年ビーヴァータウン〜)は風刺画家の出身で、「ポピュラーソング」Popular Songシリーズに携わり、『ボール転がし』En roulant ma boule(1943)で成果を上げた。マッケイはトロントに本社を持つグラフィック・アソシエイツGraphic Associatesをダニングと共同設立した後、ダニングがロンドンに去ると教育・産業映画に携わった。

 ジャン=ポール・ラドゥスールJean-Paul Ladouceur(1921年モントリオール〜)はマクラレン『隣人』Neighboursの二人の主人公の一人である。この映画が完成して間もなくNFBを去り、CBC(カナダ放送協会Canadian Broadcasting Company)に移った。『隣人』で彼と共演したのがグラント・マンローGrant Munro(1923年ウィニペグ〜)で、技術とアニメーションのエキスパートであり、『空中ブランコの勇敢な若者』The Daring Young Man on the Flying Trapezeを監督した。マンローはNFBを離れたが、『隣人』で「アニメ化」された時はNFBに戻った。

 1950年代の停滞の後、カナダアニメーションは最先端のスタイル・形式を持った前衛的作品を制作できるようになった。それでもやはりNFBの目的は若いアーティストに資金援助をすることよりも公共に奉仕することであった。ある官僚が『過去のつまらぬ気がかり』Begone Dull Careに対して公共の金が役に立たない実験に浪費されたという理由で怒り狂ったというエピソードがある。最も才能に恵まれたアーティストの中には創造性を欠いた仕事に不満を感じ、NFBを去る者もいた。

 ピエール・エベールPierre Hebertはこう書いている。

「戦後、NFBのアニメーション部門のスタイルはラディカルに変容した。一種の専門化が起こったのだ。作品はますます洗練され、精密化した。これに対して、戦時中はアニメーションを作るためにありとあらゆるものを利用しており、セルアニメによる専門的技法は使わなかった。プロフェッショナルな基準が定着すると共に、アニメーションのスタイルよりグラフィックのスタイルを優先するようになった。上手くデザインされた——ややUPA流の——精密な背景がついたフィルムだ」
 カナダのアニメーターは新しいスタイルの提案というカリフォルニアの「反乱」に加わった。何人かのカナダ人作家が「完全な創造の自由」という革命のメッセンジャーとして見なされた。現実はもっと違っていた。つまり、続く十年間にカナダはアニメーションのパトロンとなったのである。

 最後に、1950年代はもう一つの画期的な出来事があった。それはカナダ初の長編アニメーションが誕生したことである。タイトルは『魔法にかけられた村』Le village enchante(The Enchanted Village、1955)で、NFBで学んだ若手作家マルセル&レアル・ラシコMarcel and Real Racicotの努力の結晶である。植民地時代のケベック伝説に基づいたこの作品はアマチュア映画に毛が生えた程度であり、寛大な批評を受けるのがせいぜいであった。

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