文壇の人間が本業の次にどんな関心を抱いているかについて、かつてこんな逸話が語られていた。
20世紀イタリアを代表する詩人がすでに年老いて尊敬を集めていた50年代のこと、初対面の人間にこう自己紹介したそうである。
「カルダレッリと申します。といってもローマのセンターハーフでプレイするあのカルダレッリではなく」
補足
Vincenzo Cardarelli
アニメーションについて語るのは容易なことではない。教養ある読者にとっても予備知識は必要である。これをはっきりさせるためにいくつか例を挙げよう。アニメーションは必ずしも子供のための映画ではないし、アニメーションと漫画はまったく別のものである。さらに、大衆によって消費されるTVアニメはアニメーション全体の制作から見れば一部に過ぎないのである。この映像文明の現代において、アニメーションはいまだに多くの観客や批評家から軽視されている。そのうえ、アニメーションを専門にあつかう歴史書や批評のリストは、映画一般の本に比べて非常に貧弱である。多くの偏見に対して、以下の章でわれわれは次のことを明らかにしたいと思う。それは、アニメーションというアートにはもっと知られる価値があり、豊かでヴァリエーションに富んでおり、アニメーション作家とその作品は現代の中でも最高水準にあるということである。
では、そのように送り手に恵まれ、潜在的な受け皿もあるというのに、そこに断絶があるのはなぜだろうか? もし映画の配給システムが異なっていたら、アニメーションはもっとポピュラーな存在だったはずである。ところが現実問題として、制作の主流は短編なのに対して、マーケットでは長編が有利な傾向にある。結果としてアニメーションは映画館ではほとんど上映されないし、されたとしてもまったくの商業主義的作品であり、質的には劣っている(長編アニメのクオリティはたいていの場合、極めて凡庸である)。一方、もう一つTVというメディアがあるが、これは本来スクリーンのために制作された作品の性格をかなり歪めてしまう上に、作り手に対して金銭的にも不十分である。TVのシリーズアニメについてはTV史やTV美学の中で論議されるべきで、われわれの研究の範囲外である。
以上のことから、アニメーションが“メジャーな”映画とは無関係であり、(いわばそれらと並行して)まったく独自の道を歩んでいる理由がおわかりだろう。実写映画(壮大で華やかな“本物”の題材をあつかう)の流行や文化は、アニメーション作家のインスピレーションにはほとんど影響を与えてこなかった。アニメーション作家は自分たちの流行や文化を作ってきたのであり、これからもそうだろう。
孤立化の行き着く先はアニメーション作家が一種の文化的ゲットーに閉じこめられることである。過去30年間でこの領域は拡大したとはいえ、決してその閉鎖性を失ったわけではない。このゲットーの内側にいる人間はアニメ専門のフェスティヴァルで同じような作品をお互いに見せあい、彼らだけにお馴染みの論議を戦わせるが、外部の人間はまったくカヤの外である。したがって、アニメーション批評家は詳しい注釈や技術解説を提供しなければならない。