『カートゥーン100年史』を元に、あれこれ手を付け加えてゆくwiki。基本的に共同編集者は募集しておりません。

 アニメーションはアメリカにしっかりと根を下ろしたが、それでも製作は産業的可能性の大きい漫画映画に限定されていた。しかし、アニメ産業が花開いていたと考えるのは誤りである。カリフォルニアのディズニーグループを除けば、アニメーション製作はニューヨークの一極集中であり、そこでは数十名の人間が製作会社を設立・統合し、またスタジオからスタジオへ移っていた。彼らは俗に「カートゥーン・ラケットcartoon racket(アニメゴロ)」と呼ばれるものを構成していた。また、大衆の方もこれらのグループが作ったフィルムを愛好していたとは言いがたい。ベテランの多くが後に回想するように、アニメ映画は多かれ少なかれ埋め草だと考えられていたのである。アニメが上映されるかどうかなど観客にとってはどうでもよいことであった。

 もっとも生産的な会社は3つである。1つはフライシャーのグループで、幾度かの組織変更を経て、最後にはパラマウント社に乗っ取られた。パット・サリヴァンのグループは『フェリックス・ザ・キャット』の国内およびヨーロッパでの大成功と賢明なマーチャンダイズ戦略で繁栄した。そして、テリーのイソップス・フェーブルズ・スタジオであるが、これは配給会社のキース=オルビー・シアター・サーキットが90%を所有していた。

 時にはもっとうまみのあるコミック・ストリップの商売をサポートするために、大衆に彼らの好きなキャラクターを忘れさせないようにフィルムが作られることもあった。ニューヨークのアニメーターの世界は閉鎖的な集団であり、かなりの程度「ゲットー」的なメンタリティによって支配されていた。つまり、「ラケット」に所属しない作家はアウトサイダーであり、コミカルなシチュエーションを作ることができないユーモア欠落者の烙印を押されることになったのである。有能なアーティストは嫉妬や軽蔑の標的になり、新参者はアートスクールで学んだり、人体構造を研究したり、性格描写を深めたりする意欲を喪失した。実験や発見への欲求も損なわれた。つまり、フォルム・アクション・動きはルーティン化し、アニメーション習得はストック・アクションと呼びならわされたお決まりの型を習得することを意味した。2、3の例外を除けば、アニメーション産業の流れ作業システム化は会社間の競争をもたらさず、注文の多い消費者を刺激することもなかった。この結果は仲間内だけの近親交配であった。20年代半ばにウィンザー・マッケイが同僚の芸術的衝動の欠如を非難したのは正しかったのである。

 トーキーの発明とウォルト・ディズニーの類まれな成功はこのゲームの規則を根底からくつがえした。古参のアニメーターは最新技術を身に付けるか、さもなくば引退するかの選択を迫られていることに気がついた。マーケットは拡大し、収益と雇用は増大して、この暗い大恐慌の時代に若いアーティストたちはアニメーションにチャンスを求め、その結果アニメーションは彼ら新鮮な才能によって豊かなものとなった。結局、これが一つの産業への巨大なステップであった。そして、これは1931年の「ポピュラー・マガジン」のとある号によれば、2、3年前にはほんの25万ドルで買い取ることができたものだったのである。

フライシャー兄弟 Fleischer Brothers


 マックス・フライシャーMax Fleischer(1883年7月19日ウィーン〜1972年9月11日カリフォルニア州ウッドランド・ヒルズ)はオーストリア系ユダヤ人の次男であり、1887年にヨーロッパからニューヨークに移住した。絵画と小さな機械の発明に興味があったマックスは(1915年頃に)ロトスコープを発明した。これはライブアクションのシーンを1コマ1コマ絵に写し取ることができる仕組みである。弟のジョーJoeとデイヴDaveが彼の協力者であった。この特許が有効となる1917年より前に、マックスはプロデューサーのジョン・ランドルフ・ブレイJohn Randolph Brayに試作の短編を見せた。マックスとブレイは二人がまだ新聞(「デイリー・イーグル」Daily Eagle紙)に重点を置いていた10年前にも会ったことがあった。ブレイはマックスとデイヴを採用した。

 戦争中、マックスは軍の訓練フィルムに従事した。自分のグループのディレクターに抜擢されたマックスは、1919年にココKokoを主人公とするシリーズを産み出した。道化師ココは各エピソードでインク壷から飛び出した(このシリーズは『インク壷から』Out of the Inkwellと題された)。しばらくの間、次のようなフォーマットが標準だった。マックスは画家であり、彼がココを作り出すと、このキャラクターは絵の世界で冒険をしたり、自分の作り手にいたずらをしかけるのである。

 1921年、フライシャー兄弟はブレイを離れ、自分たちのスタジオを設立した。このスタジオは1942年までアメリカおよび世界中でディズニーに次ぐ地位を占めた。この企業はほとんどファミリービジネスだった。デイヴ(1894年6月14日ニューヨーク〜1979年6月25日ハリウッド)が常にナンバー2であり、大まかにはアーティスティック・ディレクターと定義できるポジションにいた。マックスの残りの兄弟、チャールズCharles、ジョー、ルーLou、そして妹のエセルEthelと義弟のシーモア・ニーテルSeymour Kneitelは会社経営のさまざまな場面に加わっていた。

 1924年、アウト・オブ・ジ・インクウェル・スタジオOut of the Inkwell Studio(この会社の本来の名前)が経済的に拡張した結果、マックスはレッド・シールRed Seal配給社を設立し、ここから道化師ココや『ソング・カーチューン』Song Car-tune、ドキュメンタリー、実写のシリーズもの、喜劇映画などの短編映画を配給した。この会社はわずか2年で終わり、その後はパラマウントがフィルムの配給を引き継いだ。製作会社としての活動は継続し、資本に多少の変動があった後、1928年にフライシャー・スタジオFleischer Studiosと改称した。

 『ソング・カーチューン』は「シング・アロング(いっしょに歌おう)」の形式にのっとった短編である。例えば、アメリカの軽演劇の有名曲を観客が唄うというものである。ステージ歌手の代わりに、映画の方で歌に参加するように観客を誘うのである。フライシャー兄弟は「バウンシング・ボール」bouncing ballという方法を導入した。これはスクリーンに写し出される歌詞の上をボールが跳ねて、どの単語を歌えばよいか示してくれるというものだった。手の込んだものになると、ただのボールだけではなかった。ココや他のキャラクターがスクリーンに登場し、歌詞の単語がコミカルな絵に変形するということもしばしばだった。オーケストラやピアニストが曲を伴奏し、数本の短編では例外的にリー・ディフォレストLee De Forestのフォノフィルム・システムPhonofilm systemによって音をシンクロさせた。このシステムのことはあまり知られていないが、少なくとも1924〜25年に4、5本の試作が作られ、その第1作はおそらく『カム・テイク・ア・トリップ・イン・マイ・エアシップ』Come Take a Trip in My Airshipであったと思われる。フライシャー兄弟は新時代を切り開くことはできなかったが、トーキーに雪崩込む他のアニメーターたち全てに先んじていたのである。

 20年代のこれ以外の企画の中には2本の科学教育ドキュメンタリーがつくられ、マックス・フライシャーはこれを誇りとしていた。1つは『アインシュタインの相対性理論』The Einstein Theory of Relativity(1922)、もう1つが『進化論』Evolution(1925、チャールズ・ダーウィンの理論に基づく)である。この2本のドキュメンタリーは部分的にしかアニメは使われていない。

 ココ(Koko、後にKo-Ko)とその犬フィッツFitzが登場するフィルムは、サリヴァン・スタジオの『フェリックス・ザ・キャット』と並び、当時のアメリカの作品の中で最も見事で活気がある。ココは特に明確なパーソナリティを持たない。最大の特徴は陽気な無礼者であることだが(サーカスの道化からの直接的借用)、彼の冒険は常軌を逸した不条理感覚と型にはまらないギャグにあふれている。彼の世界は厳密にグラフィックなものである。すなわち、あらゆる物体はいつでも別な何かになることが可能なのである——なぜならすべてのものはつまるところ描かれたものに過ぎないのだから。この原理は1920年代のアメリカのアニメーターには多少なりとも共有されていたとは言え、最大に表現されていたのがフライシャーのフィルムにおいてであった。ここではキャラクターは常に画家のインク壺の中から出現し、冒険が終わると再びそこに舞い戻るのである。

 フライシャーのスタイルは常に変動したが、それは各アニメーターの「腕前」によるところが大であった(この会社における作業の組織化は、高度に分業化されたトーキー時代においてもなお明確な形態をとらないままであった)。しかし、いくつかの特徴は当初から一種のトレードマークとして存在した。それは「ゴムのような」キャラクターが常に動いているアニメーションであり、またおそらくは遠く中欧に根差したブラックユーモア志向である。

※30年代のフライシャー→(ジャンプリンク準備中の為飛べません)

フェリックス——パットとオットー・メスマー Pat Sullivan, Otto Messmer


 プロデューサーのパット・サリヴァンPat Sullivanは、1960年代末まで、ミッキー・マウス以前のアメリカアニメーションにおける最重要キャラクターである『フェリックス・ザ・キャット』Felix the Catのクリエーターだと考えられていた。スタジオシステムの掟と実際にフェリックスを産み出したオットー・メスマーOtto Messmerの控え目な性格が映画史の中でも最も長い不法取得のケースに寄与したのである。

 オットー・メスマーは1892年8月16日、ニュージャージー州ユニオン・シティに生まれ、1983年10月にニュージャージー州ティーネックで亡くなった。絵画と映画の愛好者だったメスマーは、1914年に漫画家・アニメーターのハイ・メイヤーHy Mayerに出会い、その技術の基礎を学んだ。メイヤーと共にメスマーは広告映画を数本制作した。1915年にパット・サリヴァンがメスマーの腕を認め、開設したばかりの自分の小スタジオに雇い入れた。二人の協力関係はそれから20年間続くことになった。1919年、メスマーは自分の本業の合間に、内職でパラマウントのニュース映画『スクリーン・マガジン』Screen Magazineのためにフェリックスを創り出した。この猫は好評で、メスマーに引き続きこの黒猫を描いてもらうために、パラマウントは一番手っ取り早い方法を選び、パット・サリヴァンのスタジオにエピソードの製作を依頼した。1922年、パラマウントのニュース映画が問題を起こすようになると、サリヴァンはフェリックスの権利を取得した。これ以後、メスマーはたくさんのアニメーターを指揮することになった。その中には、時期はそれぞれ異なるが、ビル・ノーランBill Nolan、ヴァーノン・ジョージ・ストーリングズVernon George Stallings、ラウル・バレRaoul Barre、バート・ジレットBurt Gillet、アル・ユースターAl Eugsterらがいた。15日1本のペースでフィルムは製作され続け、エデュケーショナル・フィルムEducational Filmsによって配給された。メスマーは日曜版の漫画欄にフェリックスの漫画を描くこともやった。

 サリヴァンはアイルランド人で本名をパトリック・オサリヴァンPatrick O'Sullivanといい、1887年にオーストラリアのシドニーで生まれた。各地を放浪し、ボクサーや画家として日銭を稼いだ後に、ニューヨークへ移り、そこでアニメーションに出会い、広告映画を数本制作した。いつも警戒心の強かったチャーリー・チャップリンCharlie Chaplinの承諾を得た彼は、チャップリンを漫画化したキャラクターが登場するアニメシリーズを制作した。サリヴァン自身はビジネス面にかかりきりだったが、自分の会社が制作したグラフィックや映画はすべて自分の名前で出していた。フェリックスの成功はマーチャンダイジングに支えられていた。この現象は後にロイ・ディズニーRoy Disneyによってディズニー社のために発展・完成されることになる。フェリックスのキャラを使ったオモチャ・ぬいぐるみなどが、サリヴァンの利益を増加させた。

 フェリックスはその成功の頂点でスクリーンから姿を消してしまった。パット・サリヴァンは——アルコール中毒で衰弱していた——トーキーへの転換に向けてスタジオを変革するだけの力も決定力も持ち合わせていなかった。1932年に妻が死ぬと、さらに健康を害し、翌年1933年2月15日に彼自身も亡くなった。サリヴァンの財産権が錯綜していたため、メスマーはフェリックスの制作を続けることができなくなってしまった(キャラクターの権利が誰のものなのかをまず決定する必要があった)。メスマーは映画から退き、漫画やイラストに専念した。

 この10年を見渡してみると、フェリックスのような複雑な存在は他にいない。フェリックスは猫であると同時に人間的でもあり、さらには「魔術的」(ここでは「シュールな」という不適当な表現はさけるべき)である。その輪郭は丸みを帯びた愛らしいモティーフと、ずる賢くいたずら好きなことを表わす鋭角的形態の組み合わせである。フェリックスは笑いをとるためにシチュエーションやアクシデントに頼らなかった恐らく唯一の偉大なアニメーション・パントマイムのケースである。彼が心配や考え事でぐるぐる歩き回る姿は未だに知られている。チャーリー・チャップリンのアニメバージョンの経験により、適切なタイミングで使われた動きや典型的ジェスチャーがいかにパワフルでユーモラスなテクニックであるかをメスマーは理解していたのである。フェリックスのグラフィックワールドの中で、あらゆる要素が難なく使われることが、このキャラクターのマジックを生み出している。そのしっぽは万能の道具に変形する。フェリックスの上にアニメーターが付けた感嘆符や疑問符は野球のバットや釣り針に変わる。果ては、遠くの家のドアでさえも、遠近を無視して白い壁の入り口として使うことができるのである。フェリックスはこの時代のアメリカアニメーションの全体像の中でも孤立したケースである。それは偉大なシナリオ作家・アニメーター・映画監督がプロのスタッフに支えられて制作し、ユニークなスタイルを生み出したという点である。メスマーのアニメートは地味だがエレガントであり、他のアニメーターの模倣からは決して生まれないものであった。フェリックスのオリジナリティがその創造者に長年の無視を課したのは皮肉としか言いようがない。

テリーと『フェーブル』 Paul Terry


 1921年、ポール・テリーPaul Terryは『イソップス・フェーブル』Aesop's Fablesという新シリーズを始めた。実際はイソップ寓話との共通点はありとあらゆる動物が登場し、話のラストにありきたりの教訓を述べるというだけであった(「3000年前に、イソップはこう言いました…」)。テリーのキャラ、アルファルファAl Alfaじいさん(第2章で既に言及)はこの新しいグループに加わった。毎週1本という息のつまるようなペースで製作されたこの作品は、当時作られたアニメの中でも決して優れたものとは言えなかった。しかしながら、色々な動物やネズミ(その中には1927年版のミッキー・マウスそっくりのものもある)が大量に出るという点で、当時デビューしたばかりのウォルト・ディズニーに影響を与えている。

 テリーは新たに「イソップス・フェーブルズ・スタジオ」Aesop's Fables Studioの看板を掲げた。筆頭株主のキース=オルビー・シアター・カンパニーKeith-Albee Theater Companyが配給を受け持っていたが、1928年に実業家アマデー・J・ヴァン・ビューレンAmadee J. Van Beurenにその権利を売りわたした。新しくやってきたパートナーとのいさかいは1929年にテリー(アニメーターのほとんども)がスタジオを去ることで決着した。テリーとヴァン・ビューレンの不一致の理由は、一つにはトーキーの出現であった。負担と改革に踏み切れないテリーがこれに反対したのである。皮肉にも『蒸気船ウィリー』Steamboat Willieに数週間先駆けてトーキーアニメ第1号となったのはテリーの作品であった。はじめの10年間が過ぎると、テリーはその後のキャリアを特徴づける傾向を見せるようになる。それはスタイル・組織の両面における保守性、可能な限りの節約、配給会社への定期的・正確な引き渡し、等である。全体としては平均的な出来で、たまに創造的なギャグが見られるだけである。

※←10年代のポール・テリー  | 30年代のポール・テリー→
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バワーズ Charles R. Bowers


 チャールズ・R・バワーズCharles R. Bowersは1889年にアイオワ州クレスコに生まれ、青少年時代には場所や仕事を転々と変える放浪生活を送った。アニメに魅せられたバワーズが短期的にラウル・バレRaoul Barreのもとで働いたことは既に述べた。1916年、独立した彼は『マットとジェフ』Mutt and Jeffのシリーズを始めた。力とアイディアに満ちあふれ、だが良心の呵責にも欠けていた彼はバレに対して陰謀を画策したが、反対に会社の唯一のオーナーとして残っていたバッド・フィッシャーBud Fisherに追い出されてしまった。金と力を持っていたフィッシャーは自分が何年も前から生み出し、成功させてきたキャラクターに対して、すべての権利を保有していた。フィッシャーはまた、各フィルムの生みの親としてのクレジットをすべて自分のものとしていた。しかし、実際はときたまスタジオに顔を見せるだけであった。バワーズがフィッシャーの信頼を取り戻すのに時間はかからなかった。彼は再びこのシリーズの制作とデザインに戻り、下請けという立場ではあったが、1919年から5、6年間働いた。バワーズの最も野心的な計画は実写映画に関するものであった(ユニークな精密さで計画した)。1926年から28年に制作・シナリオ・主演・演出をこなした15本の短編喜劇映画ではモデルアニメや人形アニメと共演した。ルイーズ・ボーデLouise Baudetはこう書いている。

 「バワーズが作った『マットとジェフ』シリーズのようなアニメ映画と彼の「ノヴェルティ・タイプ」と呼ばれる喜劇映画とは驚くほど相容れないものがある。両者のシュルレアリスティックな面はさしおいて、2つのスタイルの精神、表現様式、スピリット、そして文体はどう考えても一致しない」
 現存する数本から判断して、バワーズの作品は極めて魅力に富んでおり、高いオリジナリティが特徴である。ボーデによると、
 「…彼はスラップスティックとコマ撮りアニメをほとんど唯一無二のやり方で結合させることに成功した。その風変わりなエスプリは現在の幻想ファンを必ずや喜ばせることだろう」
 バワーズは1928年以来、人前から姿を消した。彼は1945年11月25日にニュージャージーで亡くなった。

ランツ登場 Walter Lantz


 ウォルター・ランツWalter Lantzの才能は1920年代に注目された。ランツは1900年4月27日にニュー・ロシェルのイタリア系の一家(ランツァLanza家)に生まれ、15才のときニューヨークに移った(没年は1994年3月22日、ロサンゼルス)。そしてハーストHearstの「ニューヨーク・アメリカン」New York American紙で働きながら、通信教育で絵を学び、熱心に練習した。この少年の情熱に打たれた編集長モレル・ゴダードMorrel GoddardはハーストHearstが設立したばかりのインターナショナル・フィルム・サービスInternational Film Serviceに彼を送り、そこでまだ16才のランツは24才のグレゴリー・ラ・カヴァGregory La Cavaからアニメを学んだ。ハーストの試みが2年で終わりを告げると、ランツはチャールズ・バワーズのグループに移り、『マットとジェフ』Mutt and Jeffを制作した。1921年、ランツはブレイに雇われた。彼はめきめきと頭角を現わし、1923年にはアニメーション制作と自分のシリーズ『ディンキー・ドゥードル』Dinky Doodle(少年ディンキー・ドゥードルと愛犬ウィークハートWeakheartが主人公)の責任者となった。ランツ本人がこのフィルムにいつも登場し、「実写+アニメ」のパターンが続いた。

 ランツは後にこう回想している。

「私は背も低く、喜劇俳優としての特徴を持ち合わせていなかった。そこで眼鏡をかけてハロルド・ロイドを真似することにした。それでも強力なキャラになることはできなかったが、喜劇俳優にはならずに済んだ」
 4年間ランツはブレイ・スタジオで働き、創作面での牽引車となった。スタジオが閉鎖されると、ニューヨークにはほとんどチャンスがなかったため、ランツはハリウッドで新規巻き返しをはかることにした。彼はしばらく伝説的パイ投げの「王様」マック・セネットMack Sennettのもとで働き、まもなくユニヴァーサルのトップのカール・レムリCarl Laemmleに出会った。レムリはこの若いがプロの腕前を持つアニメーターを気に入って、自分の制作会社にアニメーション部門を組織する責任者として任命した。レムリはチャールズ・ミンツCharles MintzからウサギのオズワルドOswald the Lucky Rabbitのキャラクターを奪い(ミンツ自身が一度はディズニーから奪ったものであったが)、1929年4月にランツに与えた。ランツはためらうことなく、このキャラクターをよりおとなしく細かく描写し、本物の「ウサ公」に近いものに変えた。

※30年代のランツ→(ジャンプリンク準備中の為飛べません)


 ジョン・ランドルフ・ブレイJohn Randolph Brayは1920年代も事業拡大と多角化を続けた。ニュース、実写の喜劇、教育映画に多忙な彼は創造面の責任を次第に他人に任せるようになった(まず、マックス・フライシャー、後にウォルター・ランツ)。アニメの分野における企画としては『ヒーザ・ライア大佐』Colonel Heeza Liarのリバイバル(1922年)からランツの『ディンキー・ドゥードル』Dinky Doodle、そして『アンナチュラル・ヒストリー』Unnatural History(1924年頃にアール・ハードが自分の会社で始めた)まで様々である。リスキーなプロジェクト(コロラド川のドキュメンタリーはクルーの生命を危険にさらし、制作の遅れで裁判沙汰になった)がこのパイオニアのタイクーンのストレスに拍車をかけた。1927年、彼は会社のエンターテインメント部門を閉鎖し、よりつつましいが確実性は高い教育映画に集中した。

※←10年代のブレイ

 アール・ハードEarl Hurdは1920年に独立し、美学的にはよくできたフィルムを制作したが、不成功に終わった。ハードは『アンナチュラル・ヒストリー』の他に『ペン・アンド・インク・ヴォードヴィル・スケッチ』Pen and Ink Vaudeville Sketchesを作った。これは垂れ幕までついている本物の人形劇の中で互いに無関係なエピソードが続くものである。ブレイ・スタジオをやめた後、彼はしばらく姿を消し、1930年代にチャールズ・ミンツのスタジオに加わった。1934年にはディズニーへ移って『白雪姫』Snow Whiteや『ファンタジア』Fantasiaといった映画に従事し、1940年に亡くなるまでそこにとどまった。

 最後にトニー・サーグTony Sargの切り紙アニメーションにも注意を向ける必要がある。イラストレーターである彼はウィリス・オブライエンWillis O'Brienの元パートナー、ハーバート・ドーリーHerbert Dawleyと組んで制作した。サーグがアニメーションにかかわったのは1921〜23年の3年間である。

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アニメーション作品リスト
サイレント映画全作品リスト

第1部(1888−1929)

イントロダクション
アニメーション頌(アレクサンドル・アレクセイエフ)

第1章 アニメーションの起源
・始まり
・エミール・レイノー
・フレーム・バイ・フレーム
・ジェームズ・スチュアート・ブラックトン
・エミール・コール
・ジョルジュ・メリエス
・最初の抽象映画
・アルナルド・ジンナ
・レオポルド・シュルヴァージュ

第2章 アメリカアニメの創生期
・ウィンザー・マッケイ
・産業の創生
・ラウル・バレ
・ジョン・ランドルフ・ブレイ
・その他のアメリカ人作家
・道具と言語

第3章 ヨーロッパの作家たち
・ヴァイマール共和国のアニメーション
・背景
・ハンス・リヒター
・ヴァルター・ルットマン
・ヴィキング・エッゲリング
・ロッテ・ライニガー

フランス
・ロルタック
・CF作家とイラストレーター
・ラディスラフ・スタレヴィッチ
・ベルトルト・バルトーシュ

その他のヨーロッパ諸国
・イギリス
・イタリア
・スペイン
・スウェーデン
・デンマーク
・フィンランド
・ロシア

第4章 アルゼンチン:世界初の長編アニメーション
.リーノ・クリスティアーニ

第5章 アメリカ----トーキーに向かって
・フライシャー兄弟
・フェリックス----パットとオットー・メスマー
・テリーと『フェーブル』
・バワーズ
・ランツ登場
・ブレイ、ハード、サーグ

第6章 ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ

第2部(1930年代)


第7章 ヨーロッパ
・イギリス
・レン・ライ
・フランス
・アントニー・グロス
・イタリア
・ドイツ

第8章 アメリカ:アニメーション西へ
・ランツ:オズワルドからウッドペッカーへ
・アブ・アイワークス
・ミンツ、クレージー・カットとコロンビア
・ヴァン・ビューレン
・テリートゥーンとマイティ・マウス
・フライシャー兄弟:ベティ・ブープとポパイ、2本の長編
・ワーナーブラザーズ:ハーマン&アイジング〜テックス・アヴェリー〜共和制時代
・MGM:ハナ&バーバラとテックス・アヴェリー
・放浪のタシュリン
・アメリカのアヴァンギャルド

第9章 その他の戦前諸国家
・ソヴィエト連邦
・日本
・エジプト

第10章 アニメーションの巨匠達
・ジョージ・パル
・アレクサンドル・アレクセイエフ
・ノーマン・マクラレン
・オスカー・フィッシンガー

第3部(1940−1970)


第11章 アメリカ
・産業
・UPA
・チャック・ジョーンズとワーナーブラザーズ
・テリートゥーン復活
・ウォルター・ランツのオアシス
・MGMとテックス・アヴェリーの黄金時代
・フライシャーからフェイマスへ
・ブーニンの人形アニメーション
・西海岸のアニメーション:実験映画運動
・ジョーダン・ベルソンとマンダラ映画
・ハリー・スミス:天と地の魔術師
・ハイ・ハーシュの謎
・その他の実験作家たち

第12章 カナダ現象


第13章 西ヨーロッパ
・イギリス
・プロデューサーとバウハウス:ジョン・ハラス
・フランス
・グリモーと前線からの物語
・スペイン:カタルーニャの活気
・イタリア:長編アニメと実験
・ルイージ・ヴェロネージ
・ドイツ連邦共和国
・デンマーク
・フィンランド

第14章 東ヨーロッパ

・チェコスロヴァキア連邦共和国と人形アニメーション
・カレル・ゼマン
・イジー・トルンカ
・ユーゴスラヴィア:ザグレブ派第1期
・ポーランド
・ハンガリー
・ルーマニア
・イオン・ポペスク=ゴポと「ピル・フィルム」
・イワーノフ・ワノのソ連

第15章 アジア
・中国
・日本
・市川崑

第16章 ラテンアメリカ
・アルゼンチン
・ブラジル

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