『カートゥーン100年史』を元に、あれこれ手を付け加えてゆくwiki。基本的に共同編集者は募集しておりません。

アンドレ・マルタンAndre Martinはこう書いている。

「1913年以後、アメリカのアニメーションはさながら沸騰(ふっとう)状態だった。様々な運動が同時多発し、影響関係も数えきれない。
監督やアニメーターたちはノミのようにスタジオを渡り歩き、ニューヨークからハリウッドへと移動した。プロデューサーたちは同時に複数のスタジオで制作を手がけ、同じシリーズの作品が異なる配給ルートで上映されていた」
 さらに混乱を招くのは、この時期について確実な情報を得ようとする研究者は劣悪な保存状態のフィルムを取り扱わねばないことである。そこには監督やアーティストのクレジットはしばしば省略されている。その上、アニメーションは大衆の関心をほとんど惹かなかったため、この問題を取り上げたニュースやインタビュー記事はほんの僅かしかない。とはいえ、アニメーションの世界が広いルーツを持たなかったことから考えれば、アメリカのアニメーションは注目すべき現象であり、その主流を確実にたどることができる。

ウィンザー・マッケイ Winsor McCay

 ウィンザー・ゼニス・マッケイWinsor Zenith McCayは天才的な漫画家であり、彼の漫画『夢の国のリトル・ニモ』Little Nemo in Slumberlandは1905年10月15日から「ニューヨーク・ヘラルド」New York Herald紙に連載され、現在もなおコミックストリップの最高傑作の一つである。彼はまたアメリカのアニメーションにおける最初の「古典」作家であった。マッケイは1871年9月26日にミシガン州スプリング・レイク近くに生まれた。同時代の仲間と同じように独学の人であり、看板や舞台の背景画、新聞漫画を描くことから出発した。シンシナティで15年を過ごした後、1903年ジェームズ・ゴードン・ベネットJames Gordon Bennettによってニューヨークに呼ばれた。ベネットはアメリカジャーナリズム界の伝説的人物であり、「ニューヨーク・ヘラルド」紙や「ニューヨーク・イブニング・テレグラム」New York Evening Telegram紙の発行者だった。ニューヨークにおいて、マッケイの名声は早くも頂点に達した。同業者からも尊敬を集め、作品の質と一般受けを両立させることができた。彼は大衆の人気に対する鋭い嗅覚に優れていた。

 1906年6月、マッケイは再びヴォードヴィルの舞台に戻るが、今度は演じる側だった。彼の出し物は「チョークトーク」のタイプで、客の似顔絵を描いたり、「人生の七つの顔」The Seven Ages of Man(2つの顔に少しづつ描き足して年を取らせる)というパフォーマンスだった。11年間に渡るこの巡業活動は成功し、その間も漫画やイラストの活動が止むことはなかった。 

 マッケイがアニメーション第1作を始めたのはこのヴォードヴィル活動のためである。名目としては、漫画家仲間との賭けのために、数千枚の原画を休みなく描き、映画として撮ることに挑戦するはめになった、というものであった。当時知ることの出来たわずかな技術、そして恐らくはジェームズ・スチュアート・ブラックトンの助言を借りて、マッケイは1910年に『リトル・ニモ』Little Nemo を撮影した。1911年4月12日からマッケイは『リトル・ニモ』をヴォードビルの出し物に加えた。この映画は同時に映画館でも上映された。ブラックトンの製作会社であるヴァイタグラフVitagraphは、ブラックトンが撮った「枠」となる導入部分(賭けの模様とマッケイの制作風景を示す)を加えて公開した。

補足


1912年1月、マッケイは『蚊の話』The Story of a Mosquito(別題『蚊はいかにして行動するか』How a Mosquito Operates)を制作した。だが、今回は自分の劇場で披露されている間は映画館で上映されないようにマッケイは要求した。『リトル・ニモ』はまさしく「第1作」である。筋も背景もなく、ほとんどワン・シークェンスのイメージ以上のものではない。その中でイメージ自体がスクリーン上で自分の存在証明をするかのように、実体化し、それから消え失せるのである。この実験性は皮肉で愉快なストーリーを持つ『蚊の話』では克服される。山高帽をかぶった巨大な蚊が酔っぱらいの血を貪り狂い、ついに飲み過ぎた蚊は破裂してしまう。

 マッケイの第1期の特徴は並外れてシャープな作画とアニメーションにある。彼の漫画の豊かでエレガントなアール・ヌーヴォーのスタイルは、簡略化されたものの決して貧弱化してはいない。動きは遅く滑らかで絵柄に完璧にマッチしており、アニメーションの歴史の中でもほとんど類を見ない典雅さを示している。マッケイ自らが制作したことで精魂を傾けることができ、数千枚の原画を用いてアニメーションの滑らかさに細心の注意が払われた(マッケイは旧式のムトスコープを用いて撮影前に原画をチェックした)。

補足


 1914年2月8日、シカゴのパレス・シアターPalace Theaterで彼の最高傑作『恐竜ガーティ』Gertie the Dinosaurが公開された。この映画は一人の調教師と恐竜による類を見ない見世物であった。この巨大な生物は岩陰からうかがい、果物を食らい、湖を飲み干し、マンモスと戯れ、マッケイの命令でダンスした。時には反抗的になり、叱られると泣き出す。アニメーションが素晴らしいだけではなく、この小犬のようなブロントサウルスに与えたパーソナリティもまた驚くべきものがある。ガーティのパフォーマンスはタイミング・演技ともによく出来ており、マッケイを脇役にしてしまった。これを伝える唯一の人物であるエミール・コールEmile Cohlはアメリカからの手紙でこう書いている。

「主演、というよりむしろ独演するのは前世紀の生物です…スクリーンの前では鞭を持ったマッケイが上品に立っています。短い口上の後、調教師のようにスクリーンに向き直るとこの動物を呼びます。(ガーティは)岩陰から姿を現わし、この瞬間、最高のショーが始まるのです…」
 マッケイが連載していた新聞社が『恐竜ガーティ』の見世物に対して独占権を主張したため、彼の演芸活動に終止符が打たれることになった。争いが嫌いなマッケイは、まずその見世物をニューヨークだけに限定し、それからやめてしまったのである。『ガーティ』はプロローグと実写の場面を付け加えて再編集され、1914年の末にウィリアム・フォックスWilliam Foxに映画の配給権が渡された。

補足


 マッケイの次の作品が見られるまでには数年を要した。20分を超える今回の作品は、全く異なるものになった。『ルシタニア号の沈没』The Sinking of the Lusitania(1918年7月)と題されたこの映画は戦時下の歴史で起きた悲劇----1915年5月イギリス船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈された----に基づいている。死者1198名の中には124名のアメリカ市民が含まれていた。アメリカ世論は沸騰し、アメリカの参戦に決定的な役割を演じることになった。憤激したマッケイはドラマチックで綿密なディテールを持ち、人の心に訴えかける映画を作り出した。これは当時のドキュメンタリー映画やニュース映画のリズムやスタイルがとられている。マッケイの特徴である華やかなスタイルはこの映画の倫理的・劇的な主調の中からさえ現れている。例えばそれは波にさらわれる子供の顔が美しく描かれている中にも見ることができる。

 マッケイの残りの完成作や断片の中で最も優れているのは、マッケイが1921年頃に息子のロバートRobertと共同制作した3部作の『チーズの悪夢』Dreams of a Rarebit Fiendである。第1作『ペット』The Petは一匹の犬が巨大化し、都市を徘徊するというストーリーである。第2作『虫のサーカス』Bug Vaudevilleでは擬人化しない昆虫が手品やダンス、自転車乗りなどを披露する。第3作『フライング・ハウス』The Flying Houseでは中年夫婦が自宅に羽根とエンジンを備え付け、宇宙の彼方へ飛び立つ。『虫のサーカス』はオリジナリティも豊かで、うららかで典雅なアニメである。おそらく3本のうちでベストであろう。とはいうものの、この3部作はマッケイの初期作品にははるかにおよばない。紙に描くのをやめてセルを使用したことが芳しくない結果をもたらし、マッケイのインスピレーションとリズムセンスも従来より感じられないのである。

その後、1934年7月26日に亡くなるまでマッケイは漫画とイラストしか制作しなかった。しかしながら、彼は常に自分をアニメーターとみなし、あるインタビューでは自分の映画を一番誇りに思うと語っている。
1920年代にニューヨークのアニメーターたちが食事会を催したとき、マッケイは歯に衣着せぬ言葉で同業者たちにその責任を思い出させた。

アニメーションは芸術であるべきだ、そう私は確信していました。しかし、あなたがたはそれを商売の道具にしてしまったのです…芸術ではなく商売に…残念です

産業の創生

1910年以後、各地でアニメーションのパイオニアたちが出現したが、組織化することはほとんどなかった。ニューヨークがアニメーションの中心地となり、最も繁盛したスタジオが立ち並んだ。これらのスタジオでは作業の合理化がさかんに追求された。

ラウル・バレ Raoul Barre

フランス系カナダ人のラウル・バレRaoul Barreは画家・漫画家であった(1874年1月29日モントリオール生まれ)。2、3年の渡欧の後、バレは1903年にニューヨークに移った。1912年から13年にはウィリアム・C・ノーランWilliam C. Nolanと共にCMアニメを製作・演出し、その後、自分たちで娯楽アニメのスタジオを設立した。それから間もなくして、グレゴリー・ラ・カヴァGregory La Cava、フランク・モーザーFrank Moser、ディック・ヒューマーDick Huemer、パット・サリヴァンPat Sullivanといった人材を獲得した。

 バレは後に標準規格となる動画用紙のパーフォレーションを導入し(絵が揺れるのを防止するため)、スラッシュ・システムを採用した。スラッシュ・システムとは背景を1度だけ描き、キャラクターが動くスペースを空けておいて、その空白部分に切り抜いた用紙を挿入するというものである。キャラクターはその切り抜いた用紙に描かれる。これはアニメーターを当初から悩ませた問題に対するバレの解決案であった。つまりそれぞれの背景の中で行動するキャラクターを描くのに、キャラクターと背景をいちいち描きなおさないようにすることである。

 1915年、バレは『アニメーテッド・グラウチ・チェイサーズ』The Animated Grouch Chasersを制作し、これはエディソン社によって配給された。このシリーズは実写がアニメーションの導入部になっており、俳優が『グラウチ・チェイサー』The Grouch Chaserと題されたカリカチュア・アルバムを読んでいると、これが動き出すというものだった。絵柄は辛辣で故意に醜悪なものになっている。

 1916年、バレはインターナショナル・フィルム・サービスInternational Film Service(これについては後述)から注文を受け、7本の『フェーブル』Fablesを制作した。原作はT・E・パワーズT. E. Powersの漫画である(このシリーズの他のエピソードをヴァーノン・ジョージ・ストーリングズVernon George Stallingsとフランク・モーザーが作った)。同年、チャールズ・バワーズCharles Bowersと組んだバレは、バッド・フィッシャーBud Fisherが生んだ有名な二人組の漫画キャラ、マットとジェフMutt and Jeffの冒険をアニメ化して成功を収めた。バレは精力的に仕事を続けたが、1919年、バワーズにより画策されたと伝えられる陰謀の犠牲になり、以後は仕事を放棄して、ロング・アイランドの田舎家で絵画に没頭するようになった。バレは1926〜27年にパット・サリヴァンのもとで『フェリックス・ザ・キャット』のアニメーターとして束の間復帰した。それからモントリオールに戻り、1932年5月21日に亡くなるまで、絵画と政治風刺に専念した。
アメリカアニメーションの最初の10年間で最も飛び抜けた人物はジョン・ランドルフ・ブレイJohn Randolph Brayである。意思堅固、手練で先見の明に恵まれていた彼がアメリカアニメーションの基礎を築き、その方向を決定付けたのである。1879年8月25日ミシガン州アディソンに生まれ(彼がコネティカット州ブリッジポートで死んだのが1978年10月10日、百歳近くであった)、1906〜7年にはニューヨークで漫画家・イラストレーターとして成功した。ブレイは恐らくウィンザー・マッケイを真似しようとして映画に転身したのだが、その態度はマッケイの芸術性とは大きくかけ離れていた。ブレイにとってアニメーションという世界は金のなる木であった。スタートの瞬間から彼は作業の合理化や不要な労働の省力化、そして製作時間のスピードアップをはかった。

 『画家の夢』The Artist's Dreams(別題『ダックスフントとソーセージ』The Dachshund and the Sausage、1913年7月)のストーリーは、画家がスタジオから席をはずしたとたんに絵が生命を持つというものである。今回は犬の絵で、ソーセージを貪り食ってついにはマッケイの蚊のように破裂してしまう。この中でブレイは同じ背景を手で繰り返し描くかわりに印刷背景を試みている。このフィルムはシャルル・パテCharles Patheの大いに気に入るところとなった。世界の映画界のリーダーであったパテはその時ニューヨークを訪れていたのである。パテはパリ行きを延期して当時若干34才の新鋭ブレイと6本の映画の契約を結んだ。

 この注文を受け、コンスタントに製作するという需要のもとにブレイ・スタジオが設立された。アメリカが第1次大戦に参戦すると、ブレイは政府の資金による教育・訓練映画を始めた。後の第2次大戦におけるウォルト・ディズニーWalt Disneyに通じるこの転身は、ラウル・バレのグループの創設とほぼ同時であったが、その構造はまるで異なるものであった。ブレイ・スタジオは分業化・部門化されていた。今や実業家となったブレイは筆を置き、アニメーターを雇い入れて映画の創作面をまかせることにした。アニメーターはアシスタントやヘルパーを統括した。ブレイは技術革新に力を入れ、2年の間に、3つの特許を出願した。1914年1月の「印刷背景の使用」、1914年7月の「ハーフトーンの影の応用」、1915年7月の「透明なセルに背景を描くこと」である。3つの特許は彼を業界のリーダーにし、ライバルに対して独占を保証した。ブレイはまたアール・ハードEarl Hurdがもたらした危機を即座に回避した。ハードは1914年12月に別の特許を取っていた。実際、ハードのプロセスは単なる選択肢というだけでなく、ブレイの方法より重要度ははるかに大きかった。これはセルのシステムであり、透明なセルロイドシートにキャラクターを描いて、背景画の上にのせるものである。この透明シートは英語で「セル」cel、フランス語で「セリュロ」celluloと呼ばれた(「セルロイド」celluloidに由来)。世界中のアニメはほとんどこの技法で作られることになった。だが、アニメ産業がまだ発展途上の段階で、ハードの発明の重要性はあまり明らかでなかったのである。ブレイはこの発明家/映画作家を雇い、特許のライセンスを売るブレイ=ハード・パテント・カンパニーBray-Hurd Patent Companyのパートナーとした。1932年に特許が切れるまで、この会社には多額の使用料が転がり込んだ。

補足

 
技術の進展はここで終わらなかった。1920年代の末にブレイは最初のカラーアニメーション『猫のトーマスの第1歩』The Debut of Thomas Catを公開した。タイトルが示すとおり、この映画は子猫が登場し、ネズミとりをはじめようとするが、巨大な野ネズミが登場して危機に陥るというものである。映画は成功したが、使われた技術(2色法バイパックのブリュースターカラーBrewster Color)はあまりに費用が高くつくと考えられた。フィルム自体も傷や破損に弱かった。この実験は繰り返されず、再びカラーアニメが試みられるのは10年後のことになる。

 これ以外のブレイ・スタジオのスターには、喜劇的キャラのヒーザ・ライア大佐Colonel Heeza Liarがいる。大佐は禿げで近眼の小男と体格的には貧弱だが、大胆な冒険心にあふれており、ほら男爵的なキャラクターである。最初の冒険『ヒーザ・ライア大佐 アフリカの巻』Colonel Heeza Liar in Africa(1914年1月)では、前アメリカ大統領シオドア・ルーズヴェルトの狩りの様子をパロディ化している(この探検はメディアでも人気のある話題だった)。ヒーザ・ライアは担当アニメーターの違いにより、様々にその姿を変えたが(1930年代以前のアメリカアニメの典型的現象)、常にアグレッシブないたずら者という喜劇的位置付けは変わらなかった。

 ブレイ・スタジオのもう一人の主人公はアール・ハードが産み出した(ブレイと合併した際、一緒に連れてきた)ボビー・バンプスBobby Bumpsである。ボビーは愛犬ファイドと共に日常生活の冒険を行う。ハード(1880年カンザスシティ〜1940年ハリウッド)は当時のアメリカで(マッケイを除き)おそらく最も優秀なアニメーターである。彼の映画は構成も巧みで、独創的なヴィジュアルや上品なユーモアがあり、作画・背景にも注意が払われている。

※20年代のブレイ→

その他のアメリカ人作家


 1916年、ウィリアム・ランドルフ・ハーストWilliam Randolph Hearstのメディア帝国(新聞、ニュースエージェンシー、映画)は、新しい支社インターナショナル・フィルム・サービスを開設した。ハーストはマリオン・デイヴィスMarion Daviesの俳優としてのキャリアを強力に支援した人物として、またオーソン・ウェルズGeorge Orson Welles『市民ケーン』Citizen Kane(1941)のモデルとして映画ファンには知られている。この目的はハーストの系列紙に発表された人気漫画の権利を映画に利用することだった。その漫画とは『おやじ教育』Bringing Up Father『クレイジー・カット』Krazy Kat『ハッピー・フーリガン』Happy Hooligan『カッツェンジャマー・キッズ』The Katzenjammer Kidsである。

 この仕事を担当したグレゴリー・ラ・カヴァGregory La Cavaは、旧友のビル・ノーランBill Nolanフランク・モーザーFrank Moserといったスタッフの協力をうることが出来た。彼らはラ・カヴァがバレのところで働いていたときに知り合った人間たちである。また、新しいスタッフとして、バート・ジレットBurt Gilletウォルター・ランツWalter Lantz、そしてジョージア出身で独学のヴァーノン・ジョージ・ストーリングズVernon George Stallingsがやってきた。初めは順風満帆かと思われたが、インターナショナル・フィルム・サービスは、親会社の方針変更の犠牲になり、2年で閉鎖を余儀なくされた。出来上がった映画はライバルのものを越えられなかった。ハーストがアニメに手を出したことの唯一の成果は、後にそれぞれ開花する才能あるアーティストを世に送り出したことである。

 1915年、ポール・テリーPaul Terryは人気マジシャンのカリカチュアをフィーチャーした『リトル・ハーマン』Little Hermanでデビューした。テリーは1887年2月17日にカリフォルニア州サン・マテオで生まれ、サン・フランシスコで学び、1911年にはニューヨークへ移った。マッケイのヴォードヴィル活動を見た彼は漫画家となる夢を断念し、アニメーターになった。作家としてはあまり才能がなかったテリーは(彼の『リトル・ハーマン』は何度も却下された後、小さな配給会社に小銭で買い取られた)頑固で独立心の強い精神の持ち主だった。

補足

 テリーは時に他のスタジオの下請けをすることはあったが、そのキャリアの大部分は自主制作であった。アニメーションテクニックの使用に対して見解の不一致があったにもかかわらず、テリーは短期間ジョン・ランドルフ・ブレイのもとでアニメーターとして働いた(1920年代にブレイとテリーは、口論の末、裁判沙汰にまでなった)。テリーの最初のメインキャラ、アルファルファじいさんFarmer Al Falfaはブレイのもとでデビューした。アルファルファは禿頭の老農夫で、ひげをはやした好々爺である。このキャラクターは大して進歩もしなかったかわりに、数々の変化をくぐり抜けて1930年代まで生き延びた。

※20年代のポール・テリー→

 ニューヨークの他のアニメ作家の作品についてはあまり資料がない。ハリー・S・パーマーHarry S. Palmerは『ジョーンズ家との交際』Keeping Up with the Jonesesシリーズを作った人物であるが、1916年にブレイから特許の無断使用で告訴されると、ブレイの軍門に下った。パーマーはニュース映画にインサートされる諷刺アニメも制作した。同じような諷刺アニメをユニヴァーサルのために作ったのが、1913年にデビューしたヘンリー・“ハイ”・メイヤーHenry 'Hy' Mayerである。

 ブレイ・スタジオからは何人かの諷刺作家が生まれた。ルイス・グラッケンズLouis Glackens、F・M・フォレットF. M. Follet、レイトン・バッドLeighton Budd(パテ社のニュース映画のために制作)、ジョン・テリーJohn Terry(ポールの兄)、そしてヒュー・M・シールズHugh M. Shieldsである。シールズは1911年にサンフランシスコで実験アニメを作ったという点で特筆される。パーマー同様、ウォレス・カールソンWallace Carlsonも諷刺アニメやシリーズに従事し、エサネイEssanayのために『ドリーミー・ダッド』Dreamy Dud(1912)のキャラを創造した。重要な2名、パット・サリヴァンとオットー・メスマーについては第5章でとりあげる。

 ニューヨーク地区以外でもロバート・シドニー・スミスRobert Sidney Smith(1877〜1935)のパイオニア的活動の記録が残されている。スミスはシカゴ出身の人気漫画家で、『オールド・ドック・ヤック』Old Doc Yak(服を着た雄山羊)が登場するシリーズ第1作が1913年にセリグSeligにより配給された。続く2年間には別のシリーズが登場した。ハワード・S・モスHoward S. Mossは人形アニメのスペシャリストで、同じくシカゴで制作した。彼の『モトイ・フィルム』Motoy Filmは1919年頃につくられ、チャーリー・チャップリンCharlie Chaplinやメアリー・ピックフォードMary Pickford、ベン・ターピンBen Turpinなどの映画スターのカリカチュアに基づくものである。

 人形アニメの分野で1910年代に重要な役割を演じたのがウィリス・オブライエンWillis O'Brien(1886年3月2日オークランド〜1962年11月8日ハリウッド)である。波乱に富んだ青年期の後(オレゴンの古生物発掘を指揮したことさえある)、オブライエンはサンフランシスコの大理石加工場で粘土のモデルをアニメートする方法を発見した。後には粘土の代わりにインドゴムを使い、金属製の骨格を備えたモデルを作った。1915年に最初の短編『恐竜とミッシングリンク』The Dinosaur and the Missing Linkを作った。この映画はエディソン社が買い付け(公開は1年後)、このモデラー兼監督をニューヨークに招いて制作を続けさせることにした。『紀元前1万年の郵便配達夫』RFD 10,000 BC、『前世紀の家禽』Prehistoric Poultry、『モアあるいは大声のウィッフェンプーフ』The Dinornis or the Great Roaring Whiffenpoofのようなアニメ作品以外に、オブライエンは実写の俳優とモデルアニメを組み合わせたフィルムも作っている。1917年の終わりまでに金銭面のトラブルでエディソン社を去り、ニュージャージーの金持ちで、彫刻家であったハーバート・M・ドーリーHerbert M. Dawleyから『ゴースト・オブ・スランバー・マウンテン』Ghost of Slumber Mountainの仕事の依頼を受けた。ドーリーは自分で古代のモンスターをアニメ化しようとしたが失敗していた。彼はこの映画の配収のみならず、芸術的・技術的なクレジットも我が物としようとしたが、頭角を現わしつつあったオブライエンの貢献は明らかであり、沈黙した。

 オブライエンの初期の作品は古代生物のアニメートに現実感があり、素晴らしいものである。だが、芸術作品という観点からは、内容がなく、ユーモアも単純で馬鹿げており、リズムはぎこちなくストーリーもつまらない。一言で言えば、その始まりから、オブライエンは何よりも特撮の巨匠であり、この特質が後に彼の映画『ロスト・ワールド』The Lost World(1925)や『キング・コング』King Kong(1933)、『コングの復讐』The Son of Kong(1933)を成功させることになる。

道具と言語


 ウィンザー・マッケイを除き(彼は例外的なケースである)、1910年代のアメリカアニメを特徴づけるのは、作品の質ではなく、道具や技術的プロセス、そして表現言語の探求であった。1913年、ビル・ノーランははじめてドリーショットを作った。キャラクターはその場にとどまり、背景が足元をゆっくりと動くのである(コマ撮りすることで、キャラクターの方が動くように見える)。また、バレ=バワーズの某アシスタントが背景を入れ忘れ、空中で歩くキャラクターを撮影してしまった。このエピソードから、空中を空しく歩き、事態に気付いたとたんに落下するキャラという連綿と続く系譜が始まったのである。また、ストーリングズは固定机の上で描くことにうんざりして、紙をどの方向からでも描けるように回転するテーブルを発明した。動画用紙をきちんと並べるために色々な道具が試されたが(もっとも信頼性があったのは、いまだにバレのタップ方式であった。これは紙の下部に標準の穴を開けたものである)、問題解決にはなお年数を要した。セルの使用はまれで、たいていはペーパーアニメであった。作業の仕組みとしては、アニメーターがまず水色の鉛筆で動画を描く。これは、当時使われたオルソマティックのフィルムは水色に感じないので、撮影された水色が白色になり、何回でも描き直すことが可能だったからである。次に動画は彩色のアシスタントの手に渡る。アシスタントはアニメーターが(彼らは動きの流れ専門だったので)省略したディテールを追加する作業もおこなった。キャラの特徴や服の細部なども同様である。時として、一人の人間が1本の映画またはシリーズ全体を作ることもあった。理論的には、アニメーターの仕事はアニメーションだけでなく、ストーリー、ギャグを作ることも含まれていた。だが、一般にはスタッフがばらばらに作業を受け持ち、アクションのつながりには注意を払わなかった。この結果、筋のつじつまがあわない、または筋がないというめちゃめちゃな映画が出来上がった。幼稚なその場しのぎの寄せ集めに終わろうとも、とにかく客を笑わせることが原則であった(この原則は翌20年代まで続いた)。

 グラフィック的にはめざましい作品はなかった。丁寧な仕事など理解できない、あるいは関知しない配給会社のために、あわただしいペースで制作されたため、絵柄は洗練されず、アニメートしやすいように丸い単純な形が採用された。また、観客の方も大して期待していなかった。映画という大衆娯楽が提供する他の大多数と同じように、ただ物珍しいというだけのものであった。スクリーンでは、アニメはニュース映画やドタバタ喜劇、エンドレスのシリーズ、そして低レヴェルの劇映画(T・H・インスT. H. InceやD・W・グリフィスを例外として)と共に上映された。アニメーターたちにも野心が欠けていた。彼らは普通独学で、その知識といえば漫画だけしかなく、その商業美術としての技術はファインアートからは程遠いものであった。彼らの作品が「animated drawings」ではなく、「animated cartoons」と呼ばれたのは象徴的である。漫画と漫画映画という二つのアメリカ的形式の関連はスタート地点からすでに明らかだった。アニメーターの多くは漫画家出身であるか、この業界から出発している。また、漫画のキャラクターの多くがそのままスクリーンに登場し、ほとんどの場合、彼らは漫画の特徴である吹き出しで会話をした。

 初期の映画はヴォードヴィルからも影響を受けていた。これは漫画よりも2次的なものだが、その影響はやはり重要である。例えば、画家が絵を描き、それが動き出すという形式がよく使われたが、これはヴォードヴィルの芸人やマジシャンの芸に発するものである。時代が下ってもポピュラーショーはなおアニメーションに影響し続けたが、やがてその役割は実写映画に取って代わられた。

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アニメーション作品リスト
サイレント映画全作品リスト

第1部(1888−1929)

イントロダクション
アニメーション頌(アレクサンドル・アレクセイエフ)

第1章 アニメーションの起源
・始まり
・エミール・レイノー
・フレーム・バイ・フレーム
・ジェームズ・スチュアート・ブラックトン
・エミール・コール
・ジョルジュ・メリエス
・最初の抽象映画
・アルナルド・ジンナ
・レオポルド・シュルヴァージュ

第2章 アメリカアニメの創生期
・ウィンザー・マッケイ
・産業の創生
・ラウル・バレ
・ジョン・ランドルフ・ブレイ
・その他のアメリカ人作家
・道具と言語

第3章 ヨーロッパの作家たち
・ヴァイマール共和国のアニメーション
・背景
・ハンス・リヒター
・ヴァルター・ルットマン
・ヴィキング・エッゲリング
・ロッテ・ライニガー

フランス
・ロルタック
・CF作家とイラストレーター
・ラディスラフ・スタレヴィッチ
・ベルトルト・バルトーシュ

その他のヨーロッパ諸国
・イギリス
・イタリア
・スペイン
・スウェーデン
・デンマーク
・フィンランド
・ロシア

第4章 アルゼンチン:世界初の長編アニメーション
.リーノ・クリスティアーニ

第5章 アメリカ----トーキーに向かって
・フライシャー兄弟
・フェリックス----パットとオットー・メスマー
・テリーと『フェーブル』
・バワーズ
・ランツ登場
・ブレイ、ハード、サーグ

第6章 ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ

第2部(1930年代)


第7章 ヨーロッパ
・イギリス
・レン・ライ
・フランス
・アントニー・グロス
・イタリア
・ドイツ

第8章 アメリカ:アニメーション西へ
・ランツ:オズワルドからウッドペッカーへ
・アブ・アイワークス
・ミンツ、クレージー・カットとコロンビア
・ヴァン・ビューレン
・テリートゥーンとマイティ・マウス
・フライシャー兄弟:ベティ・ブープとポパイ、2本の長編
・ワーナーブラザーズ:ハーマン&アイジング〜テックス・アヴェリー〜共和制時代
・MGM:ハナ&バーバラとテックス・アヴェリー
・放浪のタシュリン
・アメリカのアヴァンギャルド

第9章 その他の戦前諸国家
・ソヴィエト連邦
・日本
・エジプト

第10章 アニメーションの巨匠達
・ジョージ・パル
・アレクサンドル・アレクセイエフ
・ノーマン・マクラレン
・オスカー・フィッシンガー

第3部(1940−1970)


第11章 アメリカ
・産業
・UPA
・チャック・ジョーンズとワーナーブラザーズ
・テリートゥーン復活
・ウォルター・ランツのオアシス
・MGMとテックス・アヴェリーの黄金時代
・フライシャーからフェイマスへ
・ブーニンの人形アニメーション
・西海岸のアニメーション:実験映画運動
・ジョーダン・ベルソンとマンダラ映画
・ハリー・スミス:天と地の魔術師
・ハイ・ハーシュの謎
・その他の実験作家たち

第12章 カナダ現象


第13章 西ヨーロッパ
・イギリス
・プロデューサーとバウハウス:ジョン・ハラス
・フランス
・グリモーと前線からの物語
・スペイン:カタルーニャの活気
・イタリア:長編アニメと実験
・ルイージ・ヴェロネージ
・ドイツ連邦共和国
・デンマーク
・フィンランド

第14章 東ヨーロッパ

・チェコスロヴァキア連邦共和国と人形アニメーション
・カレル・ゼマン
・イジー・トルンカ
・ユーゴスラヴィア:ザグレブ派第1期
・ポーランド
・ハンガリー
・ルーマニア
・イオン・ポペスク=ゴポと「ピル・フィルム」
・イワーノフ・ワノのソ連

第15章 アジア
・中国
・日本
・市川崑

第16章 ラテンアメリカ
・アルゼンチン
・ブラジル

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